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院長はこの文章よかったと思った時に、スクラップする方法としてスキャナーでOCRしてパソコンにワード形式で保存しています。もう10年以上やっています。今回はスクラップしたものを読み返して、やっぱり良かったと思ったものを小出しにしています。日野原先生の物がないかどうか調べてみました。1件だけありました。奇しくも「粗食」という言葉は一致していましたが、肉はやっぱりしっかり食べていらっしゃいました。小野田寛郎さんの文章とも重なる所があります。
聖路加病院理事長「新老人」の生き方
週刊文春2001.3.22p58阿川佐和子のこの人に会いたい
聖路加国際病院理事長日野原重明
1911(明治44)年山口県生まれ。京都帝大医学部卒、同大大学院博士課程修了。聖路加国際病院院長、聖路加看護大学学長、ハーバード大学客員教授等を歴任。人間ドックの草分けの一人で、東洋人として初めて国際内科学会会長にも就任。著書多数、文化功労者等受賞歴多数。”新老人通動”を拠唱。
あの「よど号」に乗り合わせ、地下鉄サリン事件では病院で陣頭指揮をとり、長年に亘って医療システム改革に携わってきた日野原重明さん。超多忙の身で回診もこなし、今年九十歳を超える氏が提唱するのが「新老人運動」。老後をいかに過ごし、人はどんな死を迎えるべきか。
「新老人」の生き方として三つのことを提唱します。
阿川 (朝九時に聖路加国際病院で)朝早くに、ありがとうございます。
日野原 いえいえ、私は毎朝七時半から会議をやって一日が始まるの。地下鉄サリン事件のときも、七時半から来てたから陣頭指揮をしたんですよ。
阿川 サリン事件のとき、先生が「お金は取らなくていいから、とにかく被害者を全員収容しなさい」と指示されたという記事が印象的でした。
日野原 あのときは、一遍に六百四十人入れたんですよ。
阿川 聖路加のベッド数は。
日野原 五百二十。
阿川 入院してる方も多いし、全然べッドが足りなかったでしょうに。どうなさったんですか。
日野原 うちはチャぺルにもラウンジにも廊下にも、その壁の中には初めから酸素やらサンクションが全部つけてあるんです。だから、そこにずらーっと寝てもらって、六百四十人に点滴をやったの。
阿川 へえ〜。
日野原 チャぺルは六十年前のべンチを使ってるんですけど、それを二つ合わせるといいペッドになるんです。
阿川 最初から、いざというときのために備えているんですね。
日野原 そうです。僕が約二十年前にスイスとかスウェーデンという中立国の病院を見に行ったら、みんなそうだったの。攻撃はしないけど、何かあったときに国民を守るためにね。それで、十五年前にこの病院を建て替えるプロジェクトが起こったとき、お金がかかってもそうしようと言ったんですよ。
阿川 今、その聖路加病院の名誉院長を始め、いくつもの肩書きをお持ちですが、睡眠時間はどのぐらいなんですか。
日野原 五時間を超えることはないね。
阿川 それでお体は大丈夫なんですか。
日野原 僕はあと七力月で九十歳になるんだけど、一週間後には一人でアメリカに行って、ボストンに二晩、ヒューストンに一晩泊まって帰って来るんですよ。
阿川 うわっ、三泊五日で。
日野原 そう。空港でも動く歩道に乗ったことがない。いつもあのベルトの上を歩いてる人を追い抜いてやろうとして、追い抜くと「やったなあ」と思うの(笑)。しかも、十キロ、十ニキロの荷物を両手に持ってだよ。
阿川 私よりお元気(笑)。
日野原 二階か三階ぐらいまでならエレベーターを使わないで、階段を一段おきに上がってる。だから、聖路加看護大学で三階の教室に行くとき、急いでパーッと上がると、間違って四階まで行っちやうことがあるの(笑)。
阿川 お食事は粗食だそうですね。
日野原 はい。一日千三百カロリー。たんぱく質としては、牛乳や魚、肉をよく摂るのよ。朝はミルクコーヒーにジュースか果物、バナナぐらい?
阿川 お昼は?
