UCLA医学部教授になっていた同級生

 東京医科歯科大学は2年生までを千葉県市川市の教養部で過ごすことになっていました。クラスは1学年3クラス。名字のアイウエオ順でカ行くらいまでが、Aクラスでした。医学部80名、歯学部80名で、各クラス医学部半分、歯学部半分で合同授業を行っていました。ですから最初の2年間は医学部の学生ともクラスメートだったのです。

 歯学部では卒業後5年おきに同窓会をやっていますし、その合間に教授就任のお祝いとか、何年かに1度は会って情報交換しておりますが、医学部の人達の情報はあまり入ってきませんでした。ましてや外国に行っている人は余計に何をやっているのかわかりません。

 今回一人の同級生の消息がわかり、そのポジションに驚きました。

笠原典之君

 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)

 医学部内科学分子医科薬理学教授

他に

 国際癌細胞遺伝子治療学会・会長

 UCLA消化器疾患研究所遺伝子導入ベクター・中央施設長

 日本では50そこそこで学会の会長になるなんてありえないことです。しかも国際学会の会長だなんて驚きです。きっとすごい論文を書いたのでしょうね。彼は帰国子女でバイリンガルでした。当たり前のように留学したのでしょう。優秀なのは英語だけではなかったようです。気のいい奴というイメージしか残っていませんが。益々のご活躍を期待しております。

ハーバード大学医・歯学部と東京医科歯科大学と

 ボストンついでにもう1題。

 最近、歯科同窓会報と一緒に「東京医科歯科大学・ハーバード大学医学教育提携10年史」と題された小冊子が届きました。これによると10年前からハーバード大学と医学教育提携を結び、ハーバード方式を学ぶために、この10年間で130人の教員と70名以上の学生がハーバード大を訪れたそうです。アメリカの医学部歯学部の教育は一般の4年制の大学を卒業後、4年制の医学部歯学部に入りなおすそうです。ハーバード大学では4年間の教育課程のうちの2年間、臨床実習以外の教育を医学部と歯学部と一緒にやっているそうです。2009年にハーバードで医学部と歯学部の学生が机を並べて、同じ教育を受けている姿を見た院長の同級生森山啓司東京医科歯科大学教授は医科歯科でも同じことはできないかと考えたそうです。一緒に行っていた医学部の教官に話をしたところ、予想以上に好意的な反応だったそうです。

 院長の先輩たちの頃は医学部の解剖の教官である三木成夫先生の講義を歯学部の学生が聞いたり、わりと共同でやっていたようなのですが、院長が教育を受けた時は、歯学部は歯学部の口腔解剖学の教官が教えていました。医学部の教官の講義は皮膚科など医学部独自の授業だけでした。

 森山教授が帰国後、その報告・提案に大山喬史学長や他の教官も興味を持ち、とんとん拍子で話が進み、2011年より新システム「医歯学融合教育」がスタートしているそうです。このシステムでは6年制の2年次から専門科目を導入し、融合科目では頭頚部基礎・臨床、老年医学、包括医療、基盤教育など医科と歯科の双方にかかわる分野を一緒に学び、最後の2年ぐらいを別々に、それぞれ独自の教育を行うようです。

 ダブルライセンスの可能性についても言及されていました。ダブルライセンスとは以前にも触れましたが、医師と歯科医師両方のライセンスを持っていることです。現行の方式では、うまく編入学できても3年生からの4年間の延長教育が、再入学ならば6年間の延長教育が必要でした。院長の同級生の丹沢秀樹千葉大医学部口腔外科教授も千葉大医学部を出てから、編入学してきました。千葉大で履修した、医学系の基礎科目は講義、実習、試験も免除でしたが、何教科かの歯科系基礎科目の履修のために、一年が必要でした。一人だけ特別に講義を受ける訳にいかないからです。どうしても最低4年の延長教育期間が必要だった訳です。

 新制度になれば、最後の2年間だけ別の教育を受けるわけですから、法整備ができれば、2年間の充実した延長教育だけでダブルライセンスが取れる可能性が生まれます。ハードルが一気に下がります。これぞ画期的な改革と言えるのではないでしょうか。医科歯科がどんどん良い方向にいっている気がして同窓生としてはうれしい限りです。同級生の森山教授がまたいい仕事をしたのもうれしく思いました。

出島に来てたアメリカ船

「ボストン美術館 日本美術の至宝」NHK、2012、P26

 ボストンから北へ車で三十分ほど行った港町セーラムは、捕鯨と貿易により古くから栄え、江戸時代には、ここを出港した船が鎖国下の日本に来ていた。アメリカで最も古くから日本文化との繋がりをもった地である。一七九九年、二十二人の貿易商や船長らによって設立されたセーラム・東インド・マリンソサエティでは、太平洋と東アジアの美術作品や民俗・自然史資料の収集が盛んに行われ、現在のピーボディ・エセックス博物館の礎が築かれた。現在二百四十万点にのぼる博物館のコレクションの中には、江戸時代に日本との交易によって長崎から直接セーラムにもたらされたものも含まれている。アメリカは、太平洋で操業する捕鯨船への補給基地を必要として日本の開国を求めたが、当時、西海岸はまだ発展途上にあり、太平洋貿易を担っていたのは、東海岸の港であった。
 鎖国下の日本から、どのようにしてセーラムに資料がもたらされたのだろうか。西欧に開いた唯一の窓長崎の出島。そこで通商を許されたのはオランダのみだったはずだが、フランス革命の時期には、オランダからの船の派遣が困難となり、出島のオランダ商館は、寛政九年(一七九七)から文化六年(一八〇九)まで、セーラムを出航した米国船がオランダ国旗を掲げてオランダ船を装って出島に入ることを密かに認めていた。長崎で貿易を行っていた米国船籍に関する資料がピーボディ・エセックス博物館に所蔵されているのには、そのような事情があった。
(院長註:大森貝塚を発見したモースはピーボディ・エセックス博物館の学芸員で、ボストン周辺で日本文化の宣伝を相当してくれたみたいです。フェノロサはセーラム出身でハーバード大を首席で卒業後、ボストン美術館附属美術学校で学んだそうです。いろんな事が繋がって来ました。昨日の発表では福岡会場だけで二十万人突破、東京、名古屋会場合わせて百万人の入場者を突破したそうです。院長の興奮も今だ冷めやらずという感じです。)

ボストン美術館展

 年初より念願だったボストン美術館展やっと行く事ができました。すごい人でした。九州国立博物館の駐車場「1時間半待ち」と言われましたので、太宰府天満宮の参道の駐車場に行ってみたら、すんなり止められました。絵巻を見て、これはマンガの原型だなと思いました。12世紀の平安時代からこんなストーリー性のある絵画が楽しまれていたのかと思うと驚きでした。扇絵や屏風絵にも感動しました。本物はやはりすごい。日本文化のレベルの高さを実感しました。九州国立博物館の展示は3月17日(日)まで、その後は大阪での展示で終わりのようです。 

「アメリカのゆくえ、日本のゆくえ」霍見芳浩(ニューヨーク市立大学教授)、NHK出版、2002、P208

ボストン美術館とフェノロッサと岡倉天心

 一九六四年の九月、私は初めてボストンとチャールズ川をはさんだ対岸のケンブリッジに居を占める、ハーバードを訪れた。ボストン側にあるビジネス・スクール(経営大学院)に留学のためだった。

 学校が始まる前の一日、私はボストンヘ行くことがあったらとかねてから望んでいたボストン美術館を訪ねた。ここには、日本では見られない日本の美術品が数多くあることは知っていた。その中でも、「平治物語絵巻」や「雪舟の襖絵」が目当てだった。
 日本美術にうとい私でも、これらの名作が日本文化史や政治史の中での逸品で、日本人として誇れるものであり、世界中の美術愛好者の心を打つ普遍的価値があるというぐらいの知識はあった。ボストン美術館には、浮世絵の素晴らしいコレクションや仏像もあるが、その時は無知な私は知らなかった。
 司馬さんとボストンを訪れるチャンスがあるとしたら、ボストン美術館と日本との関係、特に明治維新直後からの新興日本の「廃仏毀釈」の狂気について、司馬さんの薀蓄に耳を傾けるのは間違いない。

 「廃仏毀釈」の狂気は、一九九〇年代にアフガニスタンの支配権を握ったタリバン勢力が、偶像崇拝を嫌うイスラム教原理主義を信奉して、中世の仏教文化時代の仏像遺跡、特に山岳地帯の砂岩壁に掘られた巨大な仏像を爆破したのに酷似している。このタリバンの狂気は世界中からの仏像保存の哀願をも無視した。しかし、日本人はタリバンの狂気を笑ったが、自分たちの明治の祖先にも似たようなことをしたと気付いた者が何人いただろうか。一九九〇年代には共産主義体制を放棄したロシアや東欧諸国では、群集がスターリンやレーニンの像を破壊した。彼らの心理は、明治初年の廃仏毀釈のそれに似ていた。

