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(院長註:院長のちょっとイイ話Ⅰは何も考えずに上から下へページを作っていきましたが、この方式だとページの一番下まで行かないと更新してあるかどうかわからないので、不便なのでⅡからはページのトップを見ればすぐわかるように下から上にページを作っていきました。読まれる場合は一度ページの一番下まで降りて、そこから上に読まれてください。)

 次の文章を読んでもらえれば、芸術家になぜ解剖学が必要か、そして解剖学者の三木成夫先生がなぜ東京芸大の教授になられたのか理解しやすいと思います。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo  da  Vinci歯界展望1998.1.P184井上孝
  「最後の晩餐」・「モナリザ」などが代表作として知られる画家。彫刻家としても傑出していた。建築家としても秀逸した才能を示し、科学者としても幾多の科学的な発明発見を、さらに都市計画や治水計画にも優れた才能を発揮したといわれる。
  35才から61才にわたって、画家として体表解剖学や比較解剖学に関心を持った。彼の手記に「人間の裸体がとりうる姿勢や身振りなどの肢体を上手に描くには、腱や骨や筋や筋膜の解剖を知ることが画家にとって必要である。様々な運動や力の動く関係にあって、どのような腱もしくは筋が運動の原因になっているのか、そうしたものを一目瞭然にわかるように、知識を豊かにすることが必要なのである。」
  レオナルドにとって、人間の肉体は物質と魂とが別々に存在する二元論ではなく、「魂は肉体に宿らんことを望む。なぜならば肉体の器官なくして魂は行為することも感ずることもできないからだ」と手記に残したように、両者が渾然一体となって能力を発揮するという一元論であったから、その解剖画風は執着的で、意志の強さを感じさせ、最後まで完成させる妥協のない性格をうかがわせている。
  K.R.アイスラーは彼(レオナルド)の解剖学の仕事について次のように述べ、それが彼の解剖学のすべてを表しているように思う。「ここに一人の男がいる。30体の解剖を行い、人体をバラバラに切断し、淡々と器官を調べ、その機能と目的を考え、諸器官の形態学を完全に疑問なきまでに究め尽くし、あらゆる角度からその姿を記録しようとした。権威者やテキストブックの教えを待たず、自らの感覚器官の働きを頼りにして、唯一独りの力で解剖学の、最も美しき花の一つを作り出した」

 海外人気の秘密は「正義」
 歴史観まとい、さらに飛躍を    週刊朝日2012.1.20 P142
 作家・慶応大学講師  竹田恒泰(たけだ・つねやす)1975年、東京都生まれ。著書に『日本はなぜ世界でい ちばん人気があるのか』など
 

 

  日本のアニメやマンガが世界に与えた影響は計り知れません。
 欧州サッカー界には元フランス代表主将のジネディーヌ・ジダンをはじめ、「キャプテン翼」の大ファンだった選手がたくさんいます。女子バレーボールのイタリア代表のエースであるピッチニーニは「アタックNo.1」を見てバレーを始め、主人公の鮎原こずえと対戦するのが夢だったそうです。
 欧米のコミックショップに並ぶ本の約9割が日本のマンガの翻訳版で占めるほど、日本のマンガは支持されています。なぜでしょう。
 日本人の美しい生き方が投影されているためです。
 ある編集者から聞いたところ、海外でウケる作品に必要なのは「正義」なのだそうです。真面目で他人のために努力する日本人の価値観が素晴らしいと思われているのです。
 東日本大震災の被災地で助け合いながら、みんなで立ち上がろうとする日本人を見て、海外の人々は感動しました。これほどの災害が海外で発生すれば、略奪や殺害が起きてもおかしくないからです。
 欧米を中心に日本人の精神を見習おうとする動きが出ています。物質的な豊かさを求めた時代から、経済競争や戦争に疲れ果て、各国と調和を図るのが重要だと気付き始めたからです。
 日本人自身も3・11を機に、古来の美しい精神を見直し始めました。書店には日本の文化や精神に関する本が山積みです。かつてなかった光景でしょう。
 ただ問題は、戦後の日本人から歴史観が抜け落ちていることです。日本建国の歴史を語れる人は少ない。歴史の教科書に建国の歴史が書かれていないのは、世界で日本だけでしょう。
 20世紀最大の歴史学者トインビーによると、10代の前半までに自国の歴史を教えなかった民族は必ず滅ぶそうです。それほど国の文化や精神に影響するものなのです。戦後の日本には、自分の国に興味を持たない人さえ出てきました。
 今年は古事記の編纂から1300年。建国の書である古事記を勉強し、歴史観を培うのに良いタイミングではないでしょうか。
 日本は世界から必要とされています。それはアニメ・マンガの流行を見ればわかります。日本人がしっかりとした歴史観を持ち、日本人としての輝きを取り戻すことは、世界にとって必ずプラスになるでしょう 

 口が渇いてか、熟睡できないと訴える患者さん結構いるものです。以下の記事が残っていましたので、参考にされたらいかがでしょうか。

30分の昼寝が夜の熟睡をもたらす!
生活パターンや自律神経のリズムに好影響
2000.9.29週刊朝日P100名医が勧める治療法「不眠」

  毎日、八時間以上寝ているのに、よく眠った感じがしません。また、途中で目覚めると、なかなか寝つけないのです。老化現象でしょうか。(東京都・無織・男性・61歳)  
◆午後一時〜二時の間に眠るのがポイント◆  
【熟眠障害など】高齢になると、この質問者のような「熟眠障害」や「中途覚醒」それに、「早朝時覚醒」などがよく起こる。こうした症状が一日三十分程度の昼寝で改善されるという、うれしい研究報告がある。
  東京近郊に住む七十代のA子さんは、熟睡できない「熟眠障害」の傾向があった。治療が必要なほどではなかったが、たまたま国立精神・神経センター精神保健研究所老人精神保健研究室の白川修一郎室長らの実験に参加した。
  この実験では、六十七〜七十八歳の男女六人に、自宅で毎日午後一時〜二時の間に約三十分の昼寝を連続七日間励行してもらった。起床、就寝はいつもどおりに。そして、わずかな体の動きもカウントする「アクチグラフ」(アクチはactivityの意)という測定器を被験者に装着して睡眠・覚鯉の状態を測定した。
  A子さんはこれまで夜の九時ごろに就寝し、朝の五時すぎに起きて、昼寝の習慣はなかった。実験中は、白川室長の指示に従い、昼寝の時間にはカーテンを閉めて部屋を暗くし、ベッドに横たわった。
  最初はうまく寝つけなかったが三日目からは、その時問になると自然に眠気を催し、昼寝ができた。また、夜も熟睡して、すっきりした気分で起きられるようになった。
  「みなさんに効果がはっきり出ました。熟睡を妨げるいちばんの原因は中途覚醒です。が、実験後は全体の睡眠時間に占める中途覚醒時間の割合が減り、実験前の平均二○・二%から一四・四%に。つまり、昼寝の効果で質のよい夜間睡眠がとれるようになったわけです」
  なぜ、昼寝が不眠を改善するのか。白川室長らが、高齢者の一日の行動を調べたところ、朝から日中にかけては活動量が比較的多いが、タ方から居眠りする人が目立った。
  「この生活パターンが夜間睡眠を悪化させていると考えられました。就寝時間前の、五、六時間以内に昼寝をすると、夜の眠りに悪影響が出ることがわかっています。そこで、午後一時から二時の時間帯に昼寝をしてもらいました」
  昼寝自体にも、さまざまなメリットがあるという。「昼寝は短時間するのがポイントです。長く寝すぎると眠りが深くなり、起きたあと頭痛がしたり、覚醒が悪いなど弊害のほうが多いんです」
  また、午後一時〜二時という時間帯に昼寝をすると、その後、タ方までの活動量が増える。買い物や散歩で体を動かせば、夜、よりよい眠りを獲得できる。
  睡眠は体温と関係があり、体温が上がると頭は覚醒に働き、下降すると眠りがやってくる。午後五時くらいに運動をすると、自律神経のリズムによって、体温はほかの時間帯より大きく上昇する。それが徐々に下がって、就寝時間を迎えるころに、睡眠を促すベストの体温になるという。
  白川室長は長寿県の沖縄と東京都の高齢者六百三十余人を対象に、大規模な比較調査をしている。沖縄の高齢者の多くに昼寝の習慣があり、運動量も東京の高齢者に比べてずっと多いことがわかった。
  「昼寝と運動が健康で長生きの秘訣といえるかもしれません。昼寝は二日に一回すれば十分効果があります。運動は散歩程度で十分です」
  なお、国立精神・神経センター武蔵病院リハビリテーション部の朝日隆部長らは、「昼寝の習慣のある高齢著はそうでない人に比べて、アルツハイマー型痴呆の発症リスクが減る」という研究報告をしている。

夢は必ずかなうという絶対的実感 北原照久
2000.10.6週刊朝日P70夫婦の情景
「世界一のおもちゃコレクターの一番大切な宝物」
夫は青山学院経済学部、妻は文学部
北原照久(52)ブリキのおもちゃ博物館長
◆ 独立の夢
「僕の独立に、家族は全員が反対でした。よそで働いたことがなかったし、家賃や光熱賃、損益分岐点といった経営上のこともわかるはずがない。でも僕には博物館とオリジナルの商品を作りたいという、一つの夢があった。人生は一度きりだから後梅したくない。親は、そんなに言うなら一度やって世間の厳しさを知ったらいいと。そんななかで女房だけが応援してくれた」 
◆ 経済的苦労
「僕は実家のスキーショップを手伝っていたし、結婚してからも親と同居していたから、経済的な苦労をしたことがない。女房もお金に無頓着。だから入ったお金は全部コレクションに使っていた。独立するにあたり、僕は実家の財産は放棄した。自分たちでやってみたいと思ったけど、貯金は一銭もない。銀行も貸してくれないので保険会社から一千五百万借りた。でもバブルの直前で一干万で一坪の店しか借りられないと言われた。
◆ オリジナル商品
「僕らは人脈もお金も商売のノウハウもない。それでも自分たちが着たい物、欲しい物を作ろうということになった。無地のTシャツを買ってきて、そこに女房がオリジナルのワッペンを縫いつけた。売り切れたときは、ないと言いたくないので、倉庫から取ってきますと、バイクで買いに行った。それを女房が受け取って、ワッペンを縫いつけた」
◆ 感謝の気持ち
「最初のころは経済的にすごく大変でした。空調のない家に住んでいたし、ネクタイも一本しかなかった。でも悲壮感はありませんでした。レットイットビーというかケセラセラというか、なるようにしかならないと。僕はトレー二ングのせいもあって徹底したプラス思考。苦労は買ってでもせよとか、われに七難八苦を与えたまえというように、大変なときこそ感謝しなければいけない。『辛』という字は上に一本線を引くと『幸』になる。辛い状況というのは幸せの一歩手前ということ」
◆ 褒め上手
「『ロッキー』という映画は奥さんが私のために勝って!と言うと、彼が奮起する。あの映画がヒットしたのは、人間は弱いもの、でもだれかの励ましがあれば頑張るというところが受け入れられたから。うちはどちらかが落ち込んだときに励まし合えるパートナー。夫婦、というより人間は褒め合わないとだめ」
◆ 学生時代
「僕は小学校のときにオール1という落ちこぼれで、中学三年で学校を退学になった。その後通った私立の男子校で、あるとき六十点とったら先生に褒められた。その先生に認められたくて必死に勉強し、卒業のときは総代になった。小学校のある先生から、何でもいいから一番になれと言われた。コレクションの世界でそうなったとき、やればできるという自信がついた」
◆ ハイテンション
「僕のコレクションの方法は熱狂的。欲しい物を売ってくれる人がいれば、どんな無理をしてでもその日に会いに行く。『明日ありと思う心の仇桜』という言葉があるから。物を集め始めたのは二十歳前後だけど、昔から物に対しでは情熱的でした」
◆ 感激型
「人を恨むということは、最近ではないですね。昔はあいつにだまされたということはありました。今はそういう人より、すごいなあと思う人に目がいく。僕たちは何に対してでも感激できるんです。お金のないときは一枚のピザを分け合って食べてもおいしいね、と。若いときより今がいちばんいい。ノウハウはあるし、プラス発想ができる。プラス発想というのは強くないとできない」
◆ コレクターの妻
「女房に感激したいちばんの出来事は、僕が中学のときに窓から刀を落とした事件を知っていたのに、けっして触れないでいてくれたから。よくあなたのすべてを知りたいと言うけど、恋人でも夫婦でも触れてはいけないことってある。それに女房は、僕がこういうことをやりたいと言うと同調してくれる。女房というのはいちばんの理解者であり、僕がボクサーなら女房はトレーナー。でもコレクターの妻というのはリスクがあると恩います。安定した生活をみすみす捨てることにもなりかねないから」
◆ 夢へのステップ
「夢は必ずかなうというのが、僕の絶対的実感。お金があるからできるんだと言う人もいるけど、そうじゃない。僕は夢を手に入れるために努力している。思っているだけじゃなく、体を動かしてお金を稼ぐ。僕の座右の銘はネバーギブアップ。へこたれずに諦めなければ、いつか夢はかなう。普段はそうじやなくても、いざというときに心(しん)が強い。僕も女房も同じタイプだと恩います」

北原洵子(51)
◆ 独立の夢
「私たちがお店を始めようとしたときは、プライベートミュージアムなんてなかった。でも主人がすごくやりたがっているのは伝わってきたし、主人なら何をやっても絶対うまくいくと思った。なぜなら人間が好きだから。人生は一度きりなのに、やりたいことを我慢するのはよくない。主人が何をしても、私はバックアップをしてあげようと思った」
◆ 経済的苦労
「主人が不在のときは、私も不動産探しをしました。地図を頼りに、一軒一軒くまなくあたった。不動産屋に聞いても、ないと言われるだけだから、謄本を調べて、直談判するしかない。百軒以上あたって、それでやっと横浜に店舖を見つけました」
◆ オリジナル商品
「主人が買いに走ったTシャツにすぐワッペンをつけないといけないから、私はいつもミシンに白の糸を通して待っていた。いつかそれが笑い話になればいいねと話しながら。私たちには何もなかったけど、主人のやりたいというエネルギーはすごいから、必ずできると信じていた」
◆ 感謝の気持ち
「私は牲格的に、わりとのんき。主人は落ち込むこともあると恩うのですが、そんな姿は見たことがありません。男と女は波長が違うし、落ち込む質が違うから、それで救われることはある。だから私も主人が発奮するようなことを言ってあげられる。主人は何に対しても感謝の気持ちを忘れない。きれいな夕日を見て手を合わせていることがある」
◆ 褒め上手
「人間は褒め合うことが大事とか、そういうことはよく言いますね。文句を言い慣れると癖になるから褒める癖をつけるようにとか。主人は褒め上手ですよ。料理ひとつにしても、おいしかったよ、と。私があまり褒めないので催促されることもあります。でも夫婦はいいところは褒め合って、悪いところは指摘し合わないといけない。もちろん言い方には気を使います。最近は本当に忙しいので、出かけるときはなるべくいいコンディションで行けるよう、帰ってきてからで間に合うようなことは出がけに言わないようにしています」

◆学生時代
「動物占いによると、主人はライオン、私はコアラで、相性はいいそうです。知り合ったとき、直感でこの人となら自然体でいられて楽だろうと思いました。そのころは、主人のことをやさしい人だなと思った。やさしいだけじゃないとわかったのは結婚してがら。主人を見て男の人のやさしさは強さに裏付けされたものでないと本物じゃないと。コレクションに対しても、普通の人以上に思いが強いから集まってくるのだと思います」
◆ ハイテンション
「今のテンションが二十代から続いているわけだから、やはり主人はすごいと思います。何事にも我慢強いのは私にはないところ。でも歯医者さんに、奥歯をかみしめすぎると言われたことがありました。私はそういう顔は見たことがないのに」
◆ 感激型
「主人が怒ったのをほとんど見たことがない。でも、おもちゃに対しては違います。ほかのことは、ま、いいか、ですんでも、おもちゃに対してはそうはいかないのでしょう。主人は何にでも感激する人。きれいなお月さまが出ていると、私が何をしていても見に来いと。自分ひとりではつまらないから、感動を共有してくれる相手が欲しいのかも」
◆ コレクターの妻
「コレクターの妻が大変だと恩ったことはありませんが、欲しい物が次々と出てくるのはすごいことだと思います。でも、それだけ幸せだということでしょう。主人の中学時代の事件に触れなかったのは、つきあい始めたころに触れてほしくないことだとわかったから。私は昔、白黒つけなければ嫌な性格だったのに、突き詰めるのはいいことじやない、思いやりが大事だということを主人から教わりました」
◆ 夢へのステップ
「主人は夢は具体的に思わなければかなわないとよく言っています。車が欲しいなら、その車のハンドルを握っている自分を想像して、絶対に手に入ると思うようにと。『あんなの欲しい』ぐらいではだめで、思いを強くしてリアルに欲しがれということでしょう。男の人ってロマンチストですよ。女は子育てとか現実のことがあるから、そうはいかない。いちばんの夢と聞かれても家族の健康となる。でも主人はこれからもっともっといろんなことをすると思うから、その夢の実現をそばで見ているのが楽しみです」

週刊朝日2001.7.6.P40
今日とちがう明日 堺屋太一
「試験文化」が崩れる

(前文略)
◎試験の正体
 それでは、試験とは何ものか。それには三つの要素がある。その第一は、答えのない問題は出ないことだ。試験に出る問題は必ず答えがある。受験生は「これには答えがある」と教えられているようなものだ。
 第二は、やさしい問題から解いたほうが得なことだ。問題用紙が配られるとまず全部を読み、解きやすい問題から取リかかって十題中八題解ければ八十点、難しいのに挑戦して二題しか解けなければ二十点だ。
 第三は、教科書どおりに解答することだ。高校で習う水準でも、歴史や科学には異説異論は少なくない。だが試験の場合は脇目もふらずに教科書どおりに答えねばならない。試験に個性や独創性は有害無益だ。
 こんな特色を持つ試験に合格したエリートたちは、実際社会に出ても試験での成功体験を操り返す。つまリ、答えがあるとわかっているやさしい問題だけを取り上げ、従来の慣例や先輩の教えのとおりに行動する。答えのあるなしがわからぬ改革には挑戦せず、難問は先送りし、先例のないことは絶対にやらない。
 昭和では、戦前も戦後も受験エリートが組織を動かしてきた。世間は「難しい試験に合格した人なら偉いはずだ」と信じて、それを許した。
 これでも、外国によき先例があれば成功する。国民が活力に満ち、解きやすい問題さえ解決していればよいときには成長する。しかし、新しい政治や大きな改革、発想の転換が必要なときには行き詰まる。太平洋戦争の敗北がそれであり、バブルの崩壊も同じくである。
 九十年代に入ってから、銀行、大蔵(財務)、警察、外務の官僚、司法、医療など、既成の権威が次々と崩れている。それら全部が告げていることは「難しい試験に合格した人」への信頼感の低下だろう。昭和の「試験文化」が今、崩壊しつつある。

  平成22年8月4日(水)熊本日日新聞朝刊「わたしを語る」商い一途 成長と挫折 壽屋 寿崎肇社長に商業界主幹 倉本長治先生の講演を寿屋の寿崎肇社長が10項目にまとめた商売十訓が紹介されていました。商売だけでなくどの職業にも通じるものがあると思います。
1損得より先に善悪を考えよう
2創意を尊びつつ良い事は真似ろ
3お客に有利な商いを毎日続けよ
4愛と真実で適正利潤を確保せよ
5欠損は社会の為にも不善と悟れ
6お互いに知恵と力を合わせて働け
7店の発展を社会の幸福と信ぜよ
8公正で公平な社会的活動を行え
9文化の為に経営を合理化せよ
10正しく生きる商人に誇りを持て

商業界岡田徹先生から頂いた詩
「小さな店であることを恥じることはないよ、その、小さな、あなたの店に、人の心の美しさを、一杯に満たそうよ」
商人の姿はこうあるべきだ
「一人のお客様の喜びのために誠実を尽くし、一人のお客様の生活を守るために利害を忘れる、その人間としての美しさこそ、わが小売店経営の姿としたい」