日野原 時間がないから、牛乳ワンバックとクッキー三つぐらいが多い。夜はご飯を三分の二膳と、野菜をたっぷりと、あとは普通にお肉でも魚でも摂る。ただ動物性の脂肪は少なくして、植物性の油と野莱を十分に摂る。だから、パーティに行っても、サラダから食ぺ始める。
阿川 お酒は召し上がるんですか。
日野原 お酒は乾杯だけ。タバコは吸ったことがない。
阿川 先生は、去年、七十五歳以上の元気な方々を対象にした「新老人運動」を始められましたけれど、それはどういうお考えで……。
日野原 今、六十五歳以上で介護や年金やら医療費などを受けているでしょう。そうすると生産人口ば十四歳から六十四歳。その上に乗っかってる人が全体の五分の一いる。これが十年後には三分の一、二十年後以上になると半々、それから先は分子のほうが重くなっていく。
阿川 私も遠からず分子だわ。
日野原 医療費だけ見ても今三十兆円で攻府はフウフウ言ってるのに、あと二十年ほどで八十二兆円になる。そうなると国は滅んでしまう。だから、七十五歳以上でも元気な人は分母、生産人口に下りていらっしやい、で、分子を軽くしましょうと言ってるの。
阿川 稼ぎなさいってことですか。
日野原 いや、働いてお金を稼がなくても、ヘルパーさんに来てもらわないで自立するとか、あるいはボランティアで弱い人を助けるとか、何が新しいことをし始める。絵や音楽や事業でも。それは分子を軽くすることに通じるじゃない。
阿川 あ、そうか。いま会員さんは何名ぐらい?
日野原 千三百名を超えるぐらいかな。
阿川 具体的にはどういうことを提唱なさってるんですか。
日野原 新老人運勤は、まず便利さや文明には限度があるからシンプルな食事や生活をしなさいと。しかし、思いは高く。ワーズワースの詩に「シンブル・リヴィング・アンド・ハイ・シンキング」というのがある、あれです。
阿川 ほお。
日野原 そして、三つのことをモット−にしなさいと言ってる。一つは愛し愛されること。二つ目は新しいことをクリエイティブに創り出すのを忘れないこと。三つ目ほ耐え忍ぶこと。これを新老人の生き方として提唱してるの。
阿川 先生は愛してる方は?
日野原 まあ、それはね、何人か。
阿川 おッ、何人か。
日野原 あなたの愛するという意味と僕のが一致してるかどうか分からないけど(笑)。僕は愛し愛されることは人生に非常に必要だと思う。ともに喜ぶと喜びは二倍になるし、ともに悲しむと悲しみは半分になるから。
阿川 怒ることはおありですか。
日野原 あんまりないなあ。失礼なことや嫌なことを言う人がいても、いつか分かるだろうと思ってる。憎まないことですよ。
阿川 確かに先生の眉間には縦皺がないぞ。悪口は健康の秘訣ということはないですか(笑)。日野原 僕は人の悪い噂はしないようにずっと努力してきました。
阿川 反省します(笑)。
日野原 それから、七十五歳以上の人でも、まだクリエイティブなことができるんですよ。スピリットがある人を集めれば、その人の隠れていてまだ芽を出していない才能が新しく出て来る。
阿川 でも、何の才能があるか、見つけるのが…。
日野原 僕は今までやったことのないことにトライしなさいと言ってるの。ビジネスマンやエンジニアであったら、何かカルチャラルなこととか、料理をやりましょうと。同じことを覚えるのに、昔より時間がかかっても、時間があるんだからゆっくりやればいい。
阿川 たしかに。
日野原 たとえば六十九歳で、老人にバソコン入門を教える本を書いた女性がいるの。『おばあちゃんのバソコン指南』を書いた大川加世子さん。老人のことを理解している人が書いたから、分かりやすいの。
阿川 そっかあ。まだいっぱい才能とパワーがあるのに、もったいないことになっているんですね。
日野原 それと、私たちの人生にはやっぱり家族とよい友が必要ですよ。私が二十一世紀に一番心配するのは、今、日本には家庭がなくなっているけど、もっとなくなっていくだろうと。男性は毎晩外で食事、女性もその多くがフルタイムで働き、子どもはコンピューターと塾だけでしょう。
阿川 接点がない。
日野原 福澤論吉先生が、明治十一年に「子どもの教育は学校じゃない、家庭だ」と言ってるんです。教えて学ぶんじゃなくて、自然に習いとる環境、それが家庭なんですね。その家庭が日本にはないてしょう。だから、私は二十一世紀には、もう十歳児の殺人が起こるに決まってると思ってる。
阿川 エーッ。
日野原 だから、私は三世代が一緒に食事するとか、一緒にお芝居を親るとか、一緒に旅行するとか、学校以外のところで若い人に教育して欲しいと思う。