 平安朝の頃から、神仏習合の本地垂迹(ほんちすいじゃく)説などが広がって、神仏混合の宗教心が常識となった。ユダヤ教やキリスト教の唯一神教ではなく、シンクレティズム(混合宗教主義)が日本人の精神文化だった。
 しかし、明治維新は、「古代の天皇親政の光栄なる日本の再現」という政治的フィクションを国作りに活用した。「菊が盛えて、葵は枯れる」と俗謡ではやし立てたように、天皇家の宗教の神道が「善」で、徳川将軍家の宗教の仏教が「悪」、という単純なスローガンを、「文明開化」に使った。このために、全国に廃仏毀釈の熱病が広がった。古代からの日本の美術品で「仏臭い」とされたのが毀されたり、捨てられたりした。
 一八七八年(明治十一)、ボストンの美術館の専門学者だった、アーネスト・フェノロッサ(一八五三〜一九〇八年)が東京大学での哲学と社会学、論理学の教授として来日した。セーレム生まれでハーバードを一番で卒業した秀才で、専門の哲学と社会学の素養に加えて、美術への造詣も深かった。
 フェノロッサは、廃仏毀釈の愚行で、古代からの日本の優れた美術や工芸品が捨てられるのに呆れて、この救助のためにと、宮内省と文部省を説得して日本美術品の保存と研究を始めさせた。自分でも収集した。フェノロッサが収集したのが、今では、ボストン美術館にある訳だ。
 フェノロッサに日本の美術品の価値を教えてもらわなかったら、日本文化の所産で世界に誇れるものが、破壊され、捨てられ、消えて失くなったはずだった。
 東京大学でのフェノロッサの学生の中には、三宅雪領(政治思想家)や穂積八束(憲法学者)、坪内逍遥(英文学者)など、その後の日本に貢献した者が多く居た。その一人が、岡倉天心(一八六二〜一九二二年)だった。岡倉天心はフェノロッサによって、西洋と東洋の美術に開眼した。後に、フェノロッサが文部省を説得して設立させた東京美術学校(東京芸術大学の前身)の初代の学長になった。
 岡倉天心は英語にも秀でていたので、後にフェノロッサの縁でボストン美術館の東洋美術部門の顧問として、日米間を往復した。そして、日本はじめ東洋の美術と哲学を欧米に伝えるために、英文での著作に注力した。新渡戸稲造と並んで、日本の精神文化を欧米の知識人に広め、彼らの日本理解を深めた。ボストン美術館に救われたからこそ、平治物語絵巻以下の日本の美術品も今日まで残った。

 

あげまん

「運に選ばれる人 選ばれない人」桜井章一、講談社+α文庫、2007、P90

(前略) あげまんと言われる女性は、相手が持っているよい部分をちゃんと後押ししながらも、気をつけたほうがいいところはサッと指摘できる能力やセンスを持ち合わせています。反対に、さげまんの人は競争意識が激しく妬(ねた)みの強い人です。相手のダメなところをさらに大きくするようなことを、さして自覚もなしにしたりします。
 不安がある限り妬みの感情は誰しもありますが、それが多すぎると相手から運を奪うイヤな人間になります。妬みの感情を抱かないようにするには、自分の中にある不安を打ち消す努力をすればいいのです。他人に勝とうと思うのでなく、自分に勝って自分が強くなる努力をすることです。
 あげまんの人は計算して、そうなろうと思っているわけではありません。どちらかと言うと自分だけよければよいという発想がありません。
 おせっかいからではなく純粋に人のために何かしてあげられるのです。そしてその行為は、円を描いて「運」という形でまたその人に戻ってくるのです。あげまんの人が相手に運を与えるのは、理にかなったことなのです。

 

運に選ばれるために  「運」を円の形にする

 

ジベルばら色粃糠(ひこう)疹

 学生時代、皮膚科の講義を受けた後、皮膚科の病気になりまして、医学部皮膚科を受診しました。予診をとってくれたのがちょうどローテーションで皮膚科に回ってきていた医学部の同級生2人。持っていた金芳堂の小皮膚科書の最初の写真のページと見比べながら、「これじゃないか?これにも似ている。」と早速診断が始まりました。最終的に診ていただいたのは、皮膚科の講義を受け持ってくださったY講師。一目見て、「ジベルばら色粃糠(ひこう)疹。そういえば、試験でジベルが病巣感染が原因と答えたのは歯学部では一人もいなかったよ。講義ではちゃんと言ったはずだけど。」と言われ恐縮しきりでした。後で、耳鼻科を受診し、「病巣感染と言われまして」と言いましたら、診てくださった講師の先生「おー、赤くなっている。ところで、ジベルが病巣感染が原因て誰が言った?」「皮膚科のY講師です。」「他の病因も否定できないはずだけどな。」と首を傾げておられました。

 教室に戻ってから、みんなに伝えなくてはと思い、「ジベルになった。病巣感染が原因と答えられたのが一人もいなかったらしい。」と言いまくっていたら、N君が「僕もジベルになったよ。」と言ってきました。「タバコが原因だと思うけど、どうね?」「僕もそう思う。」と意見が一致しました。どうもタバコが原因で喉の奥に炎症が起きていたようです。

 それにしても「ベルばら」が病名に完全に入ってます。派手な病名もあるものだと。

 ジベルばら色粃糠(ひこう)疹は病巣感染が原因と絶対忘れないと誓いました。今でもはっきり覚えています。

 

モナ・リザ・コード

モナリザ眼瞼.jpg「モナ・リザは高脂血症だった」篠田達明、新潮新書、2003によるとモナ・リザの左の目頭にある黄色いしこりは、粉瘤(アテローム、良性のできもの)かもしれないが、おそらく眼瞼黄色腫だろうということです。コレステロールの血中濃度が高くなくても、局所の代謝異常があれば出来るそうです。脂肪の固まりのようなものと考えていいと思います。あと母斑(皮膚奇形)の可能性にも触れていました。

 

「モナ・リザ 私が描かれた理由」岡庸子、出窓社、2007P68

 私『モナ・リザ』の顔を注意深く見てください。左目の横、鼻筋の陰に「イボ」のような突起物があることに、お気づきでしょうか。これこそが、レオナルドによって埋め込まれた印なのです。
 もし、『モナ・リザ』が、誰かに依頼された肖像画でしたら、画家は、顔にあるこのような突起物を描くことは決してありません。肖像画家は、依頼主をより良く、より美しく描くことが使命だからです。女性の、しかも顔にある傷やイボなどは、依頼主がもっとも気にしているものですから、画家はそれらを取り除いた形で描くのが普通です。ですから、私『モナ・リザ』の顔に、あえて描かれた突起物は、極めて異常なものだということがお分かりでしょう。

 では、レオナルドは、なぜ、こんなものをわざわざ描いたのでしょう。それは、この突起物こそがレオナルド自身を証明するものだからです。
 レオナルドの顔には、若い頃から右目と鼻との間に少し隆起したものがあり、それが歳とともに盛り上がって目立つようになりました。彼は、それを密かに気にしていたので、人に自分の顔を描かせるときは、突起物のない左側の横顔か、それが隠れるような向きでしか描かせませんでした。もちろん鏡に映して自分で描くときも同じです。
 ところが、自らの使命に目覚めてからの最晩年に、突起物のある右側の顔を鏡を使って描いています。老いて、しかもわざわざ突起物のはっきり見える横顔を描いた肖像画の複写がイギリスのウィンザー王室図書館に保存されています。
 レオナルドは、あるがままの自分を受け入れ、あるがままの自分を描く心境に到達していたのです。

 こうして生涯自分の顔とともにあったもの、いつも気にしていた目障りな突起物をレオナルドは人生の最後に見事に役立てたのです。『モナ・リザ』は、レオナルドが自分を鏡に映して描いたものであると証明するために。

モナリザと自画像の比較.jpg

 

 

インテリジェンス(情報収集能力)

「アメリカのゆくえ、日本のゆくえ」霍見芳浩(ニューヨーク市立大学教授)、NHK出版、2002

P60日米インテリジェンス比較
 英語のIntelligenceは、「理解力」や「知能」を指すから、転じて「情報探索」「スパイ行為」「諜報活動」「防諜活動」となる。軍隊用語のインテリジェンス・オフィサーは、諜報や防諜担当の「情報将校」である。コロンビア大学名誉教授(日本文学)のドナルド・キーン博士も、第二次世界大戦中は日本軍捕虜の訊問担当の情報将校だった。
 「情報」とは「資料やデータ」に受け手や探索者自身の「判断」を加えたものであり、この判断や解釈を受け手の自衛策や攻撃策に利用できるほどに練り上げると「インテリジェンス」になる。古来から企業戦略や国家戦略の土台はインテリジェンスであり、インターネット時代にはインテリジェンス活動の道具や手法の性能が、それこそ日進月歩のペースで飛躍する。
 戦略オンチの日本、特に国家戦略の担当者のはずの政治屋や官僚に欠けているのが、「インテリジェンス感覚」だ。目先の権利ダンゴを追いかけ、失敗を隠すだけだから米国や中国そして北側鮮からも嵌(は)められ続けている。
 日本の閣議や省議の内容も米国や中国に筒抜けで、外交折衝の中身も相手に探知される。米国の諜報関係者が「少しも探索のスリルがない」と笑っている。
 日本人ほどひどくはないが、アメリカ人のインテリジェンス感覚も自慢にならない。世界をインテリジェンス感覚とこの利用で上から下までランキングをつけると、私は日本とアメリカは最低のグループに入ると思っている。両国ともにインテリジェンスに不向きの精神文化を持つ。
 「9−11テロ」はアメリカのインテリジェンスの未熟さを暴露した。その前年から、欧英やアルゼンチン、そしてエジプトの諜報機関から、アメリカに対して、「アフガニスタンを本拠とするアル・カイダ・グループがアメリカにテロ奇襲をかける。WTCビルを標的として、今度は旅客機を乗っ取ってカミカゼ(もう世界語になっている)攻撃を行う恐れあり」と繰り返し警告していた。
 こんな警告を受けるまでもなく、すでに九三年十二月にはアル・カイダの侵入テローチームがWTCビル爆砕を狙って、レンタ・カーのトラックに爆薬を積んだものをWTCビルの地下ガレージに仕掛けて、これを破裂させた。また、テロ奇襲直前の夏、国内治安担当のFBI(連邦検察庁)のミネソタとアリゾナ駐在の捜査官が、「アラブ人がアメリカの民間の飛行操縦学校でジャンボ機の操縦を習いたがっている」とワシントンの本庁に報告して、彼らの電話とEメールの傍聴許可を申請していた。しかし、本庁の幹部は事なかれとこの申請を握り潰していた。