(院長註:最近特に共感を持つのは2番の「良いことは真似ろ」ということです。)

  スザンヌさん、ソフトバンクホークスの斉藤コーチとの結婚おめでとうございます。ミヤネ屋でスザンヌさんに花束を渡しにくまモンが出てきて驚きました。往診帰りの車の中で見ました。また全国的に宣伝できましたね。いい具合で展開出来てると思います。営業部長のくまモンのグランプリに続いて宣伝部長のスザンヌさんの結婚と熊本県はおめでた続きですね。

  それにしてもホークスは大丈夫ですか?川崎選手、和田投手のメジャー移籍希望、杉内投手獲得に巨人が名乗り、ホールトンもいなくなるとのこと、心配です。

  バリィさんのホームページ見に行きました。「2位になりました。」と喜んでいる様子です。バリィさんには仲間がいるようです。イヨノ助さんとバリィさんの飼っている犬ハルです。

  確かに4コマ漫画でも1つのキャラクターで成り立っているものは思い付きません。いくつかの周辺キャラクターがあった方が展開しやすいのではないでしょうか。寸劇も出来るでしょうし、ちょっとした童話のようなものも出来やすいかもしれません。くまモンの歌募集っていうのもいいでしょうが、コンセプトがはっきりしないとつくりにくいでしょう。「タンタンの冒険」じゃなくて「くまモンの冒険」なんてどうでしょう。院長の妄想は広がります。

  ゆるキャラグランプリ2011で接戦を続けていたくまモンVSバリィさん、27日発表でくまモンのグランプリが決定したそうです。熊本県民の皆さんご苦労様でした。人口180万人を越す熊本県、知事がリーダーシップを取って営業部長に任命し、くまモングッズだけで10億円を売り上げたというくまモン、そりゃグランプリにならないとおかしいでしょう。秘密の県民ショーにも出たそうですし、探偵ナイトスクープではくまモン体操なるものが披露されていました。ドォーモではくまモンが好き過ぎて、くまモン応援隊の福岡県支部長になった熊本出身福岡在住の女の子が出ていました。新聞でもTVでも投票を呼びかけていました。

  対するバリィさん、県庁所在地でもない、人口17万人にも満たない一地方都市に過ぎない今治市。院長がバリィさんを知ったのもこのゆるキャラグランプリです。少なくとも院長は今年2回今治に行っているんですけど、気が付きませんでした。よく健闘したと思います。今治生まれのバリィさん、名前を聞いただけで吹き出しました。本ホームページ内の院長のちょっとイイ話Ⅰの「嵐山光三郎さん今治に行く」を読んでからもう一度バリィさんの姿を見て下さい。良く出来ていると思いました。健闘の理由はそこでしょう。そういえば昔今治には鶏卵饅頭というのがありました。そこらもデザインのヒントになっているのかも知れません。この11月に行われたB級グルメのコンテスト、B1グランプリでも今治は5位入賞していました。熊本ももっとがんばりましょう。

状況は随分変わってしまいましたが、この文章もいいこと言っているなと思ったんですが。

 

週刊文春2001.2.22P54阿川佐和子のこの人に会いたい
(前略)
阿川 暗闇の時代はどうなさってたんですか。
堺 幸い僕にはすごく信頼出来る友達がいますし、僕も正直に「僕、今、トンネルに入ってんのよ。何やってもダメ、最低なの」って言えるんてす。それはすごく素敵なことだと思ってる。変に着飾って「いやもう忙しくて」って見栄を張って生きて行くようなことだけはしたくないんてすね。
阿川 ほお。
堺 だから、若い人たちにも言うんです。「トンネルに入ったなら、とことん入りなさい。必ず出口があるから。途中で縦穴掘って逃げて行くことだけはしちゃダメ。トンネルを抜ければ強くなってるよ」って。
阿川 暗闇のときでも、仕事がまったくなくなったわけじゃないでしょう。
堺 あるんですけど、当たりがないというか、空回りしちゃう。それで、仕事が少なくなったこともありますし…。そのときに、「この仕事、やってみない?」と言ってくれた方には一生恩義を感じてますね。
阿川 そうでしょうねえ。その暗闇の渦中ですね、平成元年に岡田美里さんと再婚されて。お二人のお嬢ちゃまはお幾つになられました?
堺 十歳と六歳。僕、生れたばかりの長女を抱いたとき、「こんなにいとおしくて、愛せるものがあるのか」って思った。女房には言えないけど、ほんとに人を愛したのは子どもが初めてですね。
阿川 そんなにうれしかったですか。
堺 そのとき、「こんなに家庭が幸せなら、仕事にまで幸せ望んじゃいけない」と思って、神様と交渉したの。「このまま家庭の幸せを続けてくれるなら、仕事はそこそこで十分です」って。
阿川 神様は何て仰ったの?(笑)
堺 印鑑特って来てね(笑)、「その心構えならばいいよ」ってポーンと押してくれて、契約が整ったんてす。
阿川 「欲持つでないよ」と。
堺 そうそう。だから、その頃からキャラクターが変わって来た。そうしたら、仕事もいい回転をしはじめたんですよ。
阿川 どういう風にキャラクターが変わったんてすか。
堺 うん、貧欲やがむしゃらじゃなくなったし、捨てることを覚えたっていうのかな。具体的に言えば、ここでこう言おうと思っても、タイミングを逃したら捨てる。僕が喋ろうとしたとき、誰かが喋り始めたらスッと引くとか。
阿川 それ以前は…。
堺 もう相手の口を押さえてでも、ナイブ突き付けてでも、「喋るな、この野郎!俺が喋るんだッ!」って(笑)。それを少し捨てて、引けるようになった無欲さがよかったのかな。
阿川 第四期は平成三年から三年連続で『紅白歌合戦』の司会をされた頃からですか。
堺 『チューボー』が始まった、平成六年頃からでしょうか。
阿川 私、あの番組、大好きです。
堺 ありがとうございます。僕、食べるのは好きなんですけど、料理は今でも得意じゃないんです。うまくなろうとか、金子信雄さんになりたいとか思ってませんから(笑)。
阿川 なりたいのかと思ってた。
堺 ただ、僕はゲストの方が気持ちよく帰ってくれることが一番好きで、あの番組は、みなさん、リピーターになってくださってるから嬉しいてすね。
阿川 最初のアシスタントは雨宮塔子ちゃんで。局アナをやめて、フランスに留学しちゃいましたけど。
堺 一年ぐらい前かな、『チューボー』のスペシャルでパリに行って、彼女にも出てもらったんです。市場に行ったら、塔子ちゃんがフランス語でワーッと喋ってんですよ。帰国してから、スーパーを入れるために通訳の人に聞いてもらったら、「これ、何喋ってるんでしょうか」って困ってた(笑)。なんだ、あいつ詐欺師みたいなやつだなって(笑)
阿川 ご本人はぺらぺら蝶ってるんてすか。
堺 ぺらぺら媒ってるの(笑)。でも、あの子で『チューボー』がすごくよくなった部分がたくさんあったんですよ。今の木村さんもすごく頑張ってやってくださってますし。
阿川 木村さんとのコンビもいいですね。
堺 『チューボー』を始める前、十年前ぐらいから、特番なんかに必ず局アナが出てくるようになってね。僕、最初は「何で俺が局アナと一緒に番組やんなきゃいけないんだ」って思ったんですよ。
阿川 何でですか。
堺 「この人たちは笑いをやる人じゃないでしょう。笑いの方程式を分かっているのか」って、抵抗がありましたねえ。
阿川 今は?
堺 全然なくなりましたけど。今は方程式が分かってないからこそおかしいという図式があるじゃないですか。それに気がついたんですね。僕、やっぱり昔の人間だから、人より分かり方が遅いのね。理解するまで何年かかかりましたですよ。
阿川 司会の仕事はいかがなんですか。
堺 自分を抑えることを覚えた頃から、司会も少し楽になりましたね。でも、司会はやっぱりつまんないね(笑)表現する人を紹介する役より、やっぱり自分で表現するほうが素敵だなって、ここんとこ思ったりしてますけど。
阿川 でも、芸能界で自分を抑えるって大変でしょう。前に演歌歌手の方に伺ったら、歌手が十人ぐらい舞台に並ぶと、みんな自分だけ目立とうと一歩前に出て、ついにほ舞台から落ちそうになっちゃうんですって。
堺 そうね。僕は、ほら、神様と契約したから(笑)。でも、歌手の方に限らず、みんな一国一城の主になりすぎたね。地に足がついてないような気がする。
阿川 そうですか。
堺 テレビで立派になっちゃダメ。テレビでベテランになっちゃダメ。昨日出て来た人とも旧知の仲のようにやらなきゃダメ。テレビは社交場のパーティなんですから。
阿川 ほほぉー。
堺 いろんな思想を持ってる人、いろんな宗教の人、いろんな家柄の人が集まってるから、いちいち聞いてたらきりがない。だから、今日は慈善パーティという気分で、それに向かってみんなが行けばいい。終わったら、解散すればいい。そういう考え方で行けば、自分を主張しなくてもすむし、相手の言うことに「君、それは違うよ」とも言わなくてすむ。

阿川 はぁー、なるほどねえ。
堺 仕事をやるときに、僕はバラエティに出てくる役者さんなんかによく言うんです。「一時間や三十分の番組に出るということは、その時間を使って自分のコマーシャルをやらしてもらってるんだと考えなさい。すると他の人が見て、『ああ、こいついいねえ』とか思ってくれれば、その番組から発信することで次の段階に行ける。テレビに利用されちゃダメだよ、利用しなさい」ってね。
(中略)
阿川 さすが人生の浮き沈みを経て立派になったもんじやのう。
堺 みなさんからも「丸くなったね」と言われるようになりましたねえ。
阿川 テレビで堺さんを拝見してると、ホントにいい感じに年を重ねられてるなっていつも思うんです。
堺 人間って、最初ギザギザでどこを触っても痛いぐらい刺々しいのを、みんなポコポコ削っていって最後は小っちゃい丸になっちゃう。でも、僕はぞのギザギザを何かで埋めて大きい丸になりたい。そうすると、大きい丸で、なおかつどこを触っても傷つけない人間になれるかなと。
阿川 何で埋めるんですか。
堺 それが分かんない。今探してる最中なんですけど。僕、四十五歳のときから、五十五歳までに自分の芸風をつくりたいとも思っていたんです。
阿川 何で五十五歳までに?
堺 父親(喜劇役者の堺駿二さん)が五十四歳で死んでますから、五十五は父が踏み込んでない年。そこへ行って初めて、僕、一人になる。だから、そこへ行くための自分の芸風をつくりたいと。でも、できなかった。
阿川 どんな芸風を?
堺 う-ん、言葉では言い表しづらいんですけどもうちょっといろんなものを捨ててやる形がほしかったんです。
阿川 歌も役者もバラエティも司会もおできになるけど、少し整理するとか?
堺 そう。でも、僕はそういう仕事が来るまで、我慢できないんですよ。あれもやりたい、これもやりたいで、餌が来たら何でもガブッて食べちゃう。入れ食い。言葉は悪いけど助平なんですね(笑)。まだ、それが直らない。だから、我慢してる人をみると、すごい勇気だなあ、羨ましいなあと思いますね。
阿川 お父様が亡くなられた年齢になられて、改めてお父様を見る目は変わりましたか。

堺 父親は最高の二番手をやった男なんてすね。そういう父を、昔、僕は勇気がない男だと思ってた。もっと預張ればいいじゃないかと。でも、最近は、自分の一番いいポジションを見つけて、そこから動かない勇気もすごいなと思っているんですよ。
阿川 強いお父様だったんですね。父親の忘れられない言葉があってね、「途中でやめることだけは絶対するなよ」と。これはもう遺言みたいなものなんてす。
阿川 シンプルだけど、重い言葉ですね。
堺 そうなの。だから僕は娘たちに、どんな仕事をしたかは別だけれども、パパは三十八年間仕事を一回も変えてない、それだけは誇りに思って欲しいんですね。

  プロ野球日本シリーズ、ソフトバンクホークス優勝おめでとうございます。秋山監督、松中選手、馬原選手は熊本出身です。川崎選手は鹿児島、内川選手は大分、杉内投手、本多選手も九州出身です。九州では瞬間視聴率が60%を超えたと報じられました。

 内川選手の奥さんの元フジテレビアナウンサー長野翼さんは院長の今治西高校の後輩になります。もちろん大分後輩なので一面識もありません。高校も野球の応援に熱心、大学も早稲田ですので早慶戦などで野球の応援に熱心です。野球選手と結婚と聞いて「やはり」と思いました。院長が内川選手を意識し出したのはWBC以来です。昨年後輩と結婚と聞いて親近感を持つようになりました。彼が非常に良いと思います。セパ両リーグで首位打者を取ったのは史上二人目だそうですが、それ以上にチームを引っ張る姿勢がすばらしい。昨年までムードメーカーだった川崎選手がかすむ程。内川、川崎両選手が盛り上げる、これはまるでWBCの再現、当分ソフトバンクは強いぞと予感しました。(川崎選手は今オフに海外フリーエージェント権の行使が有力との情報が・・・)

  優勝記念セールでイオンモール熊本で、1000円以上買った人先着100人に、内川選手の顔写真をプリントしたミニタオルをプレゼントと出ていました。これって今治製?

  ゆるキャラグランプリ2011でくまモンとバリィの接戦ずっと続いています。この間買ってきた豆腐にはくまモンの絵が載っていました。カゴメがデコポン入り野菜生活にくまモンの絵を載せる記事もありました。TVニュースでなでしこジャパンの川澄選手も「くまモンに会いにきました」と言って、くまモンとハグしてました。澤選手も。院長は気になって毎朝チェックしています。日曜の朝チェックして驚きました。見たこともないにしこくんが1位だったのです。しかも30万票以上獲得しぶっちぎりで。院長は白けてしまいました。「もう2度と見ない」

  その後不正投票が発覚し、取り消しとなり、再びくまモンとバリィさんの接戦に戻り、院長はほっとしています。投票は26日までだそうです。あと少し頑張りましょう。

一時的に1位になったにしこくん

にしこくん.jpg

 プロのデザイナーさんの仕事だと思います。院長は専門家ではありませんのであまり言いたくないのですが、ゲーテの形態学をかじってしまうと違和感を感じます。これを見ていると「太陽の塔は失敗作」と断言した三木先生の境地に少し近づけた気がします。

子供のため?それとも親の安心のため?
週刊文春2000.11.2.号P133こころのクリニック山登敬之
「イライラ思春期とつき合うには」
 東京の多摩地区の保健所が企画した、思春期の子を持つ親のための講演会というのに招かれました。私は、講師ってお役目で呼ばれたのですが、参加者の人数も多くないので講演会ではかた苦しい、座談会にしませんか、ということで、お互いの顔が見えるようにテーブルを並べてもらいました。
  参加したお母さんがたは十五名ぐらい。平日の昼間の会だと、親のためのとはいっても、来るのはたいてい女親ばかりということになりますね。
  あらかじめ書いてもらったものなどを見ると、お母さんたちの悩みは、思春期の、あるいは思春期にさしかかった子どものことがよくわからない、どのように接したらよいのかわからない、といった内容がほとんどでした。これは、結局のところ、親子のコミュニケーションの問題です。
  さて、それでは、思春期に特有の「わからなさ」、思春期をわかりにくくしているものって、いったいなんなんでしょう。まあ、いろいろな説明のしかたがあると思いますが、思春期がよくわからないのは、ひとつに思春期がイライラしているせいではないでしょうか。
  思春期の子どもは、自分のイライラのもとがわからない。自分がわからないからイライラする。自分をわかりたくてイライラしている。自分をわかってもらいたくてイライラしている。でも、自分の思いを伝える言葉が見つからない、あるいは、その言葉を聞いてもらえる相手が見つからない。自分、自分、自分…、そして、イライラはつのる。
  こういう相手に向かって、「どうしたの?」とか「どうしたいの?」とか聞くのは、あまり賢くないやり方です。子どもの気持ちを尊重して…などといって、こういう声のかけ方をしても、ただうるさがられるだけです。だって、そんなことわかんないんだもん、本人が。
  それに、イライラしてる人間って、たいがい焦ってますからね。「どうしたの?」「どうしたいの?」って類の質問は、人を追い込むでしょう。ただでさえイライラして焦ってる子どもを、よけい急きたてるのがオチ。いいことはありません。
  だから、親はちょっと遠くから見ているぐらいがちょうどいい。思春期の子どもにとっては。心配だと近寄りたくなりますけどね、どうしても。だけど、ほら、「見守る」って感覚は、少し距離がないとわからないんじゃないですか。近くにいると、「見守る」っていうよりも「見張る」ってニュアンスになっちゃう。
  そういえば、あたし、親に見守られて育ったっていうより、見張られて育ったって感じなんですよって話してくれだ拒食症の女子大生がいたっけな。
  ところで、私たちは「わからない」ことが嫌いです。なにかわからないことがある状況は不安で落ち着きませんから、できれば早いことわかって安心したい。このとき「安心したい」気持ちは言ってみれば、自分の都合から生じています。親が子どもの心配をする場合、子どもの身を案じてそうするのか、自分の都合でそうするのかの区別が難しい。ただ、言えるのは、親がそのことに無自覚に自分の都合の方を優先させると失敗することが多い、ということです。
  とくに思春期の子どもが相手だと、その手のウソはすぐに見抜かれます。思春期は潔癖で徹底的ですから、そういう大人たちのウソに敏感で、それを許さないのです。
  「オレのことわかりたいっていうけど、それってアンタが安心したいってだけでしょ」ですから、慌ててわかろうとするよりも、そう簡単にわかるもんじゃないと思っといたほうが、あとあとかえっていい結果につながるんじやないでしょうか。もっとも、これは、思春期の子どもがどうこうって話にかぎりませんけどね。

 九州で麺と言えば、とんこつラーメンやチャンポンが有名ですが、実は博多のうどんも有名です。こちらはコシの強さが有名な讃岐うどんと違い、柔らかいうどんです。熊本にも黒田藩うどんとかウエストとかチェーン店が進出してきています。

  讃岐系はといえば、数年前の全国的なうどんブームではなまるうどんが繁華街の下通りにできましたし、つい最近丸亀製麺の郊外型店舗が近くにできました。この前、前を通りかかったら、一台前の車が入ろうとしたのでしょう、ウインカーを出して止まっていたのですが、あまりの混雑ぶりにあきらめて、少し先のリンガーハットに車を入れていました。

  ネット上では浜線バイパスにある画図のてる山が評判がいいようです。何年も前に別の歯科医にも薦められました。

  11月10日深夜の九州朝日放送の「ドォーモ」で九州うどんランキングというのをやっていました。

第5位福岡市西区「大地のうどん」

第4位福岡県みやま市「大力うどん」

第3位福岡県糸島市「牧のうどん 加布里本店」

第2位福岡県嘉麻市「筑豊製麺組合よもぎうどん」

第1位福岡県久留米市「立花うどん」

だそうです。

 いずれも院長には縁のなさそうなお店のようですが、番外編としていくつかのお店が取り上げられていて、一つがJR鳥栖駅構内の立ち食いうどん店中央軒。いくつものマスコミに取り上げられて有名なお店です。博多への行き帰りにいつも目に入ってきました。6番ホームのが一番うまい。院長でも知っています。いつかきっと途中下車して、食べたいなと思いながら、途中下車したら座れなくなるのがいやで、果たせないまま九州新幹線になってしまいました。

 もう一つの番外編が薩摩半島と大隅半島を結ぶ鴨池・垂水フェリー内の南海うどん。これもよくマスコミに取り上げられています。フェリーに乗ったらうどん、フェリーとうどんがセットになっているお客さんが結構多いそうです。これがものすごくよくわかります。瀬戸大橋が出来る前、四国と本州をつなぐものは連絡船かフェリーしかありませんでした。院長もセットのくちです。いつか失われた感触を味わうために鹿児島に行ってみたいなと思いました。

 先日、日曜日に所要があって熊本市の国際交流会館に出かけた時、道路を歩いていたら、向こうからくまモンのお面をつけた子供が大量にやってきて、「うわ、くまモンってこんなに浸透しているの」って驚いたことがあります。熊本城のあたりで何かイベントがあったのかもしれません。

  九州新幹線の全線開通で、熊本自体が盛り上がっていますし、テレビ番組でも全国放送で、熊本が毎日のように取り上げられています。大分前に吉本新喜劇の舞台に知事と熊本県の広報部長のスザンヌさんとくまモンが上がったって報じられていました。熊本にいると何かと「くまモン」を目にする機会が多いので、まあ当然だろうねと思っていました。

  ゆるキャラグランプリ2011というのが行われています。くまモンが人気No1というのは聞いていたのですが、今日あたりのトップは「バリィさん」のようです。院長の故郷の今治のキャラクターで「バリィさん」。

2位のくまモン

くまモン.jpg

1位のバリイさん

バリイさん.jpg

焼き鳥のまち、愛媛県にある今治(いまばり)生まれ今治育ちのトリ。
頭に来島海峡大橋をイメージしたクラウンをかぶりタオル生地のハラマキをし、
手には船の形の財布を持っとるよ!財布は特注。趣味は食べ歩きと、ハラマキコレクション。
バリィさんは今治市をたくさんの人に知ってもらえるように、日々頑張って活動しとるよ!
グランプリ上位になれるように、みんな投票してくれたらうれしいわーい!
よろしくたのまいねー★


 だそうです。よくできていると思います。

どちらも頑張れ!!