阿川 たとえば、どういうところで。
日野原 昨年、僕は『葉っぱのフレディ』をミュージカルにしたんだけど、それを観た子どもから手紙が来てね。「あれから、葉っぱを踏まないようにしました」って。
阿川 ちゃんと感じてる。
日野原 うん。ああいう「いのち」を扱うストーリーの小説や戯曲はやっぱり人生を変えるんですよ。親子三代で観て「僕は死ぬときはこうしたいなあ」とか、死のことも日常生活でスラッと出るような会話をつくることが、二十一世紀の日本をまともにするのに大切なことだと思うんです。死はタブーじゃないんです。
阿川 なるほど。
日野原 そのためには、子どもにペットを飼わせて、生き物は死ぬということを子どもに教える。そして、お通夜にでも、病人を見舞うときにでも、子どもを連れて行って、人はどうして哀え、死ぬかというのを見せる。それが人が死の準備をすることに繋がるんです。
阿川 お通夜やお見舞いに連れて行くことも大事なんですか。
日野原 ええ。私の五歳の孫をお通夜に連れて行ったとき、車の中でフォーレの『レクイエム』をかけてたの。そしたら、孫が「じじ、今の音楽聴くと悲しくなるわ」と言うんだよ。現場の雰囲気で人生が分かるんだよね。
阿川 たった五歳でも。
日野原 うん。あと私は七十五歳以上の新老人の大コーラスをつくって、子どものボーイソプラノと一緒に『メサイア』を歌わせるの。それが各地で興ると、第一世代と第三世代が一緒になるでしょう。そうすると、生や死や恋愛のことが三つの世代で話せるじゃないの。「よど号」で命を助けられて誰かのために私の命を捧げようと
阿川 いいなあ。私も『メサイア』大好きなんです。先生は作曲もなさるとか。
日野原 作詞・作曲をね。ちょっとイタズラですよ。飛行機に乗ったときなんかに紙に線を引いてつくるの。簡単な二部とか三部の合唱だったから、大したもんじゃないてしょう。
阿川 大したもんだと思いますが。そう言えば、先生はハイジャックされた「よど号」に乗り合わせてらしたそうですね。
日野原 昭和四十五年の春のこと、私が五十八歳のときでね。日本で初めての〃ハイジャック〃でアウトになるかと思ったけど、故山村新治郎代議士が身代わりに人質になってくれて、助けられたの。金浦空港での丸四日間は眠れなかった。
阿川 ほんとに大変なご経験で。
日野原 あそこで死んでたかも分からないと思うと、見舞いの友人からいただいた好意を、誰かのために私の命を捧げることで返そうという気持ちになりましたね。そのときから、今後、私はどう生きたらいいかを真剣に考えるようになりました。
阿川 それ以前からも、医療システムの改革などでいろいろ人に尽くしていらっしゃったんじゃないんですか。
日野原 私が聖路加に来てやってきた課題は、どうすれぱ医学教育で、立派な医者でなおかつ研究もできる人が育つかとうこと。だから、聖路加は卒後研修医のメッカになってる。そして日本では聖路加ぐらいが全く学閥がない病院なの。
阿川 普通は東大系とか慶応系とか。
日野原 僕らは採用も外にアナウンスして、スカウトしたり、試験もして実力で採るから。アメリカ式と同じに。
阿川 ミックス型ですか。
日野原 日本では多くの勤務医はずっと同じ病院にいて他と競い合わないから、臨床医学のレペルが低いんですよ。
阿川 アメリカと比べて、どれぐらい違いますか。
日野原 心臓、循環器系だと十年。研究のシステムは二、三十年遅れてるね。
阿川そんなに。
日野原 アメリカでは、精神科医でも公衆衛生の医者でも、全身のからだのことが分かってなければダメだから、まず内科をはじめ一通り学ぶんです。ところが日本では、卒業したら自分で名乗りさえすれば何科の医者になってもいいの。大学で病理を勉強してた人が、精神科でも産婦人科でも開業できる。これ、おかしなシステムでしょう。だから聖路加では、インターン制度が日本になかった昭和八年から、卒業直後の医者にはあらゆる科を回って勉強させてきたわけ。
阿川 そんな前からですか。
日野原 それと、私は四十年前から、内科や脳外科とかのトレーニングを受けた専門医をつくろうと言い出して、今は各科の専門医はできたけれど、その看板を出すことはまだ法律では許されてないの。
阿川 へンなの。
日野原 日本はそういうトレーニングシステムや専門性の公示をすることがアメリカより二、三十年遅れているから、素質がいい人はいるんだけど成長しないの。昭和三十五年ぐらいから、遅れている日本の臨床医学を改革することを私はず−っとやって来たの。卒業後のお医者さんの養成をきちっとして、患者に親切でレベルの高い病院をつくりたいと。