(院長註:FBIがあって、CIAがあって、それに米軍も。もっとしっかりした国かと思っていました。こんな国に守られている日本て、どうよ。)

外国人から見た昔の日本A幕末から明治初期

「鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮」ノエル・ぺリン、川勝平太訳、中公文庫、1991

P147

「私はいたるところで子供たちの幸せそうな笑い声を耳にした。そして、一度も生活の悲惨を目にしなかった」−−−ヘンリー・ヒュースケン、アメリカ公使館第一書記、一八五七。

「人々はみな清潔で、食糧も十分あり、身なりもよろしく、幸福そうであった。これまでにみたどの国にもまさる簡素さと正直さの黄金時代をみる思いであった」−−−タウンゼント・ハリス、アメリカ総領事、一八五八。

「私は平和、裕福、明らかな充足感を見出した。またその村落は、イギリス村落にもたち勝るばかりにこの上なく手入れがゆき届いており、観賞用の樹木はいたるところに植えられていた」−−−ラザフォード・オールコック、一八六〇。

「日本に行く目的が日本を文明国にするためである、というのは真実から遠い。なぜならば日本にはすでに文明が存在しているからだ。では、異教徒たる日本人をキリスト教に改宗させる目的で日本に行くのか、と言われれば、これも真実ではない。そうした企ては、わたくしたちが受けいれている条約の規定によって厳しく禁じられているからである。それでは、日本国民の幸福の増進をはかる目的で行くのかといえば、これも違う。なぜかというと、日本国民ほど幸福に充ちた国民は他に存在しないからである。わたくしたちは貿易によって利益をあげるという目的以外はもっていない」−−−エドワード・バリントン・ド・フォンブランケ将軍、一八六一年。

(院長註:明治維新は1868年)

「外国人は日本に数ヶ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。すなわち彼らは日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚いたことに、また残念ながら、自分の国では人道の名において道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を日本人は生まれながらに持っているらしいことである」−−−エドワード・S・モース、東京帝国大学・動物学教授(モースは後にアメリカ科学振興アカデミー会長になった)、一八七七年。

外国人から見た昔の日本@1690〜1692

「日本誌 下」エンゲルベルト・ケンペル、今井正訳、霞ヶ関出版、1989

P458現在日本を支配している将軍綱吉は死後厳有院と呼ばれている先代家綱の子であり、台徳院(院長註:秀忠)の孫であるが、気宇雄大にして天性勝れ、父方の才徳を一身に享け、国法を厳守し、臣下には極めて寛大である。かれは幼少にして孔子の教えによって薫陶を受け、将軍となってからは、その国民と国柄に適合する政治を行っている。かれの下に全国民は打って一丸となって生活し、神々を敬い、法律を遵奉し、長上に従い、同業に対しては親しい中にも礼儀を正しくしている。

 日本の国民は、世界の他の国民に比べて礼節、道義、技術および優雅な挙措の点で勝れたものを持ち、繁盛する国内の商売、豊穣な沃土、強健な身体、勇敢な精神、余剰のある生活必需物資、破られることのない国内の平穏等の諸点で、恵まれた環境に置かれている。日本の国民が今の状態を昔の自由な時代に比べ、あるいは祖国の遠い昔の歴史を回顧すれば、一人の統治者の最高意思によって支配され、他の全世界との共同社会とは切り離され、完全な鎖国制度がとられている現在ほど幸福な時点を見出すことは、たしかにできないであろう。

(院長註:ケンペルはドイツ人医師で、オランダ通商使節団の随行医師として1690年9月から1692年10月まで来日しています。五代将軍徳川綱吉に三度謁見できたそうです。)

「身から出たさび」身体と刀を同一視

「菊と刀」ルース・ベネディクト、長谷川松治訳、社会思想社現代教養文庫、1967

P343(前略)

 アメリカに住む二世たちは、すでに日本の道徳の知識も実践も失ってしまっている。彼らの血の中には何一つとして、彼らに、彼らの両親の出身国である日本の慣習を厳格に墨守させるものは存在しない。それと同様に、日本本国にいる日本人も、新しい時代に際会して、昔のように個人の自制の義務を要求しない生活様式を樹立する可能性をもっている。菊は針金の輪を取り除き、あのように徹底した手入れをしなくとも結構美しく咲き誇ることかできる。
 この精神的自由の増大への過渡期に当たって、日本人は二、三の古い伝統的な徳を頼りとして、平衡を失わず、無事荒浪を乗り切ることができるであろう。その一つは、彼らが、「身から出たさび」は自分で始末するという言葉で言い表わしている自己責任の態度である。この比喩は、自分の身体と刀とを同一視している。刀を帯びる人間に、刀の煌々たる輝きを保つ責任があると同様に、人はおのおの自己の行為の結果に対して、責任を取らなければならない。人は自分の弱点、持続性の欠如、失敗などから来る当然の結果を承認し、受け容れなければならない。自己責任ということは日本においては、自由なアメリカよりも、遥かに徹底して解釈されている。こういう日本的な意味において、刀は攻撃の象徴ではなくして、理想的な、立派に自己の行為の責任を取る人間の比喩となる。個人の自由を尊重する時代において、この徳は最もすぐれた平衡輪の役目を果たす。しかもこの徳は、日本の子供の訓育と行為の哲学とが、日本精神の一部として、日本人の心に植えつけてきた徳である。今日、日本人は、西欧的な意味において、「刀を棄てる」〔降伏する〕ことを申し出た。ところが日本的な意味においては、日本人は依然として、ややもすればさびを生じがちな心の中の刀を、さびさせないようにすることに意を用いるという点に強みをもっている。彼らの道徳的語法によれば、刀は、より自由な、より平和な世界においても、なお彼らの保存しうる象徴である。

 

二つの生意気

「ココロの止まり木」河合隼雄、2003.12.19.週刊朝日P100「生意気」

 大学を辞めてからだいぶ年月が経った。最近は学生に接することもなくなったので、後輩の大学の先生たちに、「近頃の大学生はどうですか」と訊いてみた。「生意気な学生が、ほとんどいなくなってしまいましたね」という答えに、私は「残念ですね」と言い、彼らも同感の様子だった。
 生意気な学生がいなくなって残念、という点については説明が必要と思う。
 生意気とは、年齢や地位の差を全く無視して、自分の知識や考えを表明したりするときに言われる言葉である。大学のセミナーのときなど、教授が話をした後で、「君たちの意見は」と訊いたときに、先輩をさしおいて年少の学生が、「先生のお考えは少しおかしいのではないか」などと言って自説を展開する。言っていることが興味深くても、まず、「生意気な!」という反応を受ける。
 もう少し場所柄、自分の地位などを考えてから、ものを言えというわけで、「小生意気な」という表現さえされる。会社の中で、上司から「小生意気なやつ」と思われたため、その後、損ばかりするということもある。
 では、なぜ生意気な学生かいなくなると困るのか。それは、生意気な学生はあんがい見どころがあり、その後、伸びてゆくのが多いからである。私がかつて奉職していた京都大学では、生意気な学生を苦笑いしながらも尊重するような気風があった。
 「生意気というのはどういうことですかね」と前述の大学の先生に訊いてみる。「何やらわけのわからん自信があることですよ」と言われ、面白い考えだと思う。「生意気」といわれる学生の中にも、自分の立場や場所柄などを大切にしている者はいる。だが、わけのわからん自信に押されて、思わず言ってしまう。したがって、そのときは自分が生意気かどうかなどという判断は消えてしまっている、というときがある。
 そのわけがわからないが突き動かしてくるもの、そこに新しい可能性が潜んでいるのだ。聞いている方も、何かわからんが面白そう、という感じがする。そこを買うのである。そうすると、生意気と思われる学生から、新しい発展につながるようなアイディアが生まれてくる。生意気の背後で、何か未知の可能性がうごめいているのだ。
 これに比して、自分の考えはよい考えだ、こんなことは誰も知らないだろう、と元気に発言するが、そのこと自体は本人が得意に思っているほど大したことではない、という場合がある。こんなのは単に生意気なだけで、無視しておけばよい。
 人の上に立つ者としては、この2種類の生意気を判別する能力を持たねばならない。単純に、生意気に見どころありなどと思っていたら、甘やかしが過ぎて収拾がつかなくなってしまう。
 若者の生意気がなくなってきたのは、若者が反発を感じるような権威的な年長者が少なくなってきたことも理由に挙げられるかもしれない。そうなると、年長者は理解がよくなり、若者は生意気ではなくなり、世の中、なごやかでいいではないか、とも考えられる。
 しかし、なごやかにはなったが、全体として何だかパワー不足ということだと、これでは残念である。