慶応義塾大学の広報誌「塾」2011AUTUMN NO272 P13半学半教

先生の専門……本当のところよく分かりません(笑)。
たぶん、世の中で生きていくために必要な事全部を学んでいます。現在、学生数は25名です。

「考えろ、とにかく考えろ」 
権丈善一 商学部 教授
 よくよく考えないと危ないーそれが、四半世紀ほど、経済学をツールとして社会保障を分析し、論じてきた実感である。
 これまで私は、研究者そのものが、問題の解決者というよりは問題の原因である事例を数多く目の当たりにしてきた。むしろ、あなたがいなかった方が世のため人のためであったはずと言いたくなる研究者、特に経済学者や政治学者がいかに多いことか。政策論という国民の生活に密着する研究領域の場合、間違えたら、たちどころに人々を不幸にしてしまう。後になって、間違えましたで済む話ではない。
 かつて、福澤諭吉が、是非判断の分別がつかない者が政治経済を学ぶことを、「その危険は小児をして利刀を弄(ろう)せしむるに異ならざるべし」と論じていた意味が、年を経るほどに分かるようになってきているのかもしれない。
  これまでは、考えに考えて私か論じてきたことは、その後に起こった出来事と照らし合わせてみれば、なんとか大きな間違いはしていなかったような気もする。しかしそれも、学問半分、運とも言える直観半分くらいのきわどい思索の結果であるような気がしないでもない。
 そうした私が、義塾で半学半教の身でいることができる年数は、まだ17年近くもある。これから研究生活を終えるまで、大きな間違いをしないで済むことがはたしてできるのか。晩年になって、結局、私は研究者として世の中に存在しなかった方が人々は幸せだったのではないか、と反省しなくても本当に済むのか。
 自分の論は自分で責任をとるしかないと腹を決め、既存の学問すらあてにせずにひたすら自分で考える、というのが私の昔からのやり方である。「僕の仕事は考えることだよ」と学生に話す私は、彼らに「自分で考えろ」「考えろ、とにかく考えろ」と言うのが、いつもの口癖らしいー他にもいろいろあるらしいが(笑)。

「権丈先生に師事したい!という熱い想い」
酒井絵理 法学部法律学科3年
 ゼミ選びに悩んでいた私は、ある日商学部のWebサイトで、書かれていることが頭の中にス〜ッと入ってくる面白い先生を発見!そういう私は、法学部法律学科の学生。本を手にしてみると、難しいはずの財政や社会保障の話が「要するにこういうことだろう」と軽快なテンポで…。一気に読み終え、この先生に師事したいと想い、このゼミに飛び込みました。
 「僕の言うことをあんまり信用するなよ」「ちゃんとするな、ふらふらしとけ」と指導をされる先生ですが、本当は、学生や学問へのほとばしる熱い情熱を持っておられる恥ずかしがり屋さんだということを、ゼミ員一同分かっています(笑)。「僕は脱力系だから」という先生にならい、ゼミ生みんなが、世の中をちょっとばかり斜めから眺める生き方を日々楽しく学んでいます!

紙が豊かな国はロジックが苦手
週刊文春2002.9.5P119
糸井重里連載対談ゲストロシア語通訳米原万里

米原 おそらく日本人がロジックが苦手になったのは、教育もあるけれども、紙が潤沢に手に入り過ぎたせいだと思います。
糸井 おもしろいな、それは。
米原 通訳していてわかるんだけど、日本の学者はロジックが破綻している場合が多いんです。基本的に羅列型。でも、ヨーロッパの学者は非常に論理的なんです。現実の物事は必ずしも論理的じゃないのにね。結局論理というのは記憶のための道具なんです。紙が発達した国は紙に書くでしょう。その場合には羅列で構わない。でも、耳から聞く時には、物語が論理的でなければ覚え切れない。
糸井 オリジナルの論理でしょう?おもしろい、それ。
米原 実は比較文学者の平川祐弘先生が、日本人を含めてなべて東洋人が口下手なのは、「紙が豊かだったから」と書いているのがヒントです。西洋では紙が非常な貴重品で、「十八世紀に来日した西洋人は日本人が和紙で鼻をかんで捨てるという贅沢に一驚している」。「ケンブリッヂ大学で筆記試験が始まったのは、数学は一七四七年、古典は一八二一年、法律と歴史は一八七二年とたいへん遅い」というんですよ。
 日本は紙が豊かな国で、試験はほとんどペーパーテストだし、考えをまとめる時にもすぐ書き付ける。漢字圏の、紙が豊かな文化圏の人たちの脳は視力モードで、目から入ってくるものを受け入れやすく覚えやすい脳になっているんです。ところが、ヨーロッパ圏の人々は聴力モードなんです。高価な紙に書き付けるかわりに、論理で記憶力を補強した。それで論理が発達したんです。
糸井 僕は前に、新聞記事というのは基本的に「保存と運搬をしやすい言葉」でつくられていると言ったことがあるんです。それをやりとりしている限りは基本的におもしろくないんだよと。だから今のお話はすごくよくわかるんですよ。
米原 人間て、脳も含めて基本的に怠け者だから、記憶力みたいな負担もどんどん軽減しようとして、文字を発明したでしょう。計算や情報処理みたいなことも、今、コンピューターに肩代わりさせようとしている・・・。
糸井 外部化ですよね。
米原 肉体労働だけではなくて、頭脳労働もいわゆる雑用部分は全部外部化して、最も創造的なところだけ脳がやるという方向に行こうとしている。でも、おそらく創造的な力って記憶力とか計算力とか情報処理能力などと実は底のところで関係していると思うんですよ。そういういろんな筋肉を使って、そのベースの上に想像力って花開く。
糸井 全くそうです。方法の記憶と、名詞で表される記憶に分けて、名詞で表せる記憶をすらすら言える人は博学とか言われるわけですね。それは本当はあんまり意味がなくて、外部化できるんですね。だけど、その材料を方法として使う記憶、自転車に乗るだとか、というのは外部化できないんです。
米原 ギリシャ神話にムーサという、芸術を司る女神たちがいますよね。これは万能神ゼウスとムネモシュネという記憶の女神のあいだにできた娘たちなんですよ。
糸井 見事だなあ。
米原 音楽とか舞踊とか文学とか学問とかをそれぞれ受け持つ女神が9人ぐらいいるんですね。そういうクリエーティブな能力というのは記憶力と緊密に関係しているって、ギリシャ人は既に知っていたわけですね。

 福山雅治さんが出ているキューピーハーフのCM見られましたか?中に建物の中から滝が流れ出るように見える山荘が出てきます。これが、フランク・ロイド・ライトの代表作で世界でもっともロマンチックな住宅建築と称される落水荘です。1936年に着工されたペンシルバニア州ピッツバーグ近郊にあるカウフマン邸です。カウフマン氏はアメリカのデパートカウフマンズのオーナーです。

  滝の上に張り出すキャンチレバー(片方でのみ支える形)のテラスが有名です。歯科治療でもブリッジの設計などで時々みられます。キャンチレバーは壊れやすいので基本的には禁忌と言われていますが、大臼歯部に半歯ぐらい伸ばす分では結構もっているようです。建築的に言えばベランダぐらいなら大丈夫ということですが、落水荘では歯科的に言えば大臼歯2本分ぐらいキャンチレバーになっています。一部屋分ぐらいです。一目見て、これは無理だろうと思われますが、実際7インチ(21cm)もたわんできたので、2002年3月に修復がなされ、現在では鉄骨で支えられているそうです。

  リビングから川へ降りる階段があるのですが、この階段は途中で止まり、水面に届いていません。カウフマンは幾度もこの用途のない階段についてライトに尋ねたそうですが、ライトはどうしても必要なものだと主張したそうです。必要なものだけで成り立つ有機的建築を唱えていたライトです。解説書によるとリビングと川を結ぶ象徴的な役割と同時に、空気と音を取り入れる役目をしているそうです。

  CMはキューピーのホームページからでもYou Tubeからでも見られます。落水荘の全貌についてもYou Tubeで「落水荘」で検索すれば見られます。

 院長は一時期日本人の肉食について調べていた時期がありました。その中に、馬肉を食べさせる刑罰というのがが出てきました。ご存知のように熊本では馬刺しを日常的に食べます。院長も熊本に来てから好きになりました。現代の熊本県人なら「喜んで!」とでも言いかねない刑罰ですね。

 

馬肉の刑というのがあった 「歴史のなかの米と肉」原田信男、平凡社選書147、1993、P107

 こうした肉食の穢れの問題に深く関連するものとして、中世には〃馬肉の刑〃とでも呼ぶべきような刑罰が存在した。『小右記』長和五年(一0一六)三月二二日条では、「或いは云く、使官人等放免に仰せて、馬肉を以て有孝に食せしむ」と見え、検非違使の妻に乱暴を働いた有孝という男に、刑罰として、有毒と信じられていた馬の肉を食べさせているのである。これは中世人が馬の肉には毒があると信じていたためで、たとえば平安期の『将門記』には、「子春丸忽に駿馬の肉を食ひて、いまだ彼の死なむことを知らず」とあり、将門の使いである子春丸が馬の肉を食したが、まだ死んでいないことが不思議に思われていることを示している。
  さらに南北朝期の『太平記』巻二六「四条縄手合戦事」にも、「我れ聞く、飢て馬を食せる人は必ず病む事有とて、其の兵共に酒を飲せ、薬を与へて、医療を加られける」とある。これは中国の古典に、馬の肉には毒があり、酒か薬を飲まなければ死ぬ、という話が散見することを踏まえたもので、馬を食した兵に酒や薬を飲ませて治療に当たる場面となっている。ともに物語からの引用ではあるが、こうした中国の俗信は騎馬の間題と深く関連するものと思われる。いずれにしても、これが中世日本の知識人の間にも広がっていたため、『小右記』では現実に刑罰として馬肉を食させているのである。なお、この〃馬肉の刑〃に、穢れを清める任務を負った検非違使と、その下級刑吏である放免とが関わっていることも興味深いが、ここでは肉を穢れとすることに加えて、馬肉に毒があるという観念が、中世に定着している点に注目しておきたい。

  院長の兄菊川智文は松下政経塾の2期生。民主党新代表の野田佳彦さんは松下政経塾の1期生。院長は直接会ったことはないのですが、院長が学生時代から注目の政治家でした。とうとう首相かと思うと感慨深いものがあります。野田さんの最初の千葉県議選の時は、誰々の弟というのが次々に現れ、「弟選挙」と言われたそうです。院長は当時里見寮のある市川に住み、本八幡にある学習塾にアルバイトに行っていました。その学習塾で教えていた同僚が野田さんの選挙事務所の中心メンバーの一人でした。弟の一人が2期生菊川智文の弟の院長です。

  人柄も良いそうで、お父さんは自衛官だということです。国を守る精神は子供の頃から叩き込まれていることでしょう。ご活躍を期待したいです。

  増税をしなくてはいけないと言い続けた人が通ったことに民主党の良心を感じます。

 

 失業者781万人!円高が止まらない!2016年「日本経済沈没!」戦慄のシュミレーション   週刊文春平成23年9月1日号144ページ
「消費税三三%でないと破綻」米国の経済学者は日本の財政危機をこう見る。欧米の財政危機に世界中が慌てているが、財政は日本のほうがはるかに深刻だ。国家が破綻した時、何が起こるのか。韓国やアルゼンチンの例から浮かび上がる「戦慄のシミュレーション」。


  欧米各国で起きた国債クライシスー。日本でも最悪の事態を迎えるシナリオが現実味を帯びてきた。
 「多くの経済学者やエコノミストは、一九八〇年代から『このままでは日本の財政は破綻する』と危機感を持っていたはずです。しかし有効な手段を打ち出せず、今に至ってしまった。もはや手詰まりとしか言いようがありません」(ニッセイ基礎研究所の櫨浩一氏)
 米国債の格下げに端を発した世界同時株安。円高、株安に見舞われる日本もすでに危険水域に突入している。キーワードは「国債クラッシュ」だ。
 第一生命経済研究所の永濱利廣主席エコノミストが解説する。
 「日本の財政は、収入(税収)より支出が圧倒的に上回り、いわゆる赤字国債を年間約五十兆円も発行しています。積った借金は約九百兆円。GDP(国内総生産)の約二倍、経常黒字とはいえ、日本は世界最大の借金国なんです。この国債の『買い手』は、実は我々国民です。国民は様々な金融機関に預金をしますが、金融機関はその預金を国債で運用しています。国債の九五%は日本人が買っているのです」
 国の借金を国民が肩代わりする構図なのだ。
 「約九百兆円の借金に対して、国債を買い支える国民全体の純資産は約千百兆円です。国の借金は、大震災の復興などのために今後も増加します。私の試算では最速で二〇一六年に国債発行額が家計純資産を上回る。そうなれば、借金を国内でまかなえなくなる。つまりその頃に”破綻”が来る可能性が高い」(永濱氏)
 海外の引き受け手が出てくる可能性があるが、格下げ圧力は強まるだろう。
 財政健全化を司るはずの財務省には既に「諦めの空気」が感じられるという。
四十五歳で実質的な定年
 「財務省の人に話を聞くと、あまりにも『風船』(借金)が大きくなり過ぎてどうにもならず、警鐘を鳴らしたくても、自分たちが危機について何か言えば、今すぐにでも財政が崩壊しかねないと本気で心配している。十年前には警告を発信していたのに、いまは積極的な発信ができていない」(小林慶一郎・一橋大学教授)
 はたして財政破綻した国では何が起きるのか。
 九〇年代後半、韓国は「通貨危機」に陥り、IMF(国際通貨基金)の管理下に置かれた。産業タイムズ社の巌在漢ソウル支局長が語る。
 「韓国にとって国家の破綻に等しい出来事でした。グローバリゼーションの名のもとに金融自由化や財閥解体が行われ、社会は大きく変わった。終身雇用制度は揺らぎ、代わりに『四十五定』なる言葉が生まれました。これは四十五歳で実質的な定年という意味です。失業者が増加し、ソウルにはそれまでいなかったホームレスが溢れました。一ドル千ウォンだった為替レートは一時期約二千ウォンになり、物価は最高で約一〇%上昇したため、庶民生活はかなり厳しくなりました」
 財政破綻したときに起るのは物価高と金利高。韓国では定説通りのことが起った。韓国人の通信社記者も言う。
 「この有事の時に不謹慎だとクレームが殺到し、テレビから一時、娯楽番組が消えたことを覚えています。治療費が払えないために病気になっても病院に行かない人が増えたり、金利が上昇した住宅ローンの負担に耐えられず、家を手放す人が続出したので住宅価格が七割ほどに下落しました。ソウル大学を出て一流企業に勤めた友人も、四十代半ばで解雇され、転職もできずにレストランで働いています」
破綻した方が復活する説も
  二〇〇一年にアルゼンチンが財政危機に陥ったときも悲惨を極めた。
 「失業により社会保険がなくなり、失業保険も機能していなかったために、無収入になる人が続出しました」(社会保障制度に詳しい、アジア経済研究所の宇佐見耕一氏)
 韓国やアルゼンチンで起きたことが五年後の日本を待ち受けているのだろうか。
 「韓国は通貨危機の後、失業率が最大で四倍に膨れ上がりました。日本でも、失業率二一・五%、失業者数は七百八十一万人にも達する可能性があります」(永濱氏)
 経済ジャーナリストの荻原博子氏も暗い展望を語る。
 「国から地方にわたる地方交付税も大幅に減額されるので、自治体の住民サービスもこれまで同様とはいきません。例えば週二回のゴミ回収が二週間に一回になるかも。公立小学校の給食費が今の数倍になったり、市役所の休庁日が増えることも十分あり得ます」
 フジマキージャパンの経済評論家、藤巻健史氏は「戦慄のシミュレーション」を予測する。
 「私は財政破綻は『第二の敗戦』だと認識しています。株・債券・為替はトリプル安になるでしょう。一ドルは三百円〜四百円。千円になる可能性もある。
 また、国債を多く持っている金融機関の破綻を恐れ、預金を引き出そうとする人たちが取り付け騒ぎを起こすかもしれない。パニックを抑えようと日銀が金融機関から国債を買い上げる可能性もある。つまりキャッシュをばらまく、イコール、円の価値が下がりインフレになる。そうなると凄まじいことが起きます」一体どうなるのか?
 「海外から原油を買えなくなり、ガソリン価格が跳ね上がるので車に乗れない人が増えるでしょう。日用品などの物価も間違いなく上がる。また、韓国のようにIMFが入ってくると緊縮財政になるので、今までと同じ国家予算は組めなくなります。今は四十兆円の税収しかないのに、九十兆円以上の予算を組んでいます。
 もし四十兆円規模で予算を組むとなると、年金給付額も大幅に下がる。官僚や自衛官などの公務員もクビになるし、残った人も給料は今の半分以下になるでしょう。もちろん民間企業でも倒産ラッシュが起きます」
 破綻を回避する手段はないのだろうか。
 消費税増税による財政再建策が模索されてきたが、なかなか実現しそうにない。
 小林教授も悲観的だ。
 「私は、消費税三〇%でも財政建て直しは厳しいと思います。八月に米国の著名な学者が来日し、キヤノングローバル戦略研究所で研究成果を報告しました。
 年率一%成長を前提に、日本はどこまで消費税を上げればいいかを算出した結果は、
①今すぐに消費税を上げるなら三三%
②十年先の場合は三七・五%
③年率二%のインフレが起きれば二五・五%
④出生率が今すぐ回復すれば二八・五%
 いずれも実現の難しい数字です。今の政治がここまで消費税を上げることは困難でしょう」
 もはや希望はないのか。
 永濱氏が語る。
 「財政破綻した方が経済は復活するという見方もある。破綻した国の通貨は信認を失うので安くなります。となると、輸出型企業は復活し、当然株価も上昇する。国内に生産拠点を戻す企業が増えれば雇用も増加します。韓国の例もあるように、破綻しても早ければ三年後のニッポン復活は十分ありえます」
 破綻後の耐乏生活か、消費税増税か。いずれにしろ大きな困難が待ち受けているのは間違いない。


 

 日本の借金時計というホームページを見てみると、日本の国の借金は現時点で973兆円だそうです。平成23年度の日本の国家予算は92兆円です。このうち44兆円が赤字国債ですから、48兆円の収入で92兆円を使っているということになります。借金973兆円の利子は現在低金利ですので、10兆円程度で収まっていますが、金利が2%、3%と上がっていけば、20兆円、30兆円とその利子の額も上がっていきます。バブルがはじける前の日本は金利が8%とか7%とかあったはずです。そんな金利になったら、利息の支払いだけで80兆円、70兆円ですよ。過去の最高税収は確か63兆円だったと思いますが、景気が良くなって過去最高税収の1.5倍の90兆円税収があってもそのうち80兆円や70兆円が利息の返済だけに充てられる。元本(借金そのもの)の返済に使うお金がないというのは異常です。少しでも早く借金を減らさないといけません。デフレも円高も解消は簡単、お金を刷れば一万円の価値が下がり、インフレになり、円安になると経済学者は言いますが、景気を良くして金利だけを低く抑えることはできないでしょう。誰もこのことを言わないのが、院長には不思議で不思議で。

