菊川家のルーツ

 院長のルーツは愛媛県今治市波方町小部にあります。そこが本籍地で、先祖のお墓もそこにあります。小部について説明してあるページを見つけました。

土豪層の漁村化
 旧野間郡に含まれ松山藩に属していた小部は、藩政時代から漁業の勢大地域であった。明治になってからも、そのまま引き継がれ、旧松山藩領内村々の明治一七年(一八八四)の漁船数では、一四四隻で新浜村についで多い。

 小部の現在戸数ほぼ六〇〇戸、このうち木村姓、菊川姓が各二〇〇戸で圧倒的に多い。小部漁協横の小高い丘に地蔵堂があるが、これと並んだ堂宇に四基の大きな墓がある。向かって右の二つが木村姓の祖先、左が菊川姓の祖先と称してあがめている。この文字を判読して表記した。死亡年代は永正五年(一五〇八)〜慶長五年(一六〇〇)であるが、もちろん後年に建てられたものもあろう。しかし開発状況を示す資料としても貴重なものである。この中に小部開発の始祖とした木村新兵衛の墓石がある。この木村新兵衛については、淡路志智城主(一・五万石)加藤嘉明が、文禄朝鮮の役で水軍の総師として活躍した功績で、文禄四年(一五九五)正木(松前)六万石に栄転し、伊予入国のさい新兵衛を伴った。この新兵衛によって開発されたのが小部村であるとしている。(小部菊川家文書、文政一年)従って新兵衛は淡路の出身で、しかも水軍に関係があったことは、その死亡年代からも不合理はない。菊川姓の祖先とされた墓石の中に大居士名が刻まれているが、これは中世の土豪で名門と考えられる。四つの墓石は左から右に順次死亡年代が新しくなっているので、あるいは同じ家系のものとも考えられる。

 藩政時代に小部で各種の網が創始されているが、ゆるやかにカーブした小部の地形はイワシの回遊には最適で、イワシ地びき網が中心であった。イワシ網の先進地は淡路で、この点新兵衛との関連が想定される。伊予水軍の河野一統の出身としている椋名・吉海・大浜などの漁師(ただし来島は網も多い)が一本釣を主体とするのに対して、小部は典型的な網漁民であった。

(院長註:洞爺丸で亡くなった元衆議院議員の菊川忠雄(1901〜1954)、同い年の東京医科歯科大学の菊川武雄事務局長、院長が卒業してからの菊川治事務局長(この方は文部省の課長までなられたそうです)、新宿区で開業している菊川宗浩(東京医科歯科大学、学14回生)、リクルートの江副浩正さんの実母で旧姓菊川マス子、みんな小部の出身だと聞いています。院長の学生時代には東京医科歯科大学には菊川奨学金というのがありました。菊川武雄事務局長が私財を寄付してできたものだと聞いています。淡路志智城近辺に菊川姓が残っているかもしれないと捜してみたらやはりありました。同じルーツのようです。今治ではきくがわと呼ぶ人もいますが、淡路ではきくかわと表記されています。ここによると菊川家は戦国時代の城主安宅家の一族だそうです。加藤左馬助は加藤左馬助嘉明だそうです。加藤嘉明はこの後、松山城を建設します。)

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