 

オランダ人だけが出島に来られた理由

「ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流」B・M・ボダルト=ベイリー著、中直一訳、中公新書、1994

P5当時オランダ人とポルトガル人・スペイン人は、アジア貿易において互いに覇権を争っており、また両者はヨーロッパ大陸では交戦中であった。だが対日貿易に関してはオランダ人の方が老獪であったと言えよう。オランダ人は、ポルトガル人・スペイン人が犯した唯一のミスにつけこんで対日貿易の場から彼らを締め出すことに成功したのである。−−−とあるポルトガル船がオランダ人に拿捕され、ポルトガル国王の戦争計画書がオランダ人の手に渡るという事件がおこった。ところがこの計画書には、日本のキリスト教信者の協力を得てポルトガルが日本を攻撃し政権を奪取する、という内容が書かれていたので、オランダ人はこの計画書をすぐさま将軍に差し出した。九州の大名たちの中には、伝道士たち(かれらはしばしば、布教に劣らず交易にも熱心だった)に港を開放していた者がいたため、幕府はまず大名たちに疑いの目を向けた。もちろん大名たちは将軍に対して、あらかじめ血判を押して忠誠を誓っていたのだが、外来の宗教であるキリスト教はあたかも地獄の神であるかのように、幕府を苦しめた。追えども追えどもこの地獄の神は、いつも姿を変えては次々に日本人の前に姿をあらわしたのである。この機を逃さず、オランダ人は幕府関係者に対し次のように進言した。「キリスト教の坊主どもを完全に絶滅させなければ、日本はこの危機から逃れることは出来ない」。
 だが幕府関係者の疑念が消えたわけではなかった。かれらはまずこう疑ったのである。「オランダ人もまたキリスト教徒ではないか」。これに対しオランダ人は次のように釈明した。「確かに私たちはキリスト教徒である。しかし信仰の内容が違う。私たちは、ローマ教皇の下に立っているのではない。それどころかカトリックの坊主どもとは対立関係にある。私たちが日本に来ているのは、ただ交易のためだけなのである」。幕府関係者は、ひとまずこの説明に満足した。オランダとの貿易がストップすれば、幕府関係者も舶来の高級な品物を手に入れることが出来なくなるのであり、それはかれらにとっても好ましいことではなかったのである。そうこうするうち、島原でキリスト教徒が最後の捨て身の反乱を起こすという事件がおこった。この事件に際して日本の為政者はオランダ人に対して、かれらの言い分を白日のもとに証明させようと考えた。すなわちかれらはオランダ人に対して、反乱した日本のキリスト教徒に大砲を向けるように依頼したのである。オランダ人の信仰と、反乱した人々の信仰とは、カトリックとプロテスタントの違いはあれ、もとは同じキリスト教である。しかしもはやオランダ人たちには、幕府からの依頼を拒否する道は残っていなかった。結局オランダ人は、自らキリスト教徒に対して大砲を向け、後世の人々から「オランダ人は信仰の同胞を、金とひきかえに犠牲にした」と言われるような振る舞いをせざるを得なかったのである。               

 この一件で、オランダ商人が良心の呵責に悩むこととなったかどうかは分からない。しかしいずれにせよ、充分な見返りがあったことは確かである。これ以後、日本列島という憧れの土地に公式に立ち入り、唯一の対外開放港である長崎に商船を定期的に送り込むことが許されたのは、中国人とオランダ入だけになったのである。

(院長註:下の文章と違って、やはりポルトガル人による日本征服計画はあったのですね。最後の銃撃戦である一六三七年の島原の乱以降、幕末までの二百年間、日本人が積極的に銃を使うことはありませんでした。)

 

日本人は強かった

「鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮」ノエル・ぺリン、川勝平太訳、中公文庫、1991

P80(前略)日本人は手強(てごわ)い兵士であった。また日本の島々は自然条件によって侵略が困難であった。したがって外国に対する日本の国家的統合の維持は通常兵器によっても果たすことができた。しかしながら、日本は中国を征服するには小国すぎた。実際、秀吉が一五九八年に亡くなるや、たちまち征服事業は放棄されたのである。一方、どの国にせよ、敢えて日本の征服に乗りだすには日本は強国すぎたのである。ポルトガル人は日本征服どころか、その考えすら起こさなかった。スペイン人は一度日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちどころに一蹴された経緯(いきさつ)がある。一六〇九年、太平洋方面の総督に対し勅令が送られ、日本軍の前に「わが軍隊と国家の名誉をそこなうような危険を冒さぬように」という厳命が下っているのである。ただ一度、日本の不正規軍ー浪人と呼ばれる寄るべなき侍が主体ーとスペイン人との間で会戦が行われたことがある。一六二〇年代、シャムにおいてである。どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人。中国人について言えば、朝鮮の役中いくつかの小競り合いで中国人が勝ったことはある。だが戦役それ自体に中国が勝利をおさめたわけではない。このことは中国人自身が明言している。戦役は中国側からいうと明朝時代におこり、中国の史書には朝鮮の役に関して以下のごとく概括しているのである。

「関白秀吉の侵略はほぼ七年にわたった、死傷者は十万をくだらない。朝鮮と中国は連合して戦ったが、勝利の見込みはなかった。関白の死のみが戦争の惨禍に終末をもたらした」と。

 さらに続けて次のように付言されている。一六四四年[一六六四年]に滅ぶ明朝の最後に至るまで、この恐るべき侵略者の記憶は生なましく残り、「日本人というだけで、人民は神経をとがらせ、女子供は警戒し、息を殺した」と。

日本人の文化度

「鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮」ノエル・ぺリン、川勝平太訳、中公文庫、1991

P45十六世紀後期に日本に滞在していた別の宣教師オルガンティノ・グネッチは、宗教を措(お)けば日本の文化水準は全体として故国イタリアの文化より高い、と思ったほどである。当時のイタリアは、もちろん、ルネッサンスの絶頂期にあった。

P43精確な統計はないが、一五四三年当時の日本人の識字率は、ヨーロッパのいかなる国よりも高かった、と信じるにたる十分な理由がある。*

*確かに、当時の日本人は自分たちの識字率が思いのほか高いのを改めて自覚させられてかえって驚いていた。というのも、日本人には信じられないくらいに、来日する外国人には文盲の者が多かったからである。

P123一八一一年、ロシア軍艦の艦長ゴロウニンが千島列島を探検調査中に捕えられて箱館[現在の函館]で捕虜になった。(この時も、西洋人の文盲ぶりに教育ある日本人はショックをうけた。捕虜四名の水兵が誰一人自分の名前さえ書けなかったのだ。それは日本人には信じられないことであった。)

紙は豊富にあった日本

「鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮」ノエル・ぺリン、川勝平太訳、中公文庫、1991

p38今日もそうだが、日本は当時もすぐれた工業国であった。イエズス会の一宣教師は、当時、日本には紙の種類がヨーロッパの十倍はあろうと推定している。日本の紙の中には今日使うクリネックス、つまり、ちり紙やはな紙もあった。アメリカ人は今でこそ自分たちがこの便利な品物の発明者だと考えているだろう。だが、それよりも少なくとも三世紀も前に、日本人はこれをつくっていた。それどころか輸出さえしていた。一六三七年、ピーター・マンディなるイギリス人がたまたま中国の沿岸マカオにいた。その地で彼は、大坂商人の一行がはな紙を使っているのを見てはなはだ感心したのであった。

 マンディは、そのときの模様を後に次のように記している。「この都市で数人の日本人を見かけた。彼らは何やら柔かくて丈夫そうな紙を小さく折り畳んで所持しており、これで鼻をかむ。鼻をかんだあとどうするかというと、もうその紙は汚ないものという体(てい)で捨ててしまう。顔を拭うには日本人はリネンのハンカチーフ[手ぬぐいのことか?]をもっていた」。マンディが感心したのは無理もない。当時のイギリスでは、たいていの人は服の袖で鼻をかんでいたのだから。

鉄砲を捨てた日本人

「鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮」ノエル・ぺリン、川勝平太訳、1991

裏表紙より

十六世紀後半の日本は、非西欧圏で唯一、鉄砲の大量生産に成功し、西欧のいかなる国にもまさる鉄砲使用国となった。にも拘らず江戸時代を通じて日本人は鉄砲を捨てて刀剣の世界に舞い戻った。武器の歴史において起るべからざることが起ったのである。同時代の西欧では鉄砲の使用・拡大によって戦争に明け暮れていたことを考えると、この日本の<奇蹟>が示唆するところは大きい。