 少子化対策も先延ばししていい問題ではないでしょう、やれることは何でもやらないといけないのが現状だと思います。それにしてもここまでぼろくそに言われる政策に何でなったのか、民主党の反論を聞いてみたいです。

 


週刊朝日2011.8.26 36ページ辛坊治郎の甘辛ジャーナル
あえて危ない話をしよう
少子化対策に「思想」はあるか?
 民主党の看板政策だった「子ども手当」に終止符が打たれた。そもそも、施策の前提として掲げられていた「無駄遣いをやめ、予算を組み替えて、増税も借金もせずに財源をひねり出す」という公約が破綻している以上、「子ども手当」に対していかなる言い訳も通用しない。
 しかし私は、「所得制限なし」については賛成だった。それは手当の理念から考えても、制限を付けるために要する莫大な手間と費用を考えても、悪くない判断だったと思う。卜−ゴーサンピン(十、五、三、一=サラリーマン、自営業者、農家、政治家の所得捕捉率)などと言われて久しい不公平税制を正さずに所得制限を付ければ、税収の柱として働き、子ども手当の財源を担っているまじめなサラリーマン層だけに不利益を押し付けることになり、あまりに不当だ。
 民自公で今回合意した「年収960万円で支給停止」は、「嫉妬の的である恵まれたサラリーマンをいじめてます」という政治的アピール以外の何物でもない。
 それにしても、民主党の子ども手当は乱暴だった。長子でも10人目でも、とにかく同じ2万6千円支給(支給実績としては1万3千円)、これでは「既に子どものいる世帯の票をかき集めたかっただけ」と批判されて当然だろう。しかし同時に、このまま無策を続ければ、高齢者の医療や年金を負担する層が不足し、社会は確実に崩壊するのも事実である。
 世界の中で少子化を脱出した国として有名なのはフランスだ。フランスの子ども手当にも所得制限はない。しかし、1、2人目よりも3人目以降の支給を増やすことで、「もう一人」のモチベーションを高め、託児所などの育児環境を整備し、さらには子どもを育てた人の年金を増やすなど、施策の設計は戦略的だ。
 と、ここまでの話は、どこの新聞にも載っている。今日は、週刊朝日の読者を信用して、読みようによっては極めて危ない話を書く。
 フランスで沢山の子どもが生まれる本当の理由は何か? それは税制だ。

金バラマキで何か起きるか

 フランスの税制の特徴は、税率を決める時に、子どもを含めた世帯人員の数で所得を割るところにある。どこの国でも所得税には累進課税が適用されている。
 日本の場合、課税所得が195万円超330万円以下の場合10%だが、所得が増えるにつれて税率が上がり、1800万円超は、所得税だけで40%が課される。子どもが何人いようが、基本的に税額は変わらない。それでも去年までは子どもを扶養していると若干の控除が認められていたが、民主党政権は子ども手当の支給と引き換えに、16歳未満の子どもに対する控除を廃止してしまった。
 ところがフランスでは、カップルに子どもが5人いるとすると、総所得を6で割って一人あたりの所得を出す。たとえば、1800万円の世帯収入の場合、税率を計算するに際して、6で割った300万円を基本にするのだ。300万円の所得の税率を10%とすると税額は30万円、これに6をかけて、180万円が世帯税額になるのだ。
 これが日本なら、独身でも子どもがいても税額は変わらず、納税額は1801万円×40%=約720万円だ。フランスの制度下では、高額所得者の場合、子どもの数が多ければ多いほど劇的に税額が下がるのだ。
 危ない話はここからだ。この制度では所得の低い層は、もともと税率が低いので、何の恩恵もない。所得の高い層だけに、きわめて高い子作りのモチペーションが与えられる。その結果、社会はどうなるか?所得が多い層で子どもが増えるということは、教育環境の整った家庭で育つ子どもが増えるということを意味している。危ない言い方をすると、「生活力があって、多く稼ぐ遺伝子を待った子どもがたくさん生まれる」可能性がある制度なのだ。
 翻って、単純に子どもI人当たりに定額をばら撒く制度の下で何が起きるか?所得の高い層にとっては、その金欲しさに子作りするモチペーションは生まれないが、所得の低い層なら。一人あたり2万6千円は魅力的だ。極端な話、10人子どもを作れば毎月26万円の収入になり、「働かずに食べられる」と考える不届きな親が出てきても不思議ではない。こうなると、教育環境の悪い家庭で育つ子どもの数が増え、「生活力が低く、稼ぎの悪い親の影響が、世代を超えて受け継がれる」可能性が高くなる。
 この状態が数世代にわたった時、その国はどうなるのか?高額所得者に強烈な子作りのモチベーションを与えるフランスの制度の背景に「禁断の優生思想」がある、とまでは言わないが、結果としてそういう効果をもたらす制度であるのは間違いない。
 日本の制度はどうか?。
 民主党が政権を取って最初に実現したマニフェストは、生活保護家庭の母子加算復活で、職を失った若年層に対する生活保護の支給だった。今日の生活に困っている人々に、温かい手を差し仲べる施策は素晴らしい。しかし同時に、その施策の費用を稼ぐ層を作り出す策を取らないと、戦後築いてきた資産を食いつぶした時点で、日本は緩やかに死んでゆく。既に社会福祉の枠組みには、あちこちに崩壊の兆しが見え始めている。今の政権は間もなく終わる。次の政権に願いたい。まず、すべての施策に優先させて、明日の日本を担う人を産み、育てることに全力を挙げて欲しい。
 子ども手当を否定し、年少扶養控除を廃止した上に、少子化対策に何の役にも立たなかった児童手当を復活させるだけの民自公の施策で日本に明日があるのか?
 暴言でクビになった松本龍・前復興大臣の迷言をふと思い出した。
 「私は、民主も、自民も、公明も嫌いだ!」


 

 朝からワイドショーは島田紳助さんの引退の話題でもちきりで、前原さんの出馬表明も陰に霞んだ感じがあります。島田紳助さんのスクラップもあったはずと探してみたらありました。奇しくも記者会見と同じ「俺の美学」という言葉で締めくくられていました。

 

週刊文春2001.6.14.P74
家の履歴書
先は“島田興産”の家賃収入で暮らしながら淡路島で釣り三昧や
島田紳助(タレント)
1956(昭和34)年、京都市生まれ.本名:長谷川公彦.高校卒業後、”島田洋之介・今喜多代”に入門、77年松本竜介とコンビを組み漫才デビュー、爆発的人気を得る.85年コンビ解散後は司会やトーク番粗で活躍する他、映画監督やオートバイチームのオーナーも.3女あり.

  実家は今もそこですけど、西大路と言うて、京都の下のほうなんです。初めはちっちゃい、長屋みたいな家でしたよ。土地だって二十坪ぐらいやから。何度も増築して、四年前に三階建てにしました。
  僕は一人っ子やから何でも買ってもらえましたけど、買ってもらいながら、冷めた自分がいたんです、「これは間違った教育やな」と。それあんまり言うと、親父が悲しがるけど、僕はずっとそう思ってきたんです。そやから自分に子供ができたら物を買い与えんとこ、と思ってました。
  親父は大阪外大を出て国鉄に入ったんですけど、親父の生き方を「違うな」と思ったのは小学校3年の時です。親父は一生懸命勉強して国鉄の上級試験を受けたけど、筆記試験は受かっても、面接で落ちたんです。そのことに親父はすごく矛盾を感じるわけですね。僕は子供やからわからん振りしてましたけど、わかってたんです。人間、真面目だけではアカンのやと。そして大人になった時、国鉄が親父を面接で落としたことは正しかったと思いました。だってもし親父が管理職になってたら、駅で事故があった時、責任を感じて死んでたと思いますから。親父はそんな人なんです。でも人の上に立つ人間は、勉強だけじゃなく、懐も広うないといかんしカリスマ性もないといかんでしょう。
  僕は友達の間でリーダー的存在やったけど、勉強は嫌いでした。それ、親のせいです。僕が小学校三年の時に家庭教師を付けたから。祖父は染物屋で、「商人の子に学問は要らん」という考えだったから、親父には不満やったんですね。だから僕には勉強させてやろうと思ったわけです。僕は自分の娘が小学校三年で塾に行きたいと言った時、行かさなかった。四年生からでええと。
漫才ブームの頃は慢性睡眠不足いつもドアや柱に激突していた
  中学時代、長谷川公彦(本名)君はかなりワルかった。
  大谷高校がいい学校で、助かったんです。僕が中学でやった事件が高校へ入ってわかった時、「中学で起こしたことは問わない」ちゅうて、処分しなかったんです。前に講演頼まれて行った時、全校生徒に言いました、「こんな高校へ入った段階で君ら負けや。ここからいい大学に行って勉強で食える人間は三パーセントや。あとの九七パーセントの目的は、高卒という資格を貰うこと、人間関係を学ぶことや。こんな所で力を使うな。いつか人生で三年だけ思いっきりエネルギーをぶつけなアカン時が来る。その時までカを溜めとけ」と。すごい逆説やけど、生徒には目茶苦茶ウケましたわ。先生も「ええ話やった」言うてくれて。
  恥ずかしいて言えへんような大学やけど受かって、親父も行け言うし、そのつもりでいたら、ある日、NHKの漫才コンテストで”B&B”というコンビが優秀話術賞を取ったのを見たんです。洋七さんがメチャおもろくてね。僕が普段、友達を笑わせてる笑いと同じやったから驚きました。将来こういう笑いが認められる時が来るのとちゃうやろか。じゃあ、この人を倒すことに自分の青春を懸けてみようと思ったんです。でもどこへ行っていいかわからないから、洋七さんの師匠を調べたんです。それが”島田洋之介・今喜多代”師匠でした。
  このベテラン夫婦漫才の舞台を、青年は一度も見たことがなかった。うめだ花月に行ったのも、弟子入り志願のために訪れたその時が初めて。なのにいきなり「内弟子にして下さい」と。
  喜多代師匠に「あなた、何言ってんの。内弟子のほうがきついのよ」って言われたんですけど、「わかってます。でも僕、一人っ子なんで、両親とどっかで一回縁切らんとダメやと思うんです」って。
  親父は反対したけど、最後には「お前の好きにせえや」って。我が儘な一人っ子に内弟子なんかできるわけない、すぐやめると思ったんでしょうね。だから大学の授業料を一年分払いよったんです。
  師匠の家は奈良の生駒にあリました。他人の家で二年間暮らすのはやっばりきつかったですよね。もう一遍やれ言われても、できませんわ。けど当時は、どんなことがあってもこの二年間はやめんとこ、やめる時は死ぬ時やと決めてました。この世界に入る時の決意は誰よりも強かったと思います。でも今思うたら、決意の程度なんか関係ないんですね。遊び半分で入っても、入ってから本気になる子もおれば、命懸けで入ってきても簡単にやめる子もおるし。要は結果なんです。
  師匠の所にいてホンマよかったと思います。僕の人生の主な考え方はこの二年間でできましたもんね。特に喜多代師匠に教えられたことはメチャメチャ大きかったです。
  例えば師匠の布団畳んだ時、喜多代師匠に言われました、「長谷川君、これではダメや。折り紙を折るみたいにきっちり四隅を合わせなさい。人はあなたのことを四六時中は見てくれへん。人は一瞬の出会いや。たまたまあんたが布団畳んでるところを見て、きちっと畳んでたら、人はあんたを『きちんとした子やな』と思う。その逆やったら『何ちゅうええ加減な奴や』と思われる。つまらんでしょう」。
  その代わり、一所懸命やってて失敗しても絶対怒らない。NHKの生放送で、僕、師匠の衣装を持ってくるの忘れたんです。大変なことなのに、喜多代師匠は笑うてはりましたもんね。「お父さん、この子、私達がボケてないか試してんのよ」って。後日、「何で怒らなかったんですか?」と聞いたら、「あの日はあんた朝から忙しかった。完璧にやってた。それで忘れるのは仕方ないやないの」って。ホンマ素晴らしい方ですよ。
  ”年が明け”て青年は実家に戻ったが、これはと思う漫才の相方が見つからず、バイトをしながらイベントを。だが中央市場でもサパークラブでも、いくら「一時的なバイトだ」と言っても、すぐに責任者にされた。内弟子時代に培われた完璧な仕事ぶりが買われたのだ。
  収入もいいから、水商売に落ちつく気だったんです。それを止めてくれたのが”一球・写楽”の前田一球君やったんです。僕の仕事が終わる夜中の三時まで待ってくれて、京都の家で朝まで僕を説得してくれたんです。「お前は俺らより才能がある。そのお前がバッターポックスに立たずにやめるのは卑怯や」と。けどその後、僕がバーッと売れた時、冗談で言うてましたよ、「あん時、止めんかったらよかった」って(笑)。
  ”島田紳助”(師匠が命名)がめざす漫才に付いてきてくれる相方。それが、明石家さんまに紹介された松本竜介だった。紳助さんは彼に言った、「俺の思う通りやらせてくれ。絶対売れる。でも長続きしない。いつかコンビは解消する。だからお互い自分のために勉強しよう」。時に二十一歳、デビューは京都花月劇場。そして彼の言葉通り、”紳助・竜介”は爆発的に売れた。
  デビュー当時は服部(大阪府豊中市)のアパートでした。六畳と二畳、風呂なし共同トイレ。家賃一万二千五百円。あんまりボロやから、三力月後に中津町(茨木市)の1DKマンションを借りたんです。家賃五万五千円。これを払えるか悩んでねえ。ここで嫁(妻)が妊娠したんです。知り合うたんは僕が二十歳、嫁が十九。僕がバイトしながらイベントやってた時です。いえいえ、ファンじゃないです。ファンなんか全然いなかったから。僕ら切符買うてもらわないかんから、道行く人に売ってて、嫁も道行く人やった(笑)。中津町の部屋へ週一回掃除に来てたのが二回になり三回になり、一緒に住むようになったんです。
  長女の万起さんが生まれたのは、次の中央区難波の2LDKマンション。家賃十万円。ここで、人気お笑い番組「オレたちひょうきん族」が始まり、漫才ブームが来た。
  この時が一番寝てへん時ですわ。忙し過ぎて、どこで漫才してるかわからないんです。身体はフラフラ、手も足も皮めくれるし。ドア開けてて自分の頭ぶつけるんです。平衡感覚ないから。駅の柱に激突したり。コントですよ。
  この二年間は人生の激流期で、次々に新しい漫才が出てきて一ヶ月で順番が入れ替わってたから、人ばっかりマークしてました。”やすし・きよし”師匠や”巨人・阪神”さんは正統派漫才で、僕らは障害レースやから、分野が違うんですね。だから正直言うて、その時マークしてたのは”(太平)サブロー・シロー”ですわ。普通のコンビは力合わせても百にならんけど、この二人が協力したら百点満点になるんです。それが脅威やった。けど幸い最後までそれはなくて(笑)、二人は百を超えてショートしたんです。「ひょうきん族」にはさほど思い入れはないんです。あれはさんまと(ビート)たけしさんの番組やから。漫才ブームの後に”ピン”(単独で仕事をする)の時代が来る、その時どうするか、僕はそればっかり考えてました。番組の休憩時間も徴妙な会話するんです、互いの戦略を明かさないで。僕、たけしさんはどうするのかなと思ってました。役者ではないだろうと。そしたら、たけしさんが「役者はいけねえよな」ってボソッと。僕が「いけませんよね」。後年、(片岡)鶴ちゃんと当時の話をしたら、彼は「司会は紳助さんには敵わないから自分は役者でいこうと思った」って。残る人は考えてますよ。流されてない。さんまは長嶋茂雄。鋭いオチがあるわけやないのに華がある。何でもないサードゴロを華麗に取るんです(笑)。あの明るさには敵いません。彼は四十五年間躁状態やから(笑)。僕はむしろ「わくわく動物ランド」のほうに力入れてました。これを機にお茶の間に入らないかんと。
  何歳でお笑いの賞を取る、何歳で大阪でレギュラー、東京でレギュラー、自分の番組を持つ、本を出す・…恐るべき冷静さと分析力で全てを計画より一年早いペースで実現していった。唯一遅れたのは映画監督。「風、スローダウン」は五年遅れの三十五歳の時だった。数年前、紳助さんは奥さんに離婚を言いだされた。
  「あなたや娘達は夢がある。私も自分を試してみたい」と。考えた末、財産を半分に分けて月収の三割を奥さんに渡すという条件なら離婚を呑むと言うと、「それでは一から出直せない」と奥さんが拒否。結局、今も仲良く暮らしている。
  きれいごとやなしに、僕が今あるのは嫁のお蔭なんです。俺は親父に似て気が小さいから、前に女性間題が報道された時も「もう終わりや」って凹んでたら、嫁が「いいやんか。親に貰ったもの潰したら怒られるけど、自分が築いたもの潰しても誰も文句言わへんよ」って。俺、嫁のそういう太っ腹に何度救われたか。いや、真面目やないですよ、僕。女遊びも博打もしたし……。ただ、生きることに対しては真剣かもしれませんね。四年前に自律神経失調症になって、今も薬飲んでますけど、医者が言いました「明日でええわって思う人はこういう病気にはなりません」て(笑)。
  テレ朝の報道番組「サンデープロジェクト」での見事な司会ぷりについては、「アホな子でも十二年英会話へ通ったら、相手の言うことがわかります。喋れないだけで。あれが報道番組の東大なら、僕は単なる聴講生で。賢そうに見てくれはることに感謝してます」。この憎いばかりの客観性は、近著『ぼくの生きかた』(KTC中央出版)に顕著だ。三人の娘さんがこれまた真面目。長女は関西大学法学部で司法試験をめざして勉強中。次女は立命館大学をやめて米国留学中。三女は関西大学第一中学に。二十六歳で買った吹田市江坂の家に十一年。今は豊能郡能勢町の、実に七千二百坪の家に。東京と淡路島の他にもマンションを持ち、自ら「島田興産や」と笑う。
僕はタレントどして終ってるでも参院選出馬だけはない!
  あの子ら勉強ばっかりするんですよ。次女なんか、アメリカで一日に十時間以上勉強してるって言うんですよ。頭おかしいとしか思えん。次女が高校の時、僕が「何でそんなに勉強するんや。目標決めんと勉強しても意味ないでえ」って言うたら、「おっとう、それは違う。たくさん勉強すれば、人生の選択肢が増えんねん」って。なるほど、勉強するちゅうのはそういうことかと、娘に教えられましたわ。長女は国家試験めざしてるけど、ゼーッタイ無理。でもいいんです。過程が大事やから。僕、言うんです、「俺はスポンサーや。草レースに金払えるかい。パリ・ダカとかル・マンに出るいうから金出すんや。その代わりダラダラしてたら、スポンサーはすぐ撤退ッ。勝てへんでもスポンサーが納得するレースせえ」。
  うちは長女がぺースメーカ−ですわ。長女が言うには、「ゆか(次女)が一番賢い。あの子はイチローや。行くべくしてアメリカに行った。私は新庄や。周りがやめとけ言うのに司法試験受けようとしてる」。「ほな舞(三女)は何や?」って聞いたら、「カツノリや。親に溺愛されて生きてる」言うてね(笑)。
父親が誰よりも孫娘達の勉強ぷリを喜んでいるとか
  母親は明るくて喜怒哀楽が激しいけど、親父は無口でね。小学校の時、親父と二人で金比羅さんに旅行したことあるんですけど、二度と行くまいと思うたもんね。会話ないんやもん。国鉄に勤めてた時も、毎日同じ電車に乗って、タ方六時四十五分には必ず家に帰ってましたよ。酒も煙草もやらん。女遊びなんてとんでもない。何がおもろいんかなあ。親父もアパート持ってて年金もあるし、生活の心配はないんです。そやのに旅行もせんし物も買わへん。おかんに「いつも汚い恰好してる」って怒られてる。僕も「使えや」って小遣いやるんやけど、貯金しおるんですよ。けど最近わかった。初めて親父と理解し合えたんです。親父は”使う豊かさ”やなくて”持ってる豊かさ”なんやと。年とって生活の心配するより、こんだけあれば安心やと思える、そういう豊かさやないかって。親父に言うたら、「そうや」って言いましたね。僕はタレントとしてもう終ってます。先は家賃収入で暮らしながら淡路島で魚釣るんです・・・。一つ考えてることあるけど、今は秘密です。参院選出馬?いや、それはハッキリ言いますわ。絶対ない。僕が、タレントで売れた後に国会議員になろう思うてこの世界に入ったんやったら別やけど、今なろうと思うたらなれるから議員になるて、カッコ悪いじゃないですか。それ、俺の美学と違うもん。

