葛飾北斎について勉強し直しています。本間北曜(本名:本間郡兵衛)という弟子がいます。この人生も面白いです。
「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれるほど江戸時代の豪商で大地主の分家の出身らしいです。
芸術系の才能があり、戯作者で生計を立てようとして滝沢馬琴の門を叩くが許されず、馬琴の挿絵を描いている葛飾北斎に入門を許されて、号を「北曜」と称しています。北曜22歳、北斎84歳、亡くなるまでの6年間の弟子です。北曜はこの頃すでにオランダ語を学んでいて、弟子をとらない北斎の弟子になれたのも蘭学の知識があったからだと思われます。
1848年長崎へと旅をし、その前に「鬼図」を渡されます。
1849年北斎亡くなります。
1853年ペリーの黒船が浦賀に来航。「黒船図」を描きます。これは山形県酒田市の本間美術館に残っているそうです。
1855年勝海舟に誘われて勝塾の蘭学講師になります。さらに長崎海軍伝習所の通訳になります。フルベッキから英語をまなびます。
1862年パリ、ロンドン、ロシア、ニューヨーク欧州各国と清も歴訪。
北斎の死後以降は芸術よりも国事に興味を持つようになったそうです。清川八郎、ジョン万次郎、榎本武揚らとも交流があったそうです。
西洋諸国を見た北曜はこのままでは日本は外国にやられてしまうと思ったのでしょう。株式会社を作って巨大産業を興す必要があると考えたようです。
丁度その頃薩摩藩家老小松帯刀がグラバーに英語教師を求め、北曜が推薦され、鹿児島開成所の英語教師になったそうです。西郷隆盛らとも交流を持ち、「薩州商事草案」を小松帯刀に上書したそうです。これは本間本家に今も残されており、彼が日本で一番最初に株式会社を考えた人物だということだそうです。坂本竜馬よりも早かったそうです。
「大和方コンパニー(別名:薩州商社)」設立することとしたそうです。各藩に出資させようとして各地を奔走したそうです。庄内藩でも本間本家に出資を取り付けたそうですが、戊辰戦争の直前で薩摩藩のスパイの疑いを持たれ、最後は毒殺されたそうです。