(院長註:種子島への鉄砲伝来は1543年。1600年の関が原の戦いまで戦乱の時代で日本の銃の生産、使用量は世界一に。江戸時代になって銃の使用は激減。幕末に坂本龍馬が革靴にピストルで現れたのがハイカラに。初期の火縄銃では一発の弾丸を込める間に、15本の弓矢が撃てた(P48)そうで、銃を武器に選択した方が、むしろ戦に敗れるような場面もあったそうです。また雨が降ると使えなくなるので、使い物にならなくなった銃を武器に殴り合いが始まるような場面があったそうです(P49)。それが1575年の長篠の戦(織田信長軍対武田勝頼軍。織田軍勝利)では、一番隊、二番隊、三番隊と用意され、交代で弾込め、発射と戦術もアップしたそうです(P54)。薄い本ですが、得られる情報量は多く、引用文献も明示されていて、非常に有意義な一冊でした。)

おじぎ先生A

「感動を与えて逝った12人の物語」大津秀一(緩和医療医)、致知出版社、平成21年

P108彼女から教えを受けることもあった。

「先生、患者さんと接するときの、山本先生と先生の違いはわかりますか?」

「違い・・・・・・なんでしょうか?」

「山本先生はね、苦しい時や悲しい時、すっと近づいて手を握ってくれるの」

「はい」

「でも、先生はもしかすると、そういうのがちょっと少ないかもしれませんね」

ーなるほど言われてみればそうかもしれない・・・・・・。

 経験豊富な医者ほど、患者さんの懐にすっと入り込むのが上手(うま)い。

 手を触れることで理解できることもある。言葉によらないコミュニケーションの方が大事な場合もある。

 その時の私は、確かに田神さんにあまり触れていなかったかもしれなかった。

「すみません」

「いえいえ、責めるためにいったんではないのよ。ただ、苦しい時やつらい時は、患者はお医者さんにただ手を握ってもらうだけで有り難い時もあると思うの。それを知っていると、先生ももっとよいお医者さんになれると思うわ」

「ありがとうございます」

 よくみているなあと感心しきりであり、またとても勉強になった。

 その夕、山本先生に呼び止められた。

「先生、田神さんが言い過ぎたかもしれないって気にしていたよ」

「ああ、先生もお聞きになられましたか。でも彼女の言うとおりですし、勉強になりました。言い過ぎとはまったく思ってません」

「僕も先生がそう思っているだろうって伝えておいたよ。あと、田神さんは女性だから、若い先生は安易に触れたら悪いんじゃないかと思っているのでは、そう伝えておいたよ」

 確かにそれもあるかもしれなかった。気安く触れてはいけない気もしたのだ。

「僕くらいになると、彼も大丈夫になると思います。そう言ったらわらってたよ」

 山本先生はそう言って、いたずらっぽく笑った。私は頭が上がらなかった。

 それ以降は、診察の時、さりげなく手を握らせていただいたこともあった。私の真意を汲んで、にこりとしてくれた彼女の顔が忘れられない。

おじぎ先生@

「感動を与えて逝った12人の物語」大津秀一(緩和医療医)、致知出版社、平成21年

P106(前略)(院長註:入院患者と担当医の会話です)。

「そう言えば、先生」

「はい?」

「私、先生にあだ名をつけたの」

「は?」

 突然の話の展開に驚いた私を見て、彼女は可笑(おか)しそうに笑った。

「ふふ、あのね、おじぎ先生」

「おじぎ先生?」

やや素っ頓狂な声を上げてしまった。

「そう、先生ね、いつもよくおじぎするなあって感心しているのよ。偉いのにちゃんとおじぎをして。そこが素晴らしいわ」

「いやいや偉くはないですよ。そんなにおじぎしていますか?」

「ええ、これはとてもよいことよ。実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな、そう言うじゃない」

「う〜む、実っているかどうかは、微妙とも言えますが」

「ふふふ」

 膝を叩いて彼女は大笑い。

「それよ、それ。その姿勢は大事ですからね」

 恐縮して一礼したのを彼女は見逃さなかった。

「ははは。おじぎ先生ですか」

「そうよ。この間、研修医の先生がきてたでしょ?将来よい先生になるにはどうしたらよいのか?そう聞いてきたのよ」

「ああ、こないだの林田先生が」

「そうそう、林田先生。よい医者になるために一番重要なものは何か、そう真顔で聞いてくれたのよ。私に聞いてもわかんないと思うのにね」

「それで、田神さんはなんと答えたんですか?」

「それはね、おじぎ先生みたいになりなさい、そういったの」

「は?」

「そう、おじぎ先生みたいに、礼儀正しく、謙虚でありなさい。そういうこと」

 そう言って、彼女は優しく微笑んだ。

「いやはや、恐縮です」

 またもや頭を下げてしまったので、彼女はクスッと笑った。

「いえいえ、偉そうな医者はダメよね。優しく、謙虚で、これがすべて」

「精進します!」

 笑われてしまうのは承知でも、有り難いお言葉には頭を垂れるより仕方がなかった。

「はいはい。先生も、ずっとこういう調子であってくださいね」

「はい」

「私のあとに続く患者さんへも、ずっと」

 そう言って、彼女は窓の外を見やった。

イラク人も日本の歴史に驚嘆

「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」竹田恒泰、PHP新書、2011

P134「日本の歴史に驚嘆する」と語ったイラク人

 日本人は、日本人が思っている以上に異邦人に愛されている。これまで行われてきた各種調査でも日本人は常に好感度上位に入っている。しかし、これも先述の旅券同様、日本人がお金や技術を持っているからではない。

 筆者がイラク戦争直前にしばらくイラクのバクダットにいたとき、地元の大学生とこんな会話をしたことを今でも克明に覚えている。私のことを日本人だと思って近くに寄ってきた地元のある大学生は、私に英語で「I love Japan」といった。興味があったので「Why?」と問いかけると、その学生から思いもかけない答えが返ってきた。

 トヨタやソニーといった異国で有名なブランド名が出てくると思っていたところ、彼が日本好きな第一の理由は「Meiji revolution」(明治維新)だという。多くのアラブやアジアの国々が列強に国を破壊され、植民地化されたなか、日本だけは独自の力で近代化を達成して国を守り、有色人種の国で唯一列強に加わることができたことをその学生は強調した。

 昨今の日本の大学生ですら明治維新の意義を知らない者が多い。私はその学生が特別な知識を持っていたのではないかと思い、後で数人の別の学生に問うてみたところ、やはり全員が明治維新を知っていた。

 私が感心していると、その学生は続けて日露戦争について語りはじめた。アラブ世界の人々にとって小国日本が巨大なロシア帝国に戦争を挑み、世界最強といわれたバルチック艦隊を撃破したことは、狂喜乱舞するほどの喜びであり、その感覚はいまだに若い世代にも語り継がれているというのだ。

 衝撃を受けて立ち尽くしている私に対し、その青年は次のように語りつづけた。これまでの歴史において、イラクを含め、米国に攻め込まれた国はたくさんある。しかし、あの米国に攻め込んだのは、後にも先にも日本だけだった。結果は残念だったが、その後わずか数年で国際社会に復帰し、東京オリンピック、高度経済成長を経て、屈指の経済大国にのし上がった。日本の国の歴史は驚嘆に値する、と語ってくれたのである。

東南アジアから見た日本はすごい

東南アジアから見た日本はすごい
「5年から10年で、日本は力強くカムバックする」
リー・クアンユー「回想録」の興味津々
2000.10.6週刊朝日P42船橋洋一の世界ブリーフィング
 シンガポールのリー・クアンユー上級相がこのほど、一九六五年の建国以来この国を率いてきた政治指導者としての見聞と省察を満載した回想録『第三世界から第一世界ヘ シンガポール物語:1995−2000』(From Third World To First  Singapore Story:1995−2000)を出版した。
 七百ぺ−ジを超す大部である。シンガポールの現代史にとどまらずに、アジア現代史の貴重な証言ともなっている。アセアン各国、米国、中国、欧州ほか、親交を深めた政治指導者とのやりとりなど興味津々だ。教義や理論の囚人になることを拒否し、「どうしたらうまくいくか」(How It Works)から問題を考えることを自らに課してきた現実主義者であり、実務家であるリー・クアンユーならではの国際社会を生き抜く知恵が随所にダイヤモンドのような輝きを放っている。
 ここでは、リー・クアンユーの日本観察に絞って、さわりを紹介することにしよう。
 戦後の日本の経済発展に鼓舞されたという点では、リー・クアンユーもまた他の多くのアジアの政治指導者と似通った経験を待っている。「日本にできることはわれわれにもできるはずだ」との確信を持った一人である。
 日本の産業の発展の目覚ましさを目の当たりにし、「この国はトランジスタのメーカーとセールスマンで満足できるような国ではない」とニクソンとの会談の際、ニクソンに語った。六九年のことだ(ニクソンは回想録でその発言に触れている)。
 とくに、日本の経済の底力を確信するに至ったのは、七三年の石油危機後、日本が短期間で見事に立ち直った姿を目の当たりにしてからである。その二年後、日本を訪問したとき、日本企業の省エネに対する真剣な取り組みと、日本の国際競争力の目覚ましい回復に圧倒された。
 リー・クアンユーが出会った日本人のうち、もっとも印象深かった日本人は、各界のリーダーというより名もなき普通の日本人である。靴磨きや料埋人やバーテンダーやホテルの客室係である。彼らの仕事に対する誠実な態度と仕事への誇りに、リー・クアンユーは打たれる。彼の好きな日本は職人の日本、のようである。
それに、日本人の責任感の強さ。
 シンガポールに進出したIHIの現地会社に勤める日本の技術者がコスト見積もりを間違ったため、石油貯蔵タンクの受注に失敗した。それもあって会社のその期の業績は芳しくなかった。深く責任を感じた彼は自殺した。
 「われわれは衝撃を受けた。シンガポール人で、そういうことにこのように責任感を感じる人間などとても思いつかなかったからだ」
 九五年の阪神大震災の際の神戸の住民の取り組みと振る舞いに対しても感銘を受けた。「日本では略奪も暴動もまったくなかった。人々は実に禁欲的に行動した。九二年のロサンゼルスの地震の際の暴動と略奪の勃発とは大違いだった。日本の会社は食料、避難所、衣服を提供するため、必死の努力をした。ボランティアが次から次へとはせ参じた。ヤクザでさえ、ひとはだ脱いだ」
 かくしてリー・クアンユーは、「戦時中の日本軍の占領時代の体験と、そこで焼き付いた日本への恐怖感にもかかわらず、いまでは日本人を尊敬し、崇拝する」までになった。 