  5年前の東京医科歯科大学ラグビー部の部誌に載っていた先輩の近況報告です。ちょっとショックを受けました。

司法試験を受験したW先輩
「青年は荒野をめざしたが・・・」
 家族構成:妻1人、猫5人
  平成8年発刊の鵬球(註:ラグビー部誌の名前)に、「ただいま冬眠中」、本文は「・・・」(これだけ!)という原稿を出した。で、そのとき何をしていたかというと、歯医者さんの仕事はホントに冬眠状態にして司法試験の受験生をしていた。
  郷里のM県で開業していたが、単調で忙しい毎日に「なんとなく、つまらないなあ」と感じていた。そんな時、たまたま本屋さんで立ち読みをしたのが司法試験の合格体験記。「へー、おもしろそう」と買い求め、ついでに司法試験の過去問集も買ってみたところ、けっこういける。択一試験くらいは何とかなりそうな気がして、診療の合い間に法学の基本書を読んだり問題集を解いたりする日々をすごした。
  そうこうしているうちに、初めて受けた択一試験、ホントに受かっちゃって、ついその気になった。

  「よし、診療所を閉めて東京へ行こう」。平成6年、37才の時だった。それ以後、択一試験は連戦連勝。司法試験予備校では一回り以上も年の違う若い受験生とゼミを組んだりして、名実ともに受験生していた。一時は予備校の特待生になったこともあった。
  ところが、次のステップである論文試験の壁は想像以上に厚かった。生来の天邪鬼な性格のため、他人と違った論文を書こうとする。通説・判例に立たず、少数説に立つ。答案練習会でも採点者によって評価が天と地ほど違う。でも、なぜか「権力にへつらうのはイヤだ」という変なこだわりがあって、なかなか「よい子」になれない。素直な現役大学生はスーッと合格していく。こちらは知識だけは豊富なのになかなか合格できない。やがて生活に困るようになり近所の医科歯科卒業生のもとで週イチのバイトを始める。封印していた歯医者さんを再開してはみたものの、院長の診療方針には素直に従えない。う〜ん、どうしよう。ここらが年貢の納め時か・・・。
  ということで平成12年、千葉県A市で2回目の歯科医院開業。1回目の開業の時に開業祝をしてくれたラグビー部の同級生が再び集まってくれた。関東近辺はもとより、九州や関西からも(ありがとうございました)。田舎で開業していた頃よりも患者さんの数は少ないが、その分、技工をする時間的余裕がある。Cr-Brの医員時代に金属床のフレーム以外は全て自分で作った経験が生きた。司法試験の受験生仲間はほとんど合格して弁護士になった。その連中が家族や知人を紹介してくれる。
  人間万事塞翁が馬というところか。50歳を目前にして、感慨にふける今日この頃です。

江戸時代水道網就学率は世界一
  「大江戸庶民事情江戸のまかない」(石川英輔・講談社・2002年)と言う本を読んでいると面白い記述がありました。

P25
 たとえば、十七世紀から十九世紀前半つまり江戸時代の大部分を通じての江戸の水道網は当時の世界では、給水人口、給水面積、給水量のいずれをとっても飛び抜けた規模だった。水の都で八百八橋の大坂では、水道の必要さえなかった。その辺の掘割で汲んだ水を上水として使えたからだ。大都市の中に飲める水が流れていたのである。

P129
 遊びが盛んになるもう一つの要素に、識字率の高さがある。
 自分の経験と口づてだけで知ることのできる知識はわずかだが、読み書きができれば、文字情報によって世界は広がる。たとえ貧しくても充分な余暇があれば、貸本を読むだけでも大きな楽しみを得られるし、さまざまな遊びの世界に入り込むこともできる。
 イギリスは、十九世紀の世界では第一の先進国だったが、工業都市の就学率は二十パーセント台にすぎなかった。ところが、同時代の日本の江戸、京都、大坂、名古屋などの大都市の市街地では、子供の九十パーセント以上が寺子屋へ読み書きを習いに行くようになっていた。当時の日本の就学率は世界最高であったのである。
  江戸時代の日本を代表する文化が貴族文化ではなく、庶民文化だったのは、庶民の教育水準が高かったからにほかならない。

  たかが週刊誌とあなどるなかれ。昔、「歯無しにならない話」(1984)「患者のための歯科のすべて」(1987)という本が朝日新聞社から出版されました。当時の超一流と言われた歯科医師にていねいに取材されたその内容の充実度に驚かされました。内容的には少し古くなりましたが、歯科の学生さんが歯科について全体像を掴むにはこういった本から入った方がいいかもしれません。今、Amazonで調べたら中古が¥1からになっていました。別に郵送料が取られますが。その頃から何十年と知識と情報の集積は続けられています。担当者の知識も相当なものになっていることでしょう。

  噛み癖について理解されている歯科医師はそう多いとは思われません。それでもこれだけ繰り返し載せられています。恐るべし朝日編集部。

 「口呼吸やめれば美人になれる」

  2001.3.23週刊朝日P140

  リウマチ、アトピー、ぜんそくなど、「すべての免疫病は口呼吸が原因で起こる」。

  本誌昨年12月22日号の記事は大反響を呼んだ。ところが、「口呼吸の恐怖」はそれだけではなかった。出っ歯、目のたるみ、タラコ唇、シミ、シワなど、美人からどんどん通ざかる原因にもなるというのだ。
ほおづえをついてテレビを見るのは禁物だ
  「あなたは口呼吸をしていますね。だから出っ歯で、唇がたるんでいるんです」
  東京大学医学部口腔外科の西原克成講師は、記者の顔を見て容赦なくこう言い放った。
  えっ、でも、どうして口呼吸が出っ歯を引き起こすの?西原講師によると、原因はどうやら、口呼吸の人の食事法にあるらしい。
  人間は食べ物をのみ込むとき、唇を閉じて口の中の圧力を下げるのだそうだ。ところが、口呼吸をしている人は、食事のときも常に唇が開いているから、口の中の圧力を下げるために無意識のうちに舌で上の歯と下の歯の間をふさいでしまう。このとき、舌は歯に四十〜六十グラムの圧力を加えているという。
  「歯というのは、咀嚼運動のように縦方向から加わるカには五十キロ程度まで耐えられるが、横から加わるカには弱い。たった二十グラムのカでも、絶えず横方向から圧力を受けていると、歯は少しずつ動いてしまうのです」(西原講師)
  つまり、口呼吸をしている人は、食事のたびに舌で前歯を押していることになる。話をするときや、唾液をのみ込むときも同じ。結果、出っ歯になるという。
  なるほど。でも驚いてはいけない。ロ呼吸で影響を受けるのは歯並びだけではないという。
  「口呼吸では、鼻から上の〃表情筋〃を動かす機会がなくなります。すると、目がたるみ、小ジワが増える。口を閉じないでいつもポカンと開けているので、下唇は緊張感がなくなり、上唇に比べて厚い〃タラコ唇〃になる。口呼吸では十分な酸素が吸えないので、体じゅうが酸素不足になって皮膚が黒ずみ、シミも増えます」
  口呼吸を続けていると、こんな末恐ろしいことになってしまうのか…・。
  さらに追い打ちをかけるのは、西原講師が口呼吸が原因という片側噛みだ。「口呼吸をする人は歯並びが歪み、連動してあごの形も歪んでくる。すると、多くの人が片側噛みのクセを伴うんです」(西原講師)
  人には利き手があるように「利きあご」がある。ガムを口の中に放り込んだとき、自然とガムを噛み始めるのが利きあごだ。記者の利きあごは右側らしく、西原講師に、「顔の左側がたるんでいます。右が〃地鶏顔〃で、左が〃ブロイラー顔〃」と指摘された。
  利きあご側の筋肉は引き締まってほおがピンと張る(地鶏顔)が、使わない側のほおやあごの筋肉は緊張感がなくなりたるむ(ブロイラー顔)。すると、
  「利きあご側は口角が引き上げられるので、人によっては目の周囲の筋肉が極端に引き締まってしまい、目が小さく見えることもある。いつも同じ側の歯を酷使するので、歯並びにもひずみが起き、顔がゆがむのです」(西原講師)片側噛みはこんな現象も引き起こすという。
  「顔と首の筋肉は連動していて、片側噛みを続けていると、首の筋肉は利きあご側の筋肉に引っ張られて縮み、利きあご側へ首が傾いてきます。すると、寝るときには利きあごを下にすると楽になり、"眠りグセ〃がついてしまうのです」(西原講師)
  この眠りグセ、顔の骨格を歪める作用としては、口呼吸や片側噛みよりも強力らしい。というのも、仰向けで寝ているときは人間の頭は五キロほどだが、横向きやうつぶせで寝ると、枕や体重の圧力を受けて六〜九キロもの重さになる。つまり、横向きやうつぶせで寝ていれば、たった十センチ四方のあごに随時六〜九キロの重さがかかっていることになるのだ。
  口呼吸→片側噛み→寝相の悪さという連鎖が「ブス顔」を生み出す原因となっているようだが、実はこれ以外にも、私たちが何げなくやっている悪いクセがある。
  例えばほおづえ。たとえ短時間であっても、五キロもの頭の重さがあごに加わるのだから、顔が歪む原因になるのだという。こうした何げないしぐさがあごの動きを阻害し、顔を歪めることは、現役の歯科医も指摘している。『女のキレイは「歯」と「口もと」から』の著者、林歯科(東京都中野区弥生町)の林晋哉氏はこう言う。
  「何かに夢中になっていると、つい奥歯を噛みしめたり、食いしばったりしてしまいますが、そうするとあごの関節や筋肉が疲れ、凝りや痛みを生じます。噛むのに偏りがあったり、横向きやうつぶせ寝をしていれば、片方の筋肉が凝ってしまいます。すると、片側のほおが盛り上がったり、口元が歪んだりと顔のバランスが崩れていくのです」
片側噛み矯正で表情か生き生き
  いずれにせよ、西原講師によれば、三大原因を取り除くことが美人への近道のようだが、ではどうしたらいいのか。
  まずは口呼吸。西原講師によれば、口呼吸をやめるには、口と肛門を閉じ、背筋をしっかり伸ばして腹式呼吸する。鼻には市販の鼻腔の容積を広げるテープや器具を使い、口は紙テープを軽く張って、鼻呼吸しやすくするといいという。きちんと鼻で呼吸できるようになれば鼻の周りの筋肉が鍛えられ、三カ月くらいで鼻が高くなるそうだ。
  片側噛みの矯正には、虫歯になりにくいキシリトール入りガムを噛む。利きあごのほうに一つ、反対のあごに二つ入れ、軽くリズミカルに小刻みに噛む。強く噛みすぎると、歯が沈んでしまうので注意。
  「ガムを使って片側噛みの矯正をすれば、あごや顔の筋肉がグッと引き締まっていい顔になる。たるみがなくなるので、目がぱっちりと大きくなり、表情が生き生きしてきます。ふ抜け顔だった人が、すっきりとした美人に変わりますよ」(西原講師)
  寝相は、仰向けで寝ることを心がける。高い枕は気道を圧迫し、ロ呼吸を誘発するので、硬めの布団に枕なしで寝てみる。どうしても必要なら、頭が沈み込む柔らかい羽毛枕がいい。
  早い人なら、二週間で効果が表れると、西原講師は言う。無意識のうちに歪めていた美しさ。今日から気をつければまだ取り戻せるかもしれない。

  なでしこジャパン世界一おめでとうございました。

  ある女性ニュースキャスターが言っていました。「なでしこは強いんです。だって野に咲く花ですから。」

  この言葉を聞いた時に院長の頭に浮かんだのは次の文章です。何故だかわかりませんが。

  F.L.ライト有機建築
  文芸春秋2000.1月号、私たちが出会った20世紀の巨人
  F.L.ライト、日本女性の足はかわいいが、脚は格好良くない 遠藤 楽
  帝国ホテルの設計で日本人にもなじみ深い建築家、フランク・ロイド・ライトはアメリカ、ウィスコンシン州の出身。シカゴに出て、いくつかの建築事務所で働いた後、独立。大草原に広がる「草原住宅」や砂漢につくった「タリアセン・ウェスト」は彼の理論〈有機的建築〉を余すところなく伝えている。一九三二年、ウィスコンシンに建築家志望の若者を集めて共同生活を始め、そこをタリアセンと呼んだ。五九年、九十一歳で死去。建築家の遠藤楽さん(七十ニ)は五七年から一年聞タリアセンで学んだライトの弟子。

  ライトさんが帝国ホテルを建てたとき、日本側の技術面の責任者になったのが私の父、遠藤新です。父は師を尊敬し、誠心誠意つくしましたから、ライトさんも父のことを大変かわいがったようです。
  忠臣蔵の四十七士の話をご存じで、父への手紙にはTo the 48th “Ronin” Endo san(四十八番目の浪人、遠藤さんへ)と書かれてありました。忠実に仕事をしてくれてありがどう、という気持ちがこめられていたのだと思います。
  終戦直後、父が病気で入院していることを知ったライトさんは、マッカーサー元帥に直接手紙を書いて遠藤の家族と林愛作さん(元帝国ホテル支配人)の家族をアメリカに連れて来てほしい、と直訴したほどでしたが、マッカーサーからは軍が一般市民を運ぶことは無理なこと、わかってほしい、という返事が来たそうです。実現はしなかったものの、その暖かい親切に父は泣いて喜んでいましたが、病気は治らず、その四年後に亡くなりました。
  こういった事情があったせいで、私が建築家を志し、タリアセンで学びたいという手紙を書くとすぐに受け入れてくれました。そこではタリアセン・フェローシップといって建築家志望の学生たちが世界中から集まっていました。
  五七年、私がタリアセンに行ったとき、ライトさんはもう九十歳。しかし本当に信じられないのですよ。その元気さ。毎日毎日、きちっと正装して製図室に来て自分で図面を書くんです。すべての作品は全部、自分で生み出す。アイデアが湧き、それを形にして、図面を書く。それが九十歳にして驚異的に早いんです。
  どうしてそんなに早くできるのですかと尋ねたことがあります。
  「君らは紙に向かって考えているね。私の場合は頭の中に全部できているんだ。それをただ書き写しているだけだから、早いのはあたり前なんだよ」
  そんなライトさんを見ていましたし、父も死ぬまで鉛筆を持って書いていましたから、私もいまだに自分で図面を書いています。
  当時タリアセンには総勢七十名ほどが共同生活をしていました。学生は三十名くらい。イラン、イラク、インド、スイス、オランダ、中国など、各国から学生が集まっていました。
  敷地は百万坪もある広い広いところで、学生たちが生活するヒルサイドとライトさんの自宅とは一キロ近く離れていました。ライトさんは毎朝ヒルサイドの製図室に来て図面を書いておられました。普段、食事は自宅に帰られていましたが、毎土曜日の夜は正装して私たちと共にヒルサイドで夕食をとられました。その後必ず音楽会と映画会がありました。また、日曜日の朝も私たちと一緒に食事をされ、その後一時間くらい、いろいろな話をしてくださいました。
  例えば「文明と文化の違いはわかるかい?」といったこと。日本の例をあげて説明してくれたこどもあります。
  日本の女性はとてもきれいな手をしている。手の動かし方もすてきだし、肩の線もきれいだ。大きな袖があって手を動かすと、蝶々の羽根のようになる。これはムーブメント(所作)を心得ている証拠だ。ただ、レッグ(脚)はあんまり恰好良くない。フット(足)はかわいいんだが。そこでレッグをきれいな花模様の着物で覆っている。そのかわり、かわいいフットがちらちらと見えるんだ。そこがいいね。ああいうデザインというものはそう簡単にできるものではなくて、生活の歴史から生まれてきたものだ。きちんと寸法も決まっている。これが文化というものなのだよ。
  アメリカの女性は自分たちをきれいに見せるために何をしたか。肩や背中を見せただけ。ただ肌を露出しただけじゃないか。
  ライトさんはそんなことを言っていました。それからよく覚えているのは、学生たちに向かってこう言ったことです。「私はあなたたちに何も教えることはできない。私は私の設計をしている。自然の中に何をつくるのか。これを私の答としてつくっている。人のマネをしたらあなた自身がなくなっちゃうよ。自分自身でつくること。これが一番大切なことなんだ。じゃあ、あなたたちは誰を〃先生〃とすればいいのか。あなたたちの先生はどこにいるのか?〃先生〃は大自然だ。大自然から学ぶことしかできないんだよ」
  ライトさんの設計は有機的建築といわれていますが、有機的とは、実はとても厳しい話なのです。
  自然界のあらゆるものは有機的な姿をしています。ただし温室のものは違う。温室のカーネーションは自力では生きられない。そうではなく大自然の中で生きている生命体は大変な苦しみをして生き残ってきた。魚も鳥も動物もみんな仲間は死に、何千分の、何万分の一の割合で生き残ったわけです。そういうギリギリの苦労をしているときは余計な装飾をつけている暇はありません。人間から見ればきれいな色の鳥や変わった形の巻貝も、すべてそうでなければ生き残れなかった、という姿をしている。必要とされる部分だけによって全体が構成されているもの・・…それをライトさんは〃有機的〃と呼ぶのです。
  〃建築〃とは、大自然の中に建物を返す、ということなのです。残念ながら日本では大自然という感覚がうすれてしまいました。
  ついこの間も、ライトの遺した作品を見るツアーを組んでアメリカに行ってきました。本当によかった。作品が実にあったかい。その中にいると気持ちが落ち着いてあったかくなる。行った人はみんな喜んで、何ともいえないいい雰囲気に包まれました。
  ほんものは決して古くはならない。つくづくそう実感しました。

  桜井充さんは学部は違いますが、院長の大学の1年先輩です。医師で参院議員です。歯科のことについても非常に勉強されていて、いつも応援してくれているようです。

  院長とは医学部80名、歯学部80名の2学年、合計320名の教養部で1年一緒に過ごしたはずなのに、全く覚えがありません。卒業してからも一度もお会いしたことはありません。

  東京医科歯科大学歯科同窓会報からの引用です。原文には多数図表が添付されていましたが、省略しました。省略した文章の流れをよくするために、院長が文章を一部改変しています。

  「中谷巌氏の懺悔の告白」と一緒にお読み下さい。 

 桜井充氏講演会(平成19年3月13日、東京医科歯科大学歯科同窓会主催の講演会)
講演要旨
 みなさんこんばんは、参議院議員の桜井です。今、公的皆保険制度が相当危険な状態にあります。また今日本がどういう風に動かされているのかということを知っていただくと相当驚愕されると思います。私も今年で国会議員になって十年目を迎えます。それまで官僚政治がだめであり官僚そのものがだめであると思っていました。ところが議員になってわかったことですが、官僚をコントロールできない国会議員が情けないのだということがわかりました,また、それ以上にすごいことは、この国を動かしているのは与党自民党ではなく、ましてや官僚でもなくアメリカなんだということがはっきりしました。実例を挙げながら、いかにアメリカ政府が用意周到にこの日本を自国の利益の温床にしているのかというお話をしていきたいと思います。
 まず、今日本では未婚率が上昇しています。この原因のひとつは年収によって結婚できない人たちが増加しているからであり、年収の低下は非正社員やパート・アルバイトの増加が原因と考えられます。もうひとつ、年収の違う親たちが、子供の最終学歴についてどの辺まで望んでいるのかということです。進学率は親の年収によって大きな開きが見られます。この学歴社会においてこの差は決定的であると思われます。結局は年収によって子供の行き先が違ってきますので、格差が露呈するのは至極当然のことと思います。