経済より政治が日本の真の問題

 しかし、日本の文化の凝集力と組織力は、その一方で日本の閉鎖性とわかりにくさを生む結果ともなっている。それに対する目は厳しい。
 例えば、九○年代、シンガポールに現地法人を置いている世界の多国籍大企業でシンガポール人をトップに据えているのは米系は八○%以上、欧州系はほぼ五○%であるのに比ベ、日系はわずか一人にすぎない(その名はNECとわざわざ明記している)。
 そうした開鎖性は、これからのグローバリゼーションの時代、日本にはマイナスに働く危険性が強い。
 「日本はデジタル革命を深く取り込まなくてはならないし、終身雇用制も変えなければならないだろう」
 それでも、日本は一般の人々の教育の質の高さによって十分にこの挑戦を乗り切ることができるだろう。米国ほど起業家精神はないかもしれないが、若い人々には想像力、創造性、革新的アイデアは欠けてはいない。「向こう五年から十年以内に、日本は力強くカムバックするだろう」と予測する。
 ただ、日本の真の問題は経済ではなく、むしろ政治にある。なかでも日本がうまく対応できないのが歴史問題である。それが壁となって、日本は政治大国になることができない。
 過去を正面からちゃんと謝罪しない日本は、過去の侵略行為や犯罪行為を悪いと思っていない国なのだろう、そういう日本を常任埋事国に推すのはいかがなものか、と近憐諸国は考えている、とリー・クアンユーは指摘する。日本が湾岸に自衛隊を派遣することを決めたとき、リー・クアンユーは「アルコール中毒患者にウイスキーボンボンを与えるようなものだ」と言ったほどだ。
「歴代の自民党の政治指導者は過去の問題に直面してこなかった」
 細川護煕、村山富市といった自民党以外の首相の歴史問題に対する取り組みと気待ちの表明に比ベ、自民党のリーダーたちのこの問題への取り組みはいかにも不十分である。なぜ、日本の政治指導者は過去と直面し、それを心から謝罪し、それを一刻も早く過去のものとして未来に踏み出さないのだろうか、との疑問を何度も殺げかける。
 リー・クアンユーの目から見れば、湾岸戦争の際、うろうろしてみっともなかった海部首相は政治家として落第である。「もしあのとき、まだナカソネ(中曽根康弘)が政権にいたなら、彼はあの思い切ったやり方で、喜々として難局に取り組んだところだろう」と、「歴史のもし」まで持ち出している。
 にもかかわらず、その海部首相が九一年五月、シンガポールでのスピーチで語った言葉はそれまでの歴代首相にはない心のこもった言葉だった、と肯定的に評価する。海部首相は“sincere contrition at past Japanese actions……〃(日本の過去の行為に対して心からの痛切な気待ちをお伝えしたい……)という表現を便った。「それは心がこもっていた。しかし、それはなお謝罪の一歩手前の表現だった」  

恩師の言葉

熊本日日新聞2005年9月22日(木)夕刊
「書物と私」平川祐弘東京大学名誉教授

 総選挙の結果にほっとした。小泉首相の率いる自民党が大勝したからというより、民主党の岡田克也が日本の首相にならなくて良かったと感じたからである。私は東大で岡田にフランス語を週二回教えた。昭和四十七年私が『和魂洋才の系譜』で日本の近代史を論じたころ、家永三郎教科書裁判もそのクラスで話題となった。私はどうやら印象の強い教師だったようで、岡田が民主党代表に選ばれた昨夏の祝賀のクラス会に呼ばれた。日本では、自分が教えた元学生を褒めるのが普通らしいが、その席で私は「小泉首相の靖国参拝に反対を述べに北京詣でをした岡田幹事長の気が知れない。ピョンヤン詣でをした日本の政治家は次々と失脚した。内政干渉を助長するような北京詣でをする人も失脚するだろう」という『世界週報』のコラムを配って挨拶した。
 驚いた様子の幹事は、警察庁から出向し小泉首相の秘書官をつとめる小野次郎で、フランスヘ留学しパリのタクシーについて修士論文を書いたという。「岡田は最大野党の代表なのに小野はまだ秘書官で差がついたものだ」などという者もいた。小野は学生時代茶道部にいたが、今回の選挙で刺客として山梨に送り込まれ、比例区で議席を得た。そのクラスには女子学生も数名いたが、上川陽子は前から自民党の代議士になっている。
 私が岡田を評価しない理由は、この法学部の秀才は模範解答を述べるからだ。家永裁判についても『朝日』の社説のような正論を述べた。台湾問題、教科書間題、ことごとく社説通りだ。それに対し首相は腹の底で感じる信念を述べる。だから多くの日本人に訴えるのだ。(後略)

看取りの三原則

「死」をめぐる三つの話、山折哲雄、青木新門、上野正彦、大法輪閣、平成8年

「死の看取りと死の作法」山折哲雄(宗教学者)

P55看取りの三原則

 それからもう一つ。これは、こういう時に必ず言うことにしているんですが、京都の四条病院の院長さんに中野進先生という方がおられます。中野さんは多くの方々を看取ったお医者さんですが、私、ある学会の懇親会の時お目にかかって、お酒を飲みながらいろいろお話をしたんです。そこで先生は、自分は最期の患者を看取る時には、いつも三つの大事なことを考えていると言われたんです。

 それはいったいどういうことですか、と尋ねましたら、まず第一に「自分は医者だから、患者の痛みを止めてやりたい」ということを言われた。それから第二番目は「身体をさする」。このさするというのが大事だと。それから第三番には、「その人を褒めること」。どんな人間でも一つぐらいはいいところがある。その人生の中で得意だった時期のこと、そこを探り出して褒める。「止める、さする、褒める」の三原則。そしてまた、中野さんは「自分は人にそうしてあげたいと思うだけではない。自分も死ぬ時はそうしてほしいんだ」と言う。ああそうだろう、そうに違いない、と思いました。

 そしてその時、私はこういうことを申し上げた。ひょっとすると、それは臨終の場面、最期の看取りの三原則に留まらないかもしれない、と。人間関係がすべてこの問題の中に入ってくる。相手の痛みを止める、それは自分の心の痛みを止めてほしいという願望と裏腹の関係。それからさする、ということ。これは言葉がつうじない時、異国の人と付き合う時、病人と付き合う時、いろいろなところに転用できるはずです。スキンシップですね。・・・・・・残念ながら我々は、ここでもやはり最初は「スキンシップ」というカタカナから入るんですね。これも、さする、さすられる、といういい言葉があるわけです。そして相手を褒める。それは自分が褒められたいという願望と重なっている。褒める、褒められる関係によって人間関係はよくなる。

 さて、私はそれ以来この中野さんにはすっかりお世話になってしまいまして、こういう機会には必ずこの中野三原則を言うことにしています。本当は、中野さんではなくて自分が考えたことであるかのように言ってしまいたい衝動があるんですが、これは絶対にいけません。オリジナリティは、ちゃんと尊重しないといけません。四条病院の中野進先生であります。

 その中野先生とお目にかかってからしばらく経って、私は一人の叔母を看取りました。正確な歳は忘れましたが、確かもう八十五歳ぐらいでした。気難しい叔母で、生涯結婚はしなかった。それでますます気難しいところがあって、会うといつも叱られておりましたので、あまり近寄らなかった。けれども最期はたった一人で病院に入院しておりましたので、やっぱりこれは面倒を見なきゃならない。そんなわけで、勤め先からふるさとまでちょくちょく通って看取ったんですが、いつも病室に入って行くといろいろ不満を訴えかけてくるわけです。そして、そのうち帰ろうとすると「帰るな」と怒りだすので帰るに帰れない。