   次に、大企業と中小企業の利益率の差についてです。二〇〇三年以降その差が大きく乖離してきています。大企業が利益を上げていれば、その下請けの中小企業も利益を伸ばすものですがそうではない。つまり大企業の利益が中小企業に還元されていないのです。また、労働分配率は二〇〇三年以降急激に落ち込んでいます。一方で株主に対する配当金は増加してきている。つまり大企業の収益は労働者や大企業ではなく株主の配当に回っているということです。この国では貯蓄から投資へということを謳っているので、さもこういう流れが当然であるかのようですが、この国の筆頭株主は日本人ではないのです。では誰が株式を所有しているのか。もともとは事業法人、個人、それから銀行がもっていましたが、二十一世紀に入ってから、外国人の保有率が急激に増えてきています。いまや外国人が筆頭株主になっている。つまり企業の利益は労働者に分配されず外国人に配当される。そして労働組合が弱体化する。

    アメリカにとって労働組合は邪魔者です。なぜなら労働組合に対する利益分配が増加すれば、その分株主に対する配当が減少するからです。よってアメリカは一九九六年労働組合の力を弱め、非正規雇用を増やそうとポジティブリストからネガティブリストに変えるという要望を出している。また司法制度の改革は、日本でもアメリカ並みの訴訟ビジネスを起こすために、建築基準法はアメリカからの林産物を増やすために(その結果日本の輸入は八倍に増加した)、大店法はウォルマートなどの大型店舗のための要望でありました。

  それから郵政の民営化ですが、これは簡易保険制度に対しアメリカの商工会議所が、民でやれることをなぜ官でやるのかと訴え続けていましたが、小泉内閣になって対日要望書が交わされるようになるととたんに静かになりました。この対日要望書がマスコミに載ることはほとんどありません。郵政民営化よって、簡保だけでなく郵便貯金というおまけがついてきました。彼らにとって郵貯とは非常に魅力的なものです。今日本国債を買い支えているのは、簡保、郵貯、年金ですが、そのうちの簡保と郵貯が民営化されれば約三百兆円ちかい資金がそこにあります。郵貯の新会社の資本金は約八兆五千億円程度しかありません,そうすると今度は会社法が改正され株式交換で企業が買収できるようになり、その程度の企業を買収することは難しいことではありません。このようなことが起こると大変なことになると気づいたのがかのホリエモン事件であり、あの時堀江さんが株式交換で企業を買収するのをみて、これは何か歯止めを作らなければまずいということで、会社法の中で株式交換による企業買収は一年間凍結されました。これにはアメリカ側も落胆の色を隠せませんでしたが、この間に日本側も対抗策を講じる時間を与えられたわけです。
 もうひとつアメリカにとって邪魔な存在があります。それは官僚です。ですから対日対米要望書を財政諮問会議などのレベルでトップダウン方式で交わし、官僚の出る幕を与えなくしています。組織自体も与野党ともに天下りの問題などで官僚バッシングを続け、結果心ある官僚は次々とやめてゆき、外資系企業に再就職しています。つまり今まで防御してくれていた人たちがみんな敵方に回ってしまったわけです。
 考えてみると、五十五年休制の中で官僚は自民党の最大のシンクタンクでした。また、労働組合というのは旧社会党の最大の支持基盤でした。ようするに日本社会主義を支えてきた官僚と労組を叩き潰すことがアメリカの冷戦終結後の課題であり目標であったのだろうと思います。
 最終的に、郵貯がアメリカ系企業に買収されたら日本国債は一気に暴落すると思われます。そして私が今やっていることは、心ある官僚と相談し、どのようにしてこれを防いでゆくのかということを中心にしています。

  次にアメリカ政府が医療に関して関心を寄せていることがひとつあります。それは株式会社の医療分野への参入と混合診療の導入です。混合診療に関しては、今までの保険医療に加え金銭的に余裕のある富裕層がさらに高度な医療を上乗せできるような制度であり、これ自体は問題ないと思いますが、実はその後に公的皆保険制度が引き下げられないかということが問題になります。平成三十七年度には医療給付費が現行制度では五十六兆円になります。これでは制度自体が破綻してしまうため、経済財政諮問会議ではこれを四十二兆円にまで削減する方針でした。しかし、これだけ保険給付が減少したら医療従事者はまともに働けるでしょうかと質問したところ、彼らの答えは「考えたことがない」とのことでした。ただし彼らは医療給付費は抑制するものの、医療費自体は抑制しないといっている。では五十六兆円(窓口を入れると六万兆円)と四十二兆円との差額は誰が埋めるのか。ここに実は民間保険会社の入り込む余地があるのかもしれません。今我々が注視し目を光らせていなければならないのは厚生労働省ではなく、経済財政諮問会議であり規制改革会議なのです。ここのところを何とかしなければ、アメリカの要望通り民間保険が導入される足場を作ってしまい、日本の医療制度を保持することは難しいでしょう。 最後に技工士さんの問題を取り上げたいと思います。今、技工士学校が潰れています。あと十年で優秀な技工士がいなくなり、日本の歯科は相当なダメージを受けることになりそうです。これは、医療費の低下さらにその歯科に対する分配が少なすぎるため、末端に位置する技工士や衛生士が育ってこないためです。技工士を育成し、若い人たちが働ける環境を作っておかないと世代交代がうまくいきません。このことは近い将来歯科界にとって深刻な問題となるでしょう。

(質疑応答)

質問 具体的な方向として政治を変えるというのはどういうことなのか

答  単純に言えば、自国の国益につながることに関しては、はっきりアメリカにNOといえることだと思います。いまや対米の貿易高は二十五%にすぎず、アジアに対するほうが圧倒的に多いのです。あとは軍隊の問題だけでしょう。アメリカに頼らず独立した国を作る。そのためには官僚を味方に付けNOと言うしかないのです。 

 (院長)

  米国の対日要望書による主な改正項目は①郵政民営化②建築基準法③労働者派遣法④会社法⑤大店法⑥司法制度⑦行政慣行などだそうです。これらをやってくれと言われて、ほとんどその通りになっています。

  桜井氏の説によると時代の流れ(グローバル化)のために仕方ないと考えられていた、終身雇用の廃止と派遣の増加、大型ショッピングセンターの誕生とシャッター通りの増加、弁護士の増加と司法試験制度の変化、企業の収益は増加しているのに労働分配率が低下していることなどは、米国の一部の金持ちを儲けさせるためのものだったということになります。日本の持つ良い所をどんどん壊して、多くの日本人を苦しめてまで、米国人の一部の金持ちを喜ばせて、何をやっているのだということになります。このまま米国の要望を聞き入れていたら、世界最高とまで言われた国民皆保険までも壊されてしまうことになりかねません。国民皆保険を死守し、米国にNOと言い、古き良き日本を取り戻しましょう。一部の大金持ちと多くの貧民の米国流は日本に馴染みません。一億総中流でいいじゃないですか。震災後特にそう思います。           

  院長は多少消費税を上げても、医療・介護・教育・保育の充実を図った方がいいという考え方です。高齢化社会に向かう中で小さい政府をめざせば、医療・介護・教育・保育や年金も小さくするしかしょうがなくなります。

規制緩和の旗振り役中谷巌氏が「懺悔」の告白
「改革」が日本を不幸にした
週刊朝日2009.1.23  118ページより
 中谷巌氏といえば、構造改革の急先鋒の経済学者だったはずだ。小泉改革に与えた影響も大きい。その中谷氏が「改革」の一翼を担ったことを懺悔している。新著『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル)では、市場主義一辺倒では社会は分断され、日本人は幸せになれないと断言した。「反省の弁」と「提言」をたっぷり聞いた。

  中谷巌氏は、長年、米国流の「規制のない自由な経済活動」を重視する「改革派」として活躍してきた。特に小渕内閣で「経済戦略会議」議長代理として竹中平蔵氏らとまとめたさまざまな提言は、後の小泉構造改革に盛り込まれ、その一部は実現された。

  私が「改革」に疑念を持ち始めたのは、政治から距離を置くようになったここ7、8年のことです。社会のできごとを見ているうちに、「日本はおかしくなっているのではないか」という気持ちがだんだん強くなってきたのです。
  私はこの間、私が塾頭を務める多摩大学の「40歳代CEO育成講座」などで、歴史、文化、哲学などの専門家だちと交流し、彼らの深い学識から多くの知的刺激を受けました。やがて、経済学で記述できることは社会全休の2〜3割に過ぎないとわかってきたのです。
  そして今は、「アメリカ流の構造改革は日本人を幸せにしない」という、確信に近いものを持っています。

  中谷氏の原点は、1969〜74年のハーバード大学留学。米国の豊かで寛大な姿に魅せられ、市場主義的な世界観に没頭した。

  私はアメリカかぶれになって帰国しました。規制を排し、あらゆる経済活動を市場にゆだねることが、経済を発展させ幸福な社会をつくるという「新自由主義」を信じて、構造改革の片棒を担いできました。
  しかし、いわゆる「グローバル資本主義」(「米国型金融資本主義」)がもたらしたのは今回の金融危機であり、加速度的な環境破壊であり、急激な貧困層の増大でした。
  たとえば日本ではこの10年間に、年収200万円に満たない貧困層が200万人も増えて1千万人の大台に達しました。実に4世帯に1世帯が貧困層で、OECDのリポートによれば、主要先進国で米国に次ぐ第2位の「貧困大国」です。一方で、昨年起きた秋葉原の無差別殺人に象徴されるような異常犯罪が目立ってきました。また、「小さな政府」のかけ声のもとに、十分な税源移譲がなされないまま、一方的に地方交付金や公共事業が削減され、地方経済は壊滅状態です。
  人と人とのつながりは希薄になり、苦しんでいる人たちに投げかけられるのは、「自己責任」などという陳腐で冷たい言葉です。さらに医療は崩壊し、日本を支えてきた人々の尊厳を踏みにじる愚策、後期高齢者医療制度が始まりました。うつ病や自殺が増えて、食品偽装などで、日本の特徴だった「安心と安全」が脅かされる社会になってしまった。
  私は「改革」のすべてを否定しているわけではありません。政官財の癒着や既得権益の構造にメスを入れることは必要だったし、郵政改革で、郵便貯金などの資金が自動的に不要不急の公共事業に使われるシステムを変えたことは評価します。しかし、その結果、村のたったひとつの郵便局が採算が悪いと廃止されてお年寄りが困っているとしたら、そこにどんな意味があるのか。社会の細部に目配りができず、温かさまで排除する「改革」には、ついてゆけなくなった。かつての私は「改革」の片面しか見ていなかったのです。
  竹中氏のように今なお、「改革を徹底しグローバル資本主義がしっかり機能するようにすれば、これらの問題も解決されてゆく」と考えている人もいますが、私はそうは思いません。
  なぜなら、この危機的な状況は、グローバル資本主義の「本質」によるものだと思い至ったからです。

  その本質とは何か。中谷氏の話は核心へ進んだ。

  一言で言えば、グローバル資本主義は、世界経済を著しく不安定化するとともに、エリート層に都合のいい、大衆支配や搾取のツールになっています。
  たとえばサブプライムローン問題では、このロ−ンを作り出した(貸し出した)側は危険性を熟知していた。しかし、巧みな金融工学の手法を使って、この債権を優良な金融商品に見せかけ、マーケットで大量に売りさばいた。一方、甘い誘惑に乗せられた低所得層の借り手たちは、借金を抱えて路頭に迷っています。
  インターネットが普及して誰もが世界中の情報にアクセスできるようになった。しかし実は、エリート層はより多くの情報を持てるだけでなく、情報を「創り出せる」のです。マーケットに影響を与える情報を創り出せる人がより多く稼げるのは当然でしょう。

市場経済万能で環境破壊も進む

  グローバル資本主義が広がる中で、日本でも米国でも高額所得者の大幅な減税が進みました。米国では、81年にレーガン政権が登場したのをきっかけに所得格差が拡大し、所得上位1%の富裕層の所得合計が米国全体の所得に占める割合は、8%から17%台に急増しました。07年、投資銀行「ゴールドマン・サックス」の世界の従業員の平均年俸が7千万円に達したのに対し、米国では5千万人近くが健康保険に入れずに医者にかかれない。所得の再配分が機能していないのです。
  これこそが、グローバル資本主義が持つ「格差拡大機能」です。それを、「改革なくして成長なし」などのキヤッチフレーズのもとに積極的に導入したのですから、日本で貧困層が急速に拡大したのも当然でしょう。

米国流のグローバル資本主義が日本、いや世界の普通の人々になじまないことが見えてくる。

  昔ながらのローカルな資本主義では、労働者は消費者でもあります。労働者が豊かになれば、経営者もモノが売れるので得をする。したがって貧しい人にも所得配分がなされていくわけです。しかしグローバルな資本圭義のもとではそうはいきません。
  たとえば中国で作られた商品を買うのは米国や日本の消費者です。中国の労働者に利益を還元する必要はない。だから、もし賃上げ圧力があれば、別の場所に工場を移せばよいだけです。同様に、賃金の高い先進国では、産業の空洞化が起き、労働者は失業や賃金の切り下げ、過酷な労働条件に苦しむことになります。
  米国流の市場原理主義からすれば、日本的な終身雇用副度や年功序列制度は効率が悪い。こうして日本企業は、成果主義を導入しパートや派遣を増やした。この雇用「改革」の結果が、労働者の3分の1が非正規雇用になり、派遣切りが相次ぐ恐るべき現状です。
  もうひとつ見逃せないのは、グローバル資本主義が環境破壊も進めることです。どこかの国が自然破壊への規制をかければ、より規制のゆるい地域に資本を投下します。環境対策はコストがかかるからです。結局、地球環境悪化には歯止めがかけられないわけです。
  そんなグローバル資本主義も、昨秋のリーマン・ブラザーズ破綻以来の世界的な金融危機(経済危機)で、曲がり角に来ている。
  楽観的に見積もっても米国経済の回復には4〜5年はかかるでしょう、今こそグローバル資本主義を抑制するチャンスです。
  最良の策は、「世界中央銀行」を設立して通貨価値をコントロールすることです。さらに言えば「世界政府」ができて、公正な再分配を担うことですが、当然、すぐには実現不可能です。

消費税20%でも貧困層救う秘策

  日本は、国の活力の原動力となった「安心・安全」な社会を再生することが最優先の課題でしょう。
  麻生内閣が進める2兆円の定額給付金では効果はありません。「希望なき貧困大国」から脱するためには、基礎年金を税方式にし、現状で保険料を納められない人にも老後の最低限の生活を保障すべきです。その財源は消費税で、私は20%にすべきと考えています。
  これでは「大増税だ」と反発を受けるでしょうが、一方で、たとえば年収1千万円以下の人に毎年40万円を還付するのです。そうすると、年間消費200万円の人は、消費税が差し引きゼロとなります。100万円の人なら20万円戻ってくる。これで貧困層を救済する。そうすれば、日本は少しは温かみのある社会になるでしょう。
  さらに、伝統的な文化のよさに、もう一度、目を向ける必要があるでしょう。
  たとえば、日本の商人や企業は目先の利益より長期的な信用の醸成に力点を置いてきました。実際自動車メーカーは付き合いの深い部品メーカーとの信頼関係によって品質を飛躍的に向上させることに成功した。競争入札で部品を調達する米国の自動車メーカーとでは、クルマの完成度が違ってくる。長期的信頼関係。これが、日本の自動車産業が勝った理由です。
  また、日本は世界的に見て階級差が小さい社会です。それゆえ、日本企業には、経営者も一従業員も一体となってよりよい製品を作り出してゆく「現場主義」の姿勢が生まれました。正社員と非正規労働者の格差などで大きく損なわれてしまったこの現場主義を取り戻すことも肝要です。
  そして環境問題です。縄文時代から培ってきた「自然によって人は生かされている」という謙虚な自然観があります。自然を畏怖し、草木一本の中にさえ神を見いだす感性を持ち、里山を保全し、鎮守の森を人切にする。日本こそが、環境問題でイニシアチブを取るべきではないでしょうか。こうした姿勢を世界に見せていくことです。
  私の懺悔と提言をまとめた『資本主義はなぜ自壊したのか』は竹中平蔵、自民党の小池百合子、民主党の岡田克也や前原誠司の各氏に送りました。彼らの感想は聞いていませんが、多くの読者の方々から、熱いメッセージをいただいております。もし麻生首相が呼んでくださるのなら、喜んで説明に上がりますが……。
  
落ち着いた口調で語った中谷氏。小泉・竹中の改革コンビはどう聞くのか。

  院長はこの文章よかったと思った時に、スクラップする方法としてスキャナーでOCRしてパソコンにワード形式で保存しています。もう10年以上やっています。今回はスクラップしたものを読み返して、やっぱり良かったと思ったものを小出しにしています。日野原先生の物がないかどうか調べてみました。1件だけありました。奇しくも「粗食」という言葉は一致していましたが、肉はやっぱりしっかり食べていらっしゃいました。小野田寛郎さんの文章とも重なる所があります。

聖路加病院理事長「新老人」の生き方
週刊文春2001.3.22p58阿川佐和子のこの人に会いたい
聖路加国際病院理事長日野原重明
1911(明治44)年山口県生まれ。京都帝大医学部卒、同大大学院博士課程修了。聖路加国際病院院長、聖路加看護大学学長、ハーバード大学客員教授等を歴任。人間ドックの草分けの一人で、東洋人として初めて国際内科学会会長にも就任。著書多数、文化功労者等受賞歴多数。”新老人通動”を拠唱。

  あの「よど号」に乗り合わせ、地下鉄サリン事件では病院で陣頭指揮をとり、長年に亘って医療システム改革に携わってきた日野原重明さん。超多忙の身で回診もこなし、今年九十歳を超える氏が提唱するのが「新老人運動」。老後をいかに過ごし、人はどんな死を迎えるべきか。

「新老人」の生き方として三つのことを提唱します。

阿川 (朝九時に聖路加国際病院で)朝早くに、ありがとうございます。
日野原 いえいえ、私は毎朝七時半から会議をやって一日が始まるの。地下鉄サリン事件のときも、七時半から来てたから陣頭指揮をしたんですよ。
阿川  サリン事件のとき、先生が「お金は取らなくていいから、とにかく被害者を全員収容しなさい」と指示されたという記事が印象的でした。
日野原  あのときは、一遍に六百四十人入れたんですよ。
阿川  聖路加のベッド数は。
日野原  五百二十。
阿川  入院してる方も多いし、全然べッドが足りなかったでしょうに。どうなさったんですか。
日野原  うちはチャぺルにもラウンジにも廊下にも、その壁の中には初めから酸素やらサンクションが全部つけてあるんです。だから、そこにずらーっと寝てもらって、六百四十人に点滴をやったの。
阿川  へえ〜。
日野原  チャぺルは六十年前のべンチを使ってるんですけど、それを二つ合わせるといいペッドになるんです。
阿川  最初から、いざというときのために備えているんですね。
日野原  そうです。僕が約二十年前にスイスとかスウェーデンという中立国の病院を見に行ったら、みんなそうだったの。攻撃はしないけど、何かあったときに国民を守るためにね。それで、十五年前にこの病院を建て替えるプロジェクトが起こったとき、お金がかかってもそうしようと言ったんですよ。
阿川  今、その聖路加病院の名誉院長を始め、いくつもの肩書きをお持ちですが、睡眠時間はどのぐらいなんですか。
日野原  五時間を超えることはないね。
阿川  それでお体は大丈夫なんですか。
日野原  僕はあと七力月で九十歳になるんだけど、一週間後には一人でアメリカに行って、ボストンに二晩、ヒューストンに一晩泊まって帰って来るんですよ。
阿川  うわっ、三泊五日で。
日野原  そう。空港でも動く歩道に乗ったことがない。いつもあのベルトの上を歩いてる人を追い抜いてやろうとして、追い抜くと「やったなあ」と思うの(笑)。しかも、十キロ、十ニキロの荷物を両手に持ってだよ。
阿川  私よりお元気(笑)。
日野原  二階か三階ぐらいまでならエレベーターを使わないで、階段を一段おきに上がってる。だから、聖路加看護大学で三階の教室に行くとき、急いでパーッと上がると、間違って四階まで行っちやうことがあるの(笑)。
阿川  お食事は粗食だそうですね。
日野原  はい。一日千三百カロリー。たんぱく質としては、牛乳や魚、肉をよく摂るのよ。朝はミルクコーヒーにジュースか果物、バナナぐらい?
阿川  お昼は?
日野原  時間がないから、牛乳ワンバックとクッキー三つぐらいが多い。夜はご飯を三分の二膳と、野菜をたっぷりと、あとは普通にお肉でも魚でも摂る。ただ動物性の脂肪は少なくして、植物性の油と野莱を十分に摂る。だから、パーティに行っても、サラダから食ぺ始める。
阿川  お酒は召し上がるんですか。
日野原  お酒は乾杯だけ。タバコは吸ったことがない。
阿川  先生は、去年、七十五歳以上の元気な方々を対象にした「新老人運動」を始められましたけれど、それはどういうお考えで……。
日野原  今、六十五歳以上で介護や年金やら医療費などを受けているでしょう。そうすると生産人口ば十四歳から六十四歳。その上に乗っかってる人が全体の五分の一いる。これが十年後には三分の一、二十年後以上になると半々、それから先は分子のほうが重くなっていく。
阿川  私も遠からず分子だわ。
日野原  医療費だけ見ても今三十兆円で攻府はフウフウ言ってるのに、あと二十年ほどで八十二兆円になる。そうなると国は滅んでしまう。だから、七十五歳以上でも元気な人は分母、生産人口に下りていらっしやい、で、分子を軽くしましょうと言ってるの。
阿川  稼ぎなさいってことですか。
日野原  いや、働いてお金を稼がなくても、ヘルパーさんに来てもらわないで自立するとか、あるいはボランティアで弱い人を助けるとか、何が新しいことをし始める。絵や音楽や事業でも。それは分子を軽くすることに通じるじゃない。
阿川  あ、そうか。いま会員さんは何名ぐらい?
日野原  千三百名を超えるぐらいかな。
阿川  具体的にはどういうことを提唱なさってるんですか。
日野原  新老人運勤は、まず便利さや文明には限度があるからシンプルな食事や生活をしなさいと。しかし、思いは高く。ワーズワースの詩に「シンブル・リヴィング・アンド・ハイ・シンキング」というのがある、あれです。
阿川  ほお。
日野原  そして、三つのことをモット−にしなさいと言ってる。一つは愛し愛されること。二つ目は新しいことをクリエイティブに創り出すのを忘れないこと。三つ目ほ耐え忍ぶこと。これを新老人の生き方として提唱してるの。
阿川  先生は愛してる方は?
日野原  まあ、それはね、何人か。
阿川  おッ、何人か。
日野原  あなたの愛するという意味と僕のが一致してるかどうか分からないけど(笑)。僕は愛し愛されることは人生に非常に必要だと思う。ともに喜ぶと喜びは二倍になるし、ともに悲しむと悲しみは半分になるから。
阿川  怒ることはおありですか。
日野原  あんまりないなあ。失礼なことや嫌なことを言う人がいても、いつか分かるだろうと思ってる。憎まないことですよ。
阿川  確かに先生の眉間には縦皺がないぞ。悪口は健康の秘訣ということはないですか(笑)。日野原  僕は人の悪い噂はしないようにずっと努力してきました。
阿川  反省します(笑)。
日野原  それから、七十五歳以上の人でも、まだクリエイティブなことができるんですよ。スピリットがある人を集めれば、その人の隠れていてまだ芽を出していない才能が新しく出て来る。
阿川  でも、何の才能があるか、見つけるのが…。
日野原  僕は今までやったことのないことにトライしなさいと言ってるの。ビジネスマンやエンジニアであったら、何かカルチャラルなこととか、料理をやりましょうと。同じことを覚えるのに、昔より時間がかかっても、時間があるんだからゆっくりやればいい。
阿川  たしかに。
日野原  たとえば六十九歳で、老人にバソコン入門を教える本を書いた女性がいるの。『おばあちゃんのバソコン指南』を書いた大川加世子さん。老人のことを理解している人が書いたから、分かりやすいの。
阿川  そっかあ。まだいっぱい才能とパワーがあるのに、もったいないことになっているんですね。
日野原  それと、私たちの人生にはやっぱり家族とよい友が必要ですよ。私が二十一世紀に一番心配するのは、今、日本には家庭がなくなっているけど、もっとなくなっていくだろうと。男性は毎晩外で食事、女性もその多くがフルタイムで働き、子どもはコンピューターと塾だけでしょう。
阿川  接点がない。
日野原  福澤論吉先生が、明治十一年に「子どもの教育は学校じゃない、家庭だ」と言ってるんです。教えて学ぶんじゃなくて、自然に習いとる環境、それが家庭なんですね。その家庭が日本にはないてしょう。だから、私は二十一世紀には、もう十歳児の殺人が起こるに決まってると思ってる。
阿川  エーッ。
日野原  だから、私は三世代が一緒に食事するとか、一緒にお芝居を親るとか、一緒に旅行するとか、学校以外のところで若い人に教育して欲しいと思う。
阿川  たとえば、どういうところで。
日野原  昨年、僕は『葉っぱのフレディ』をミュージカルにしたんだけど、それを観た子どもから手紙が来てね。「あれから、葉っぱを踏まないようにしました」って。
阿川  ちゃんと感じてる。
日野原  うん。ああいう「いのち」を扱うストーリーの小説や戯曲はやっぱり人生を変えるんですよ。親子三代で観て「僕は死ぬときはこうしたいなあ」とか、死のことも日常生活でスラッと出るような会話をつくることが、二十一世紀の日本をまともにするのに大切なことだと思うんです。死はタブーじゃないんです。
阿川  なるほど。
日野原  そのためには、子どもにペットを飼わせて、生き物は死ぬということを子どもに教える。そして、お通夜にでも、病人を見舞うときにでも、子どもを連れて行って、人はどうして哀え、死ぬかというのを見せる。それが人が死の準備をすることに繋がるんです。

阿川  お通夜やお見舞いに連れて行くことも大事なんですか。
日野原  ええ。私の五歳の孫をお通夜に連れて行ったとき、車の中でフォーレの『レクイエム』をかけてたの。そしたら、孫が「じじ、今の音楽聴くと悲しくなるわ」と言うんだよ。現場の雰囲気で人生が分かるんだよね。
阿川  たった五歳でも。
日野原  うん。あと私は七十五歳以上の新老人の大コーラスをつくって、子どものボーイソプラノと一緒に『メサイア』を歌わせるの。それが各地で興ると、第一世代と第三世代が一緒になるでしょう。そうすると、生や死や恋愛のことが三つの世代で話せるじゃないの。「よど号」で命を助けられて誰かのために私の命を捧げようと
阿川  いいなあ。私も『メサイア』大好きなんです。先生は作曲もなさるとか。
日野原  作詞・作曲をね。ちょっとイタズラですよ。飛行機に乗ったときなんかに紙に線を引いてつくるの。簡単な二部とか三部の合唱だったから、大したもんじゃないてしょう。
阿川  大したもんだと思いますが。そう言えば、先生はハイジャックされた「よど号」に乗り合わせてらしたそうですね。
日野原  昭和四十五年の春のこと、私が五十八歳のときでね。日本で初めての〃ハイジャック〃でアウトになるかと思ったけど、故山村新治郎代議士が身代わりに人質になってくれて、助けられたの。金浦空港での丸四日間は眠れなかった。
阿川  ほんとに大変なご経験で。
日野原  あそこで死んでたかも分からないと思うと、見舞いの友人からいただいた好意を、誰かのために私の命を捧げることで返そうという気持ちになりましたね。そのときから、今後、私はどう生きたらいいかを真剣に考えるようになりました。
阿川  それ以前からも、医療システムの改革などでいろいろ人に尽くしていらっしゃったんじゃないんですか。
日野原  私が聖路加に来てやってきた課題は、どうすれぱ医学教育で、立派な医者でなおかつ研究もできる人が育つかとうこと。だから、聖路加は卒後研修医のメッカになってる。そして日本では聖路加ぐらいが全く学閥がない病院なの。
阿川  普通は東大系とか慶応系とか。
日野原  僕らは採用も外にアナウンスして、スカウトしたり、試験もして実力で採るから。アメリカ式と同じに。
阿川  ミックス型ですか。
日野原  日本では多くの勤務医はずっと同じ病院にいて他と競い合わないから、臨床医学のレペルが低いんですよ。
阿川  アメリカと比べて、どれぐらい違いますか。
日野原  心臓、循環器系だと十年。研究のシステムは二、三十年遅れてるね。
阿川そんなに。
日野原  アメリカでは、精神科医でも公衆衛生の医者でも、全身のからだのことが分かってなければダメだから、まず内科をはじめ一通り学ぶんです。ところが日本では、卒業したら自分で名乗りさえすれば何科の医者になってもいいの。大学で病理を勉強してた人が、精神科でも産婦人科でも開業できる。これ、おかしなシステムでしょう。だから聖路加では、インターン制度が日本になかった昭和八年から、卒業直後の医者にはあらゆる科を回って勉強させてきたわけ。
阿川  そんな前からですか。
日野原  それと、私は四十年前から、内科や脳外科とかのトレーニングを受けた専門医をつくろうと言い出して、今は各科の専門医はできたけれど、その看板を出すことはまだ法律では許されてないの。
阿川  へンなの。
日野原  日本はそういうトレーニングシステムや専門性の公示をすることがアメリカより二、三十年遅れているから、素質がいい人はいるんだけど成長しないの。昭和三十五年ぐらいから、遅れている日本の臨床医学を改革することを私はず−っとやって来たの。卒業後のお医者さんの養成をきちっとして、患者に親切でレベルの高い病院をつくりたいと。
阿川  他に、よその病院と違う改革をなさった点はありますか。
日野原  看護婦さんの仕事の内容を変えること。昭和二十三年の医療法が今も続いているから、看護婦さんの仕事は医者の仕事を介助することに止まっていることが多く、独立性が少ない。
阿川  あれはひどいですよね。
日野原  だけど、今はそんな時代じゃないでしょう。だから、私は聖路加看護大学の学長をやっていた八年前に、ここに日本で最初の看護婦さんの博士号を出せる大学院設立の許可を文部省に申請したの。それを申請したとき、大学設置審議会の委員をしていた医師の学長や医学部の学部長なんかに、「何で看護婦に博士号が必要なんだ」と言われたんですよ。そのとき、アメリカではすでに三十五の大学が看護婦(士)さんの博士コース持ってたのにね。
阿川  アメリカの看護婦さんとお医者さんの関係はどうなってるんですか。
日野原  対等ですよ。救急の患者さんが入るとき、責任ある看護婦(士)が入り口のところて、患者の容態を診察して、重症度別に仕分けて、これはすぐにあの実力がある先生に診せたほうがいいとか、これは少し待たせてもいいというトリアージュ、仕分けができるんです。日本はそういう看護婦さんを養成してないからね。それで、看護婦さんは実力がないからさせないというんだけど、実力を上げる教育の機会を与えないからできないんですよ。
阿川  アシスタントしかできない。
日野原  今ね、アメリカでは手術の麻酔、これは看護婦さんの仕事ですよ。麻酔専門のナースがいるんだもの。日本は麻酔医が足りない、足りないと言いながら、お医者さんでないとダメだと言う。つまり、医者は持った権利は離さないの。
阿川  もっと機会を広げればいいのに。
日野原  日本は法治国家だから進歩がないの。法律ができたら、五十年ぐらい放っておくでしょ。少年法も五十年。建築法も五十年。
阿川  世の中が変わっても、なかなか改正されない。
日野原  ねえ。医療とか福祉とか税金の法律は三年とか五年で無効になる時限立法にしてほしいね。
阿川  どんどん状況が変わるから。
日野原  能力のある人が看護大学に入るんだから、もっとお医者さん並みにできることをやらせれば、医療費も少なくなってくるから、もっと看護婦さんの領域を広げてもらいたいと言いたいね。
阿川  そうですね。
日野原  それから、今、聖路加国際病院には三百人のボランティアの人がいるんですけれど、そのうちで優秀な人には医療職でなくても聴診器での血圧の測り方を教えているの。
阿川  素人の方に?
日野原  そう。これは私が理事長をしてきた財団法人ライフ・プランニング・センターで二十年前から始めたの。そして、その人たちが聖路加看護大学の学生に血圧の測り方を教えにいくということを十年以上前からやっているんですよ。
阿川  ほお。
日野原  私はここの大学を出た人だからやらせるというのではなく、実力を持ってるから教えさせるという考え方なの。ボランティアの人たちは実技だけでなく理論などもよく勉強しているから、臨床をやらない看護大学の教授よりもよく知ってますよ。
阿川  すごいなあ。
日野原  それから、日本は多くの病院の外来は三分診療でしょ。医者のほうにも問題があるけど、患者のほうも先生に会ったとき、パッと病歴を言えるような準備をしてないの。だから、今、私はみんなにパソコンに自分の病歴や血液型やアレルギーで使えない薬品名を書いて、過去の病気や手術のヒストリーをつくらせてるの。そうすれば、先生の時間も有効に使えるでしょう。
阿川  患者さんも自分のことをよく理解してもらえる。一挙両得ですね。
日野原  ただご老人だとうまく書けない人がいるから、代わりに書いてあげるボランティアも育ててる。そういうベテランのボランティアの人には、若いお医者さんや看護婦さんより、病歴を書くことが上手な人がいるの。
阿川  素人でもやろうと思えばできることがいろいろあるんですね。
日野原  だけど、専門の学校を出ていないとか素人だからと言って、日本では医師がやらせる機会を与えない。新老人運動に参加するような年齢の人にだって、できることはいっぱいあるんですよ。

人間は最後に言葉を残して死んでいくべきだと思うのです

阿川  先生は、管だらけにするような延命治療に反対なさってますね。
日野原  そうそう。最後に「ああ、生まれてよかった」と思って欲しいんです。そして人間は最後に言葉を残して死んでいくべきだと思うのです。ところが、多くの終末医療は面会謝絶にして、患者が有終の美を飾るべき最後の一力月、一週間を奪っているのです。だから私は、今まで辛かったけど終りよければすべてよしとなるように、その人にどういう場面を設定してあげるのがいいかを考えて対応している。
阿川  自宅で死にたいっていう人も?
日野原  基本的には自分の家で死ぬことが一番望ましいんです。ところが、日本の家はウサギ小屋で、病人がお風呂に毎日入れないようなことがあるから無理かもしれないけれど、ほんとはいつまでも病院じゃないんだよ。老人の部屋には老人だけが使える便所や浴室を設置すべきです。お金は家に一番使ったほうがいいね。
阿川  そろそろ考えよう。
日野原  そして、僕は音楽に癒しのカがあるという音楽療法の会長をやっているから、病院でもなるべく臨死の患者には好きな音楽で最後を送ってあげる。この間、亡くなったおじいちゃんは、仏教徒だけどクリスマス・キャロルが好きだったから、臨終のときに六人のお孫さんに歌ってもらったの。僕も一緒にベースで歌った。
阿川  コーラスで送って…。
日野原  それで、耳は最後まで聞こえるから、「おじいちゃん、安心して浄土にいらっしゃいよ」とか「天国にいらっしゃいよ」っていうお別れをやった。
阿川  美しいー。
日野原  僕が往診してた開業医の奥さんが三十六歳で亡くなったとき、お子さんに「お母さんはもうあと間もなく息が止まりますよ」と言ったら、九歳の子どもが「ママ、九年間ありがとう」と言った。そしたら、七歳の子どもが「ママ、七年間ありがとう」と言ったの。それで僕は音楽をかけてお別れをさせたの。
阿川  (涙ぐんで)子どもがどうしてそういうことを言えるの……。
日野原  でね、おじいちゃんが少し難聴で、死んでいく娘の小さな声が聞えないの。そうしたら、九歳の子が「おじいちゃん、聴診器をして、ママの口にあてると聞こえるよ」と言ったの。開業医の息子だけにすごいなと思うよ。臨終のときに、そういう会話があることがみんなにいいの。ちょっとユーモアがあるでしょ。ユーモアは死ぬ前でも必要なの。
阿川  素晴らしいですね。
日野原  ねえ。僕は医師として今や教科書や研究でなく、そういう患者さんから教えられるんですよ。私は、その学んだことを若い医師に伝えたいという教育的使命を持っているんです。
阿川  先生はどういう風に死にたいですか。
日野原  やっぱり自分の家がいいに決まってるよ。そして、最後に意味がある命であったと思えるのが最高だね。そうなりたいと思ってる。あとやっぱりお別れができる最後が一番いいですよね。だから、ガンは自分が亡くなるまでに余裕があるからいいけど、心筋梗塞とか脳卒中だとガーッといっちゃうから、ちょっと味気ないね。
阿川  味気ないって(笑)。最後の音楽は何を流したいですか。
日野原  フォーレの『レクイエム』が聴きたい。僕はこの中の曲を大学院の学生時代に指揮したことがあるの。だから、その指揮のことを思い出しながら…。
一筆御礼
  日野原先生にお会いして以来、人間は一日千三百力ロリーで清くバワフルに生きていけるのだと自分に言い聞かせ、粗食を心がけているつもりなのですが、どうもダメです。余分な脂肪と邪念が腹部周辺にまとわりつき、身体が重いのでついエレベーターを使い、タクシーに乗り、怠けて疲れて、口から愚痴がこぼれる毎日でございます。でも、先生のお話を伺っている間は、すっかり心が洗われる気分でした。医療ミスのニュースが連日のように世間を騒がすうちに、病院へ行くのがちょっと怖くなっておりましたが、日野原先生のような立派な先生や、先生の意志を受け継ぐお医者様、看護婦さん、ボランティアの方々がたくさんいらっしゃると思うと、考えが改まります。対談の帰り、チャペルに立ち寄り神様と約束してきました。私も先生のように、スピリットのあるおばあちゃんになって、眉間のシワをなくそうと。もはや無理かもしれないですが…・。

  2011.6.16(木)の九州朝日放送の深夜番組「ドォーモ」で視聴者投票企画「九州で一番旨いラーメンベスト10」をやっていました。視聴者がTwitterで投票したそうです。院長はこんな時間には起きていないので、もちろん録画です。福岡のテレビ局の製作なので福岡県が多くなったのでしょうか?