 そうやって怒りだした時、先ほどの中野さんの言葉を思い出して、叔母の身体をさすることにしたんです。何も言わずにただ身体をさすることにした。しばらくさすると気持ちよさそうに眠ってしまいます。これは何度やっても同じです。めちゃめちゃに怒っている時でも身体をさすってやりますと、だんだんに気持ちが穏やかになっていきますね。で、とろーっと寝てしまう。その隙を見て私は遁走するというわけです(笑い)。このあたりで私の話を終わらせていただきます。

 

一流選手の顔

(院長註:先日朝の情報番組で長友選手の特集をやっていました。コメンテーターが「ずいぶんいい顔になってきたね。」と褒めておりました。)

おとな二人の午後 異邦人対談、五木寛之、塩野七生、世界文化社、2000、P390

塩野 このあいだ、ローマで興味深い若者に会ったんです。サッカーのあの中田英寿君と夕食をご一緒したんですけど、彼はめずらしくも私にわかってもらおうなんて、ちっとも思わない青年なんですね。政治家にしても、経済界の重鎮にしても、多くの人は私と話すとき、塩野七生に理解してもらいたいと思ってるらしいんだけど。

五木 なるほど。

塩野 私、そこのところがおもしろくてね。彼はなかなかたいした若者ですよ。

五木 自分を理解してもらいたいと思うのは、やはりわれわれの世代までなんでしょうね。

塩野 そうでしょうか。

五木 つまり、彼の場合、実力もステイタスもあるわけですから、自分をことさらわかってもらう必要もないってところもあるかもしれない。

塩野 彼への私の開口一番は、「二十二歳の顔してませんね。」

五木 へぇ。

塩野 「あなた三十歳の顔してますよ」と言ったら、彼、老けてるって言われたような表情をふっと見せたから、「いいえ、マイケル・ジョーダンだってデビュー後まもなく、すぐにそのような顔になって、三十五、六歳でやめたときには五十台後半の顔をしてましたよ。そういう顔にならないと、チャンピオンにはなれないと思う」と言ったの。

五木 たしかにそうだ。幼い表情では国際的な一流のスポーツマンにはなれない。

塩野 だから、「二十二歳の顔をしていない」っていうのはつまり、最高の賛辞なのよ。

五木 おとなの顔をもつこと、それは大事なことですね。日本人のゴルフ選手が全英オープンで勝てないとか、マスターズで勝てないのはおとなとして自立できてない雰囲気という点もあるんでしょうね。とにかくインタビューの受けこたえひとつにしても子供っぽいですから。

塩野 どうして子供っぽくなっちゃったんでしょうか。日本では若い男の子も女の子も子供っぽいですよね、昔にくらべて。

(中略)

五木 たまに中田君のようなおとなっぽい若者が出てくるんですけどね。ぼくは思うけど、若い人はうんとおとなびてなきゃいけない。それで年配の人はうんと無邪気でなきゃいけない。

塩野 ハハハハッ。

五木 ところが、年配の人が老け込んで、若い人は幼稚で、真ん中っていうのがないんだよ。そういうところはほんとに残念に思いますね。

気圧と体調A

おとな二人の午後 異邦人対談、五木寛之、塩野七生、世界文化社、2000、P199

五木 低気圧による低血圧の兆候は、まず頭の重い感じ、手にもった物を落としたりすること、また唾液が粘つく。それから吐き気、からだのだるさ、手先の冷たさと反対の首筋の熱さ、それから微熱。そういうのがぜんぶ起きることもあります。ぼくはひどい偏頭痛に長年悩んできたんだけど、気圧の変化に対応していくってことを考えるようになってから、ずいぶん楽になりました。気圧が下がりかける谷間のときがいけないんです。で、そういう時期に風呂にはいらない、アルコールを飲まない、それからハードな仕事をやらない。

塩野 原稿は書かない(笑)。

五木 そう、原稿書かない、睡眠をたっぷりとって。無条件で、じつは、いま、低気圧だから、締め切りの仕事できませんってみなさんにそう言う(笑)。

塩野 担当編集者はなんて、言います?

五木 「五木さん、気圧が下がってきましたけど大丈夫でしょうか、締め切りは」とかって(笑)。だいたい、締め切りと睡眠不足とお酒が重なると、必ず、気圧が下がってきて、調子が悪くなる。

塩野 ハッハハハハハ。

五木 でも、この自分がじつは大気の気圧の変化に左右されてる存在なんだと気づいたときに、ものすごく男としての自信が回復したんです。いわば地球全体の大気が呼吸しているのが気圧なんですね、その一部として自分も天地自然のなかで生きてることを、気圧の変化によってぼくはからだで実感し、確認できた。大自然にその一部として組み込まれて生きてるのは女性だけじゃないんだなと。ぼくの本のタイトルの『大河の一滴』はそんな大自然の一部である自分という意味なんですよね。おかげで五十歳過ぎぐらいになってから、やっと偏頭痛から逃れ出ることができました。

塩野 それまでは、偏頭痛がたいへんでした?

五木 二十年ぐらい、どうしたら治るかと考えつづけてました。頭痛は人類最古の病気と言われてるんですよ。ジュリアス・シーザー、つまりカエサルも頭痛もちだったでしょ。それから関羽(かんう)も頭痛に悩まされた。長島監督も偏頭痛もちらしいですね。それから、ルイス・キャロルは偏頭痛の妄想のなかで『不思議の国のアリス』を書いたという。ところが、頭痛と風邪を治せば、人類を救うことになるぐらいだけど、これが現代の医学でもなかなか克服されてない。頭痛薬というのは、なかなか効かないときがあります。頭痛をケミカルな手段で治そうとしてもだめなのかもしれない。そのときにやっぱり、自分の生活を宇宙の呼吸に合わせて、それに逆らわない、無理をしない、そんなことがやっとできるようになったのが、五十五歳ぐらいですかね。

塩野 じゃあ、五木さんはこの十年はずっと楽になられたのねえ。

五木 そうなんです。このあいだぼくは専門医に、やっと最近血管の拡張や収縮が少なくなって、偏頭痛がおさまるようになってきましたと言ったら、「それは五木さん、年をとって血管が硬くなっただけの話ですよ」と言われた(笑)。つまり、いままでは血管が若くて弾力があったから、大気の気圧の変動を受けるんで、頭痛知らずの人はむしろ血管が硬いらしい。だから、偏頭痛があると、そうか、まだ自分の血管は若いんだと思って安心すればいいんです(笑)。

塩野 なるほど。

五木 頭痛のない人は動脈硬化が起きやすいそうです。血管性の頭痛は血管が若くてしなやかなために、収縮したり拡張することで起こるんですね。気圧が下がって、血管が拡張するでしょう。そうするとからだのなかのホメオスタシス(恒常性)を保つ器官が、血管を収縮させる物質を出すそうです。そのリアクションによってギュッと締めつけられるような偏頭痛が起きる。だから、血管が拡張しなければ頭痛は起きないわけ。頭痛なんて私は知りませんという若い人がいるけれども、きっとすでに頭がカチカチなんだよ(笑)。

(後略)

(院長註:かなり専門家(医者)の考えが入っていると思います。院長は気圧との関係の講義を受けた覚えはありませんが、台風の中、親知らずだったり、歯槽膿漏だったり、腫れたという患者さんを3度、4度と見ることがあったので、やはり気圧と腫れは関係あるなと以前から実感として感じています。)

気圧と体調@

おとな二人の午後 異邦人対談、五木寛之、塩野七生、世界文化社、2000

P196 天気図を見る健康法

五木 ぼくはもともと腺病質でやたら病気が多くあるんです。

塩野 そうですか。

五木 意外に虚弱なんですね。昔、ぼくは女の人に生理があることがうらやましかった。つまり潮の満ち干(ひ)きや月の満ち欠けといった宇宙のリズムとからだが同調(シンクロ)してることがすごいことのように思われて。それが男にはないってことがコンプレックスだった。でもあるとき、ぼくは人間はみな気圧の変化を受けるってことを発見したんです。

塩野 気圧の変化は私も受ける。

五木 ドイツに行って、アウトバーンを高速で走ってたら、交通情報のニュースが流れるよね。翻訳してもらったら、「いま、気圧が千ヘクトパスカルを割って下がってきましたから、スピードは八十キロに落としてください」って言うわけ。

塩野 へぇーっ。

五木 それから、ミュンヘンあたりではアルプスからの風が吹いて気圧が激しく変化するんですね。それでうんと気圧が低いときには、病院での大きな外科手術はできるだけストップすると聞きました。人間の体調が低下してるから。そのくらい気圧は大事で、アメリカの保険会社のセールスマンは気圧の低いときにセールスに行くなとトレーニングで教わるんだそうです。高気圧のときは人間、躁状態になって、保険にもどんどん加入するけれど、低気圧のときはおおむねみんな不機嫌だから。