  第10位福岡県久留米市「モヒカンらーめん味壱家」

  弟9位福岡県福岡市城南区「冨ちゃんラーメン」

  第8位福岡県春日市「らーめん六長屋」

  第7位長崎県諫早市「亀とんラーメン」

  第6位大分県別府市「Furari(ふらり)」

  第5位福岡県福岡市中央区「ラーメン基峰」

  第4位鹿児島県鹿児島市「鹿児島ラーメン豚とろ」

  弟3位福岡県福岡市東区「博多濃麻呂」

  第2位福岡県久留米市「大砲ラーメン本店」

  第1位福岡県久留米市「龍の家」

  龍の家は熊本に、ワシントン通り店、南熊本ワンダーシティ店、益城インター店、光の森店の4支店があります。他に博多のキャナルシティー店、東京の新宿店などの支店があるようです。

  とんこつこく味¥600だそうです。「自家製辛みそ、背油、ニンニクと焦がし玉葱を揚げ、香をつけた香油が入った色んな味の楽しめるスープ」「特製ブレンド粉を使用した自家製ストレートの金色麦龍麺」だそうです。

  6歳児に切腹を命じた母
  子育ては親の覚悟次第
  小野田寛郎
  P136週刊朝日2002.2.1
  語るには若すぎる4
  日本の敗戦から、今年で57年になる。しかし、私の戦後はその半分ほどにすぎない。私は、同年代の人と同じ感覚で「8月15日」をとらえられない。戦争終結から30年間、何も知らずにルバング島に残っていたから、敗戦直後の貧困も東京オリンピックも知らない。帰還した日本は高度成長の真っ最中だった。
  日本帰還の道を開いてくれたのは、単身で私を捜しにやってきた鈴木紀夫君(当時24歳)だった。彼はその後、長年の夢であった「雪男」を探しにヒマラヤに出かけ、雪崩に遭って死んだ。38歳だった。ルバング島で死を覚悟していた私は、恩人である彼の倍以上も生きている。
  日本に帰還した当初、戦争終結を知らせるチラシがまかれ、拡声機でも呼びかけたのになぜ出てこなかったのかと、よく聞かれた。「上官の命令がなかったからだ」とずっと答えていたが、私の子供のころからのきかん気が下地にあったかもしれない。
  小学校1年のとき、私は教室で級友の手をナイフで傷つけた。ナイフを貸してくれと頼んだら断られ、「ケチンボ」とけなすと相手はナイフを振リ回した。私は身を守るため、近くの机の上にあった別のナイフで応戦したのだ。
  学校から連絡を受けた母は激怒し、私を仏間に座らせた。私は正当防衛だったことを主張したが、母は自分の護り刀を私の目の前に置き、「人に危害を加えるような子は生かしておけません」と、私に切腹を追った。
  6歳の子にこんなむちゃな要求をする親がいるものかと驚いたが、私はついに腹を切れず、「今後二度と刃物は振り回しません」と誓わされた。母はその後、この件についていっさい触れることはなかったが、私が22歳でフィリピンに出征するとき、言っておかねばならぬことがある、と切り出した。
  「短刀を差し出したときは大博打でした。おまえのことだから、ひょっとして本当に腹を割くかもしれない。そのときは、私も死ぬつもりでした」
  私は死にたくないから腹を切れなかったが、母の述懐から、わが子の将来のために、親は腹をくくらねばならぬことがあることを知った。
  ルバングから戻ってきた日本はすっかり変貌していて、知らない国のようだった。どんな仕事をしてよいかわからずにいたとき、ブラジルに移住していた次兄から「牧場をやらないか」と勧められた。
  ルバング30年の体験で、熱帯の風土や気候は肌で知っている。自然と牛が相手なら、人間関係のしがらみに悩むこともないだろう。そう考えて帰国から1年後、私はプラジル移住を決めた。簡素な木造の家には電気も通っていなかったが、寝る間も惜しんでブルドーザーを走らせ、ジャングルを開拓した。
  それでも幸福を得た。移住した翌年の5月、私は54歳で妻、町枝(当時38歳)を迎えたのだ。彼女は自分の財産を全部処分して、ブラジルに嫁いできた。日系人やブラジル人に生け花や日本語を教え、現地に自分から溶け込んでいった。私は、長い空白の期間を経て、やっと人生の「戦友」をつかまえた。
  現在、私の牧場は約1200ヘクタール、成田空港より広く、1800頭の肉牛を飼育している。牧場経営が軌道に乗ってきた80年秋、私はプラジルの邦字新聞の小さな記事を読んで愕然とした。川崎市の浪人生が就寝中の両親を金属バットで殴り殺すという無残な事件が報じられていた。
  「日本の子供たちは追いつめられている。このままでは日本がダメになる」と考えた私は、84年夏、日本に帰り、富士山麓で子供たちのキャンプ場を開いた。これが5年後、福島と茨城の県境に設立した「小野田自然塾」の発端になった。
  私は親にずっと反抗し、困らせてばかリいた。私に子供を指導する資格があるとは思えないが、自然のなかでのサバイバル技術と知恵なら授けられる。牧場経営のスタッフにも恵まれ、私がつきっきりでいる必要はなかった。
  こうして、自然塾での子供の指導は私の人生最後の仕事となった。現在、ブラジルには年初の約3力月間だけ戻り、残リは自然塾の仕事に専念するため、日本で過ごすようになった。

  しつけ不十分な子は親をなめる
  自然塾は買収した1.5ヘクタール、隣接した国有林200ヘクタールを借リ受けて開いている。1回のキャンプは小学校3年生から中学生までの約80人。3泊4日と6泊7日のコースがある。
  一人で生き抜くつらさ、困難、寂しさ、友達をつくリ助け合うことの喜びと大切さに気づいてもらうことが目的だから、きょうだいや友達同士で申し込んできても、けっして同じグループに入れない。
キャンプでは火おこし、森にある道具だけを使った牛肉の薫製づくり、ナイフやローブの使い方、北斗七星やカシオペアの位置から時間を計る方法などを教えている。
  もちろん、どのグループの指導も順風満帆とはいかない。年長の子が年少の子の面倒をみようとしなかったリ、衣服が汚れるから地べたに座れない子もいる。飯盒を渡せば「スイッチはどこですか」と真顔で聞いてくる子もいる。それに、おしなべて友達をつくるのが下手だ。
  私は金属バット事件以来、家庭内暴力や校内暴力は「子供の無自覚な甘え」だと言ってきた。さらに、親も無自覚だ。ペットの犬をかわいがるように子供を育てていると、子供は増長する。成犬になってからの調教は難しいから、待て、座れ、お預けは子犬のときに教え込むしかない。叱られたことのない犬は、自分をその家の権力者だと勘違いし、気にくわないと飼い主を噛むようになる。
切腹を命じた私の母は極端だが、戦後の親は怖い存在でなくなった。怖くないから、子供は親をなめてかかる。暴力や学校崩壊はその延長線上にあるのではないだろうか。
  犬も人間も、しつけができていないと手に負えなくなる。怖いもの知らずがいちばん怖い。「俯仰天地に恥じず」という言葉がある。お天道さまは見てござる、といった意味だが、それもしつけ次第だ。
  キャンプでは腕力や気の強さの違いがすぐわかり、強い子が弱い子をたたく心配も出てくる。私はキャンプの初めに「自分がされて嫌なことは他人にしないこと。他人をたたけば、その子は私たちスタッフにたたかれても文句言えないよね」と必ず話している。
  これを体罰と非難されても構わない。教師は人にやさしくしなさいと教えるが、強くなければやさしくはできない。寒い山中で凍えている人に自分の上着をかけてあげるのはやさしい行為だが、上着を脱いだ自分はさらなる寒さに耐えないといけない。「頑張れ」と言葉で励ますだけなら、見物人と同じである。
  アメリカ軍のサバイバルマニュアルに「サバイバルとは、それまでの手段や方法では生きていけなくなったときの術」という定義がある。私はジャングルで一人だったが、子供たちには、手を伸ばせば手をつないでくれるかもしれない仲間がいる。サバイバルのいちばんの術は、自立心と仲間・友達なのだ。
  私は今年、八十路を迎える。私の人生はすでに一回、減価償却してしまった。小学校の同級生も3分の1は戦死した。私は何かのはずみで死なずにすんだだけで、残リの人生はもうけものだと思っている。もうけは独リ占めにするのでなく、子供たちに返したい。
  松下幸之助さんは、かつて成功の秘訣を聞かれ、「成功するまで続けること」と答えた。私が子供たちに伝えたいことはこれである。

 院長がある歯科開業医の講演会に行ったら、講師の先生が「粗食のすすめ」を取り上げて、「歯槽膿漏も成人病。粗食にしたら、歯槽膿漏も悪化しない。」と断言していました。その先生は以下のような意見があるのをご存知なのでしょうか?聖路加病院の日野原先生は2017年に105歳で亡くなられましたが、晩年まで現役でいらしたそうです。少量ですが、ステーキを召し上がっていたと聞いたことがあります。違和感のある講演会でした。 

「粗食のすすめ」では長生きできない
2000.10.5週刊文春P44
 季節別レシピ集まで発行、百万部を越えるベストセラーになった『粗食のすすめ』。四百五十年前の文献を基に、肉食をやめ、粗食を実践することで長生きできると説くが、実態は逆。肉を食べず粗食をすると脳卒中になりやすく、長生きはできないと専門家が指摘する。

 最近テレビの相談コーナーで、ひとりのお年寄りがこんな相談をもちかけていた。
 「私はお肉が食べたくてしょうがないのに、肉を食べると長生きできないといって、嫁がお肉を食べさせてくれないんです」
 前・東京都老人総合研究所副所長、現・桜美林大学老年学教授の柴田博氏も、同じようなケースの話を聞いた。
 「ある老人ホームでは、そこの調理場をあずかっている人たちが、肉料理をホームのお年寄りたちに出さなくなってしまい、お年寄りたちが嘆いているというのです」
 なぜ、こんな悩みを抱えるお年寄りが最近増えているのか?
 その原因は、伝統食と民間食養法の研究を行なっている幕内秀夫氏が著した『粗食のすすめ』(東洋経済新報社刊)。実践マニュアル編、レシピ集など合わせると百万部を突破、大ベストセラーとなったこの本は「日本古来から伝わる質素な食べ物を食べていれば、健康で長生きができる」という発想で書かれ、実質的に肉食を禁じているのである。
 『粗食のすすめ』では、ガンをはじめとするほとんどの病気は、食生活が原因の「食源病」であると論じ、「『食源病』を防ぐ一〇箇条」として、次のポイントをあげている。
  1、 ご飯はきちんと食べる。
  2、 穀類は胚芽米、玄米など未精製のものにする。
  3、 副食は野莱中心にする。
  4、 みそ汁、潰物、納豆など発酵食品は毎日食べる。
  5、 肉類を減らし、動物性食品は魚介類や卵くらいにする。
  6、 揚げ物は控えめに。
  7、 白砂糖の入った食品は避ける。
  8、 砂糖や塩は未精製のものを使う。
  9、 できる限り安全な食品を選ぶ。
 10、食事はゆっくりよく噛んで食べる。 
 このなかで、もっとも世間に影響を与えたのが「肉類を減らす」という項目。幕内氏の論理は次の通り。〈最初に日本の土を踏んだキリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルが、カトリック教会の本部宛に出した手紙には、『日本人は自分たちが飼う家畜を屠殺することもせず、またこれを食べない。彼らはときどき魚を食膳に供し、ほとんど米麦飯のみを食べるが、これも意外に少量である(略)』と書いている。日本人もまた、肉を食べずに、それでいて元気に過ごしてきた民族なのだ。世界には長寿者のたくさんいる村がいくつか残っているが、その中でも肉を多食しているところはない〉

寿命が延びた原因は肉食
 そして氏は、長寿村として知られている山梨県の山村・上野原町棡原(ゆずりはら)の例をあげ、棡原のお年寄りたちは、「麦やアワ、キビなどの雑穀、芋類を主食にして、野菜や山菜などを副食にしてきたという。肉や牛乳、乳製品などはほとんど食べずに生きてきた」という。
 だから、肉を食べると長生きできないと論じるのである。実際、『粗食のすすめ』のレシピ集を見ると、肉はまったく使われていない。
 しかし、ザビエル来日といえば四百五十年前の出来事。その手紙だけを論拠として、「肉悪玉論」を展開していいのだろうか。
 この「幕内理論」に異を唱えているのが前述・柴田氏。肉食賛成派として、いくつもの著書を出している柴田氏が語る。昭和二十年代から四十年代の二十年間で、日本は飛躍的に寿命が伸び、昭和四十五年には世界一の長寿国になりました。この期間に日本人の寿命が延びた最大の貢献者が肉食なのです」
 かつての日本は脳卒中天国で、それが平均寿命を低下させている最大の原困だった。この予防に肉食が大きな力を発揮し、平均寿命は大幅に延びたというのだ。
 「肉には植物性タンパク質や魚では補えない栄養素や生理活性物質が含まれています。もともと日本人は動物性タンパク質不足で短命でしたが、肉も魚も野菜も米も食べるようになって長寿になったのです」(柴田氏)
 これまで日本では、脳卒中の予防には肉食を控えたほうがよいと考えられていた。しかし実情は逆だった、と柴田氏は言う。「日本型脳卒中の特徴は、コレステロール値が低い人に多い点です。コレステロール値が低いと、細胞膜のコレステロールが少なくなり、血管が弱くなってしまうのです。ところが日本では、コレステロールや血庄の値が高いと危ない心筋こうそくと脳卒中が、同じ原因でなると考えられていた。そこのところに誤解があったのです」

粗食のほうが脳卒中になりやすい
 それを実証するものとして、次のようなデータがある。
 「外国人と混血しなかったハワイの日系人は、世界的にも長寿グループとして知られていますが、ハワイの日系人男性八千人を対象にした調査では、血中コレステロール値が低いほど脳卒中の死亡率は高く、コレステロール値が二百四十〜二百六十九(mg/dl)のグループが一番低かったという結果になっています」
 昭和四十年代には、秋田県で脳卒中が多発したが、その原因を調べると、コレステロール値が百五十〜百六十と低かったという。「そこで地元の人たちに食ベているものを聞くと、みなさん肉などあまり食べずにお米、大豆製品、野菜といった粗食が中心でした。
 これが、昭和五十年代になって、秋田県でもコレステロール平均値が百七十〜百八十に上がり、脳卒中が半減したのです」(同前)
 幕内理論とは逆に、粗食のほうが脳卒中になりやすいというのである。
 柴田氏は、この他にも肉食のメリットを拳げる。
 「肉はアミノ酸の構成が体に一番近い良性のタンパク質です。タンパク質は二十種類のアミノ酸で構成されていますが、そのうち体内で合成されない九種類は、食事で必ず摂取しなくてはならないため『必須アミノ酸』と呼ばれています。この必須アミノ酸を一番多く摂取できるのが肉なのです。牛、豚、鶏の肉を百とすると、魚が九十くらい、大豆は六十くらいと言えるでしょう。また、近年では、肉には脳を刺激して心に幸福感を与える『アナンダマイド』という物質が含まれていることも分かっています」
 そもそも幕内氏は、肉を排し、粗食をすすめる理由として「どの民族も代々先祖が食べているものを食べるのがベストの食生活だ」という自説によりかかっているのだが、これがまたかなりの暴論なのである。
 その内容を要約してみると、以下のようなものだ。
 〈たとえば、北極圏に住むイヌイットの人たちは、野菜はほとんど食さず、アザラシや白熊の肉を主食にしている。パプア・ニューギニアの高地で暮らす人たちは、一日に一キロ以上のサツマイモを食ベ、それ以外の食物は極めて少ない。しかしみんな健康に暮らしているのは、生まれ育った土地の人が作った食習慣を守っているからだ。
 それに較べ、日本は稲作国家なので米を食べるべきなのに、現代人はドイツの栄養学に根ざした考えを手本にして、日本人の体に別の伝統食を与えてきた。だからこそ、慢性病患者が増えているのだ〉
 柴田氏が反論する。
 「縄文時代の貝塚の付近からは、貝殻や魚の骨にまじって、獣や鳥の骨がたくさん出土しています。つまり当時の人は、狩猟をして肉を食べていたのです。
 弥生時代に入って稲作が始まり、主食は米となりましたが、七世紀までは日本人は相当肉を食べていました。肉食が禁止されたのは、仏教思想が入り、大和朝廷が『殺生禁断令』を出してからです。日本人が肉食に合わない人種だとはいえないはずです」
 さらに柴田氏は、日本人の食生活は見た目ほど欧米化していないと言う。
 「欧米社会では、一日に摂取する総エネルギーの量が三千キロカロリーを越えていますが、日本人は二千キロカロリ−です。
 脂肪にしても、アメリカ人が毎日百四十グラムの脂肪を摂取しているのに対して、日本人は一日六十グラム。食べるものがバラエティに富んできたので欧米化しているように見えますが、日本人の食生活は決して欧米化などしていない」
 『粗食のすすめ』を問題視しているのは、なにも柴田氏だけではない。

棡原の人々もこの本に迷惑
 元・東京都消費者センター研究室長・増尾清氏はこう語る。
 「ひとつのことには、メリットとデメリットの両面があるので、その両面から見て、結論を出さなくてはなりません。幕内氏の意見は、あることに関してはよい面だけを見て、他のことに関しては悪い面だけを強調するといった論法で、視点に一貫性がない。
 また、説明があまりにアバウトだと思います。魚ひとつをとりあげても、マグロとシャケでは栄養素が大きく違うのに、その点を述べないで、肉はよくないが魚ならいいという論法は、かなり乱暴だと感じます」
 さらに増尾氏は、野菜や穀類に関して、現代では環境間題なしに語ることは出来ない、と続ける。
 「野菜に関しては、ダイオキシンや農薬の問題などを頭に置かなくてはなにも語れません。たとえば、ぬか漬などは、ぬかの部分にダイオキシンが沢山たまるので、あまり古いぬかでつけたものは薦められません。
 胚芽米や玄米も、まわりにダイオキシンがついているので、それらを取り除いた白米のほうが通常は体に悪影響を及ばさない。また、日本の土壌はカルシウムが不足しているので、そこで出来た野菜はカルシウムが少ない。カルシウムを補うために、やはり牛乳も必要です」
 しかも、暮内氏が長寿村として大々的に紹介し、長寿食の理想とする、棡原の人々が、実は『粗食のすすめ』で迷惑をこうむっているというのである。
 「『粗食のすすめ』とかが売れて、いろいろな人がこの村にやってきて、私らの食事の内容を知りたがるけど、普通のものを食べてます。麦や粟、きび、ひえなんて何十年も前の食生活を引っ張りだしてきて長寿食なんて言ったって、今の時代には合わないし、ここに住む若い人たちは、『いまだにそんな物食べてるの?』と、他の土地の人達から聞かれて嫌がっていますよ」(食品を扱う五十代の男性)
 この地で「梅鶯荘」という民宿を経営する八十歳の石井節子さんは、長寿の秘訣は食生活ではない、という。
 「三十年前までは、この辺は林業と炭焼き、養蚕が盛んで、あんな高い山のてっぺんまで桑畑が続いていたので、足腰が丈夫じゃなきゃやっていけなかった。
 ここに住む老人達が長生きしてたのは、食生活だけでなく、気を張って畑仕事をしないと山から滑り落ちてしまうような毎日の積み重ねからです。長生きするしないは、精神面が大きく作用していると思いますよ」
 さて、この村でさまざまな人に話を聞いていると、話の中に「古守さん」という名前がよく登場する。
実はこの古守豊甫(こもりとよすけ)氏、昭和六十三年に『健康と長寿への道しるべ』という著書を執筆し、そのなかで棡原を紹介している人物なのだ。
 しかも氏の著書の基本理念は『粗食のすすめ』と同様。幕内氏の本の内容は、それの焼き直しといってもいい。しかし、本家の古守氏ですら、粗食ブームに関しては否定的なのである。

金をかけない「健康」はありえない
 「『粗食のすすめ』が売れたことで老人に肉を食べさせないような現象が起きているとしたら、それは、減塩、減塩と騒がれて、みそ汁好きのお年寄りが隠れて飲んでいる状況とまったく同じですね。
 いままで肉を食べて健康に暮らしてきたお年寄りが、肉を食べなくなったからといって、より長生きできるとは限らない。元気に暮らしてきたお年寄りには、それなりの食生活のリズムがあるので、何十年も肉を食べていて問題なければ、いままでどおり食べればいい。体が弱くなると、目然に肉など食べる量が減ってきますから。
 必要なのは、肉はほどほどに食べて、その分野菜を食べること。僕は食べた野菜の量が寿命を決めると思っています。棡原は、畑と食卓が直結していたので、新鮮で旬の野釆が食卓に並んでいたのです」(古守氏)
 現代人、特に都会人にとっては(畑から句の野菜を採ってきて食べる)という行為は、夢のまた夢。ある意味では「粗食」どころか、実現不句能なほどの贅沢な生活とも言える。
 しかし、前出・増尾氏によれば、『粗食のすすめ』の最大の間題は「食費にお金をかけなくてもよい」と受け取れるような表現をしていることだという。
 「昔の人達が食べていた野菜は、化学肥料やダイオキシンなどの害のないものでしたから、栄養価も高く美味しかったでしょうが、いまそのような野莱を食べようとしたら、高価な有機野莱を買う必要があります。
 玄米や胚芽米にしたって、あまり売れないので、古いものが平気で売られています。それに輸入ものが多い。新しくて安心な玄米、胚芽米を買うためには、きちんと信用のおける店で買う必要がある。魚だって、人間の体内蓄積ダイオキシンの約六割が魚を通じて体内に入ってくるといわれてます。健康のためには、食生活には多少お金をかけるべきだと思います」
 食材費はケチらずに、新鮮で安心なものをバランスよく食べること。
 長寿の秘策はこれしかないようだ。

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