塩野 なるほどね。

五木 それには理由があるんですよ。ぼくは低気圧になると、血管が拡張してしてしまう。それで血圧が下がるみたいだ。

塩野 私もそうだわ。

五木 急激に血圧が下がったり、上がったりすることによって、筋肉や血管の急激な弛緩や収縮のせいで偏頭痛とか吐き気とか、いろんな症状が出るんです。

塩野 私は体質的に低血圧なのね。だから、起きて三十分ぐらい、いつも世も末って感じになりますよ。

五木 わかります。ですからぼくは、毎朝、起きると新聞の天気図を見ることにしてる。日本ではだいたい低気圧は西からやってくるから、低気圧が大阪にあれば六時間ほどで東京にやってくるし、福岡で天気が悪いと十二時間ぐらいで東京が雨になるとわかるんです。上海(シャンハイ)あたりなら、二十四時間後ぐらいに東京にやってくる。で、その天気図の低気圧の位置を見ながら、仕事の量を減らしたり、きょうはお酒は飲むまいとか、お風呂にはいるまいとかってきめることにしています。

塩野 お風呂もですか。

五木 低気圧のとき風呂にはいると、ぼくはてきめんに頭痛がでますから。頭痛がするから、からだがこわばってるんだろうと思って、リラックスするために湯ぶねにはいったりすると、かえって偏頭痛が起きたりしますね。アルコールもそう。血管が拡張してるうえに、あたたまってさらに拡張させるんだから。

塩野 そうなんですね。考えたことなかった。

右脳と左脳と

「「新ヒトの解剖」井尻正二・後藤仁敏、築地書館、1996

P228ところで、最近、左右の大脳半球はやや異なった働きをしていることが明らかにされている。たとえば、言語をつかさどる働きは右の脳よりも左の脳で発達していること、逆に視覚によって物の形をとらえるのは左の脳ではなく、右の脳でおこなわれていることが分かってきた。そして、左脳は数学的・論理的・理性的な機能をはたす「ロゴス脳(論理脳)」であるのにたいして、右脳は芸術的・情感的な役割をつかさどっている「パトス脳(情感脳)」であるという。

 このことは、左脳に脳出血や脳梗塞がおこったばあいと、右脳にそれが生じたばあいをくらべると、よくわかる。つまり、右脳に障害がおこると、まわりの人とことごとく対立する「意地悪ばあさん」や「頑固じじい」になるが、左脳に障害がおきたときは、おっとりとした「ニコニコばあさん」「ヘラヘラじいさん」になる傾向がある。

 この点で、日本の学校教育は、どうも左脳の機能の開発だけを重視する傾向がつよく、右脳の発育をおざなりにしているきらいがあるといわれている。レオナルド・ダ・ヴィンチの名をあげるまでもなく、相対性理論を発見したアインシュタインがバイオリンの名手であったように、むかしから偉大な科学者は、芸術的にもすぐれた感性や技術をもつひとがおおい。左右の脳がともに発達していてこそ、ゆたかなパトスとすぐれたロゴスをもつ、人間らしい人間といえるのではないだろうか。

日米学生の就職観の違い

「アメリカのゆくえ、日本のゆくえ」霍見芳浩(ニューヨーク市立大学教授)、NHK出版、2002

P224大企業や官庁勤めよりは起業家を

 司馬(院長註:遼太郎)さんも、『アメリカ素描』の中で、アメリカ人に、「なぜ、日本では大学卒業生が家業を継ぐよりも、三菱商事とか大蔵省(現・財務省)とかに就職したがるのか」と訊ねられて、返事に困ったと告白している。司馬さんは、それでも、徳川時代の「士農工商」と「官尊民卑」の影響だろうと喝破した。

 ハーバード・ビジネス・スクールだけではなく、アメリカのMBAの希望は、優秀な学生に限って小なりといえども、事業を起こして、それを育て上げることである。GMとかIBMとかの大企業に就職するとしても、それは将来の自分のベンチャービジネスを起こすための修業だと考えている。

 司馬さんは、「アメリカでは金儲けが人間の価値を決める。大企業のお勤めよりも、自分のビジネスのオーナーの方が収入が多いからだ」と推察している。しかし、これは一面だけのことで、アメリカでの人間の価値は、資産の多さよりも、自分で事業を起こした独立家かどうかで決まるからである。また資産の多さよりも、その資産を使って社会的にどれだけ貢献しているのかが問われる。

 美術品のコレクションにしても、私蔵するよりは、自分が好む美術館に寄付したり、永久貸与したりして、額縁の下に「○○氏の好意による」と小さく書かれるのを好む。

 ハーバードのMBAに、小さな家業の八百屋を継ぐのと、IBMに就職するのとどちらを選ぶか」との仮定の質問をしてみると、圧倒的に「家業の八百屋を継ぎ、これをチェーン店化して発展させる」方に自分の人生を賭けるとの答えが返ってくる。他のMBAでも同じである。できる学生であればあるほど、自分の経営力を試してみたいと考えている。日本人と比べると韓国人や台湾人のMBAの方がハーバードのアメリカ人MBAと似たようなチャレンジ精神を示している。「寄らば大樹の陰」は日本人の負の精神文化だろう。

ネット時代の大学の持つ意味

「脳を活かす勉強法」茂木健一郎、PHP、2007

P111 知識はエリート階級の独占物ではなくなった

 いま僕は、インターネットが最高学府としての大学の地位を脅(おびや)かしつつあると考えています。もはや、最高学府は東京大学でも、ハーバードでも、オックスフォードでもありません。現代における最高学府は、インターネット上にあるといっても過言ではないでしょう。

 日本の大学制度の歴史をふりかえってみると、明治維新のころ、大学はヨーロッパの進んだ学問や技術を輸入して国内に配分する役割を担っていました。

 歴史作家の司馬遼太郎さんが「文明の配電盤」と名づけたように、東京帝国大学や大阪帝国大学、京都帝国大学などが、西洋の政治学や経済学、数学、物理学、化学などを伝播(でんぱ)・啓蒙するという使命をもって機能していました。

 なかでも東大の前身の東京帝国大学は、配分ネットワークの頂点として存在していました。東京帝国大学に通う学士は、将来の日本を担う(誇張ではなく)、ほんの一部の限られた、エリート中のエリートだったのです。

 そういった歴史もあって、今まで東京大学は日本国内において最高学府として君臨してきました。日本の大学はいまだにその伝統を受けついでいます。輸入学問というか、外国の最新の成果を国内に紹介する事こそが最大価値であると考えられている風潮が残っているのです。

 確かに当時は、専門書や専門誌など、学問をするための資源が大学にしかなかったので、苦労してでも有名大学に入るということに、とても大きな意味がありました。

 ところがいまは、勉強したいという気持ちがあるなら、大学へ行く必要などありません。そのくらい膨大な知識が、インターネット上にはあるのです。僕は、インターネットだけで勉強してノーベル賞をとる人がそのうち出てくると思っています。そういう時代ですから、遠からず出身大学が意味をなさなくなる時代が来るはずです。

(中略)

 そのような時代の変化を痛感させられた出来事があります。

 ある年の、東京大学教養学部の「駒場祭」のシンポジウムに講演者のひとりとして参加した時のことです。

 IT業界が急成長を遂げている時代に、ベンチャー企業の経営者たちと一緒に講演を行ったのです。

 その中のひとりの若い経営者が、集まった学生たちに向かって、

「君たち、大学にいてもしかたがないから、さっさと辞めて起業しろよ!スティーブ・ジョブズもビル・ゲイツも、みんな大学中退だぞ!大学なんかにいても、何の役にも立たないから、とっとと辞めてしまえ」

と断じたのです。

 その勢いに、講堂の並みいる教授たちは有効な反論もできず、ただ下を向くばかりでした。

不安産業

週刊文春’99.4.22.P52阿川佐和子のこの人に会いたい 近藤誠さん「患者よ、がんと闘うな」著者

阿川 先生は今の日本のがん治療のあり方に疑問を投げかけ、警鐘を鳴らし続けていらして、最近は『乳がんを忘れるための本 乳房温存療法がよくわかる』をお出しになりましたね。

近藤 この本を書いたのは、医者やマスコミが日本人の乳がんが増えてるとか、がん検診を受けなければダメだとかって、大きな声で言うでしょ。それで不安になっている人がたくさんいると思うんですよ。あるいは、胸にしこりがあるけど医者に行くのはおっかないって悶々としている人とかね。そういう人たちの不安を解消するのが一番の目的なんです。

阿川 確かに不安になることありますね。

近藤 医療というのはある意味で不安産業なんですよ。人々の不安を煽りたてて、医療ファンを増やすという(笑)。

阿川 怖い発言だなあ(笑)。そう言われれば、そうですけれど。

近藤 だけど、僕は医療は人々を幸せにすべきもんだと思うのね。だから、この本は、まず医者やマスコミが言ってることと事実の間にはこういう乖離(かいり)とか矛盾があると指摘して、で乳がんの発育のメカニズムや自己検診法などを解説することによって、わざわざ医者に行かなくても、なるべく自分で乳がんの問題を解決できるように書いてあるんです。

阿川 これを読めば、余計な不安は解消できる、と。

近藤 それから、乳がんを恐れる原因は、おっぱいが取られちゃうと思うことも大きいでしょう。

阿川 ええ、大問題です。

近藤 でも、今は乳房温存療法が増えていて、必ずしも全部取られなくて済む。温存法は年々増えていて、将来的にはそれが主流になるということが分かっていれば、恐怖は多少和らぐと思うのね。(後略)

 

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