阿川 他に、よその病院と違う改革をなさった点はありますか。
日野原 看護婦さんの仕事の内容を変えること。昭和二十三年の医療法が今も続いているから、看護婦さんの仕事は医者の仕事を介助することに止まっていることが多く、独立性が少ない。
阿川 あれはひどいですよね。
日野原 だけど、今はそんな時代じゃないでしょう。だから、私は聖路加看護大学の学長をやっていた八年前に、ここに日本で最初の看護婦さんの博士号を出せる大学院設立の許可を文部省に申請したの。それを申請したとき、大学設置審議会の委員をしていた医師の学長や医学部の学部長なんかに、「何で看護婦に博士号が必要なんだ」と言われたんですよ。そのとき、アメリカではすでに三十五の大学が看護婦(士)さんの博士コース持ってたのにね。
阿川 アメリカの看護婦さんとお医者さんの関係はどうなってるんですか。
日野原 対等ですよ。救急の患者さんが入るとき、責任ある看護婦(士)が入り口のところて、患者の容態を診察して、重症度別に仕分けて、これはすぐにあの実力がある先生に診せたほうがいいとか、これは少し待たせてもいいというトリアージュ、仕分けができるんです。日本はそういう看護婦さんを養成してないからね。それで、看護婦さんは実力がないからさせないというんだけど、実力を上げる教育の機会を与えないからできないんですよ。
阿川 アシスタントしかできない。
日野原 今ね、アメリカでは手術の麻酔、これは看護婦さんの仕事ですよ。麻酔専門のナースがいるんだもの。日本は麻酔医が足りない、足りないと言いながら、お医者さんでないとダメだと言う。つまり、医者は持った権利は離さないの。
阿川 もっと機会を広げればいいのに。
日野原 日本は法治国家だから進歩がないの。法律ができたら、五十年ぐらい放っておくでしょ。少年法も五十年。建築法も五十年。
阿川 世の中が変わっても、なかなか改正されない。
日野原 ねえ。医療とか福祉とか税金の法律は三年とか五年で無効になる時限立法にしてほしいね。
阿川 どんどん状況が変わるから。
日野原 能力のある人が看護大学に入るんだから、もっとお医者さん並みにできることをやらせれば、医療費も少なくなってくるから、もっと看護婦さんの領域を広げてもらいたいと言いたいね。
阿川 そうですね。
日野原 それから、今、聖路加国際病院には三百人のボランティアの人がいるんですけれど、そのうちで優秀な人には医療職でなくても聴診器での血圧の測り方を教えているの。
阿川 素人の方に?
日野原 そう。これは私が理事長をしてきた財団法人ライフ・プランニング・センターで二十年前から始めたの。そして、その人たちが聖路加看護大学の学生に血圧の測り方を教えにいくということを十年以上前からやっているんですよ。
阿川 ほお。
日野原 私はここの大学を出た人だからやらせるというのではなく、実力を持ってるから教えさせるという考え方なの。ボランティアの人たちは実技だけでなく理論などもよく勉強しているから、臨床をやらない看護大学の教授よりもよく知ってますよ。
阿川 すごいなあ。
日野原 それから、日本は多くの病院の外来は三分診療でしょ。医者のほうにも問題があるけど、患者のほうも先生に会ったとき、パッと病歴を言えるような準備をしてないの。だから、今、私はみんなにパソコンに自分の病歴や血液型やアレルギーで使えない薬品名を書いて、過去の病気や手術のヒストリーをつくらせてるの。そうすれば、先生の時間も有効に使えるでしょう。
阿川 患者さんも自分のことをよく理解してもらえる。一挙両得ですね。
日野原 ただご老人だとうまく書けない人がいるから、代わりに書いてあげるボランティアも育ててる。そういうベテランのボランティアの人には、若いお医者さんや看護婦さんより、病歴を書くことが上手な人がいるの。
阿川 素人でもやろうと思えばできることがいろいろあるんですね。
日野原 だけど、専門の学校を出ていないとか素人だからと言って、日本では医師がやらせる機会を与えない。新老人運動に参加するような年齢の人にだって、できることはいっぱいあるんですよ。
人間は最後に言葉を残して死んでいくべきだと思うのです
阿川 先生は、管だらけにするような延命治療に反対なさってますね。
日野原 そうそう。最後に「ああ、生まれてよかった」と思って欲しいんです。そして人間は最後に言葉を残して死んでいくべきだと思うのです。ところが、多くの終末医療は面会謝絶にして、患者が有終の美を飾るべき最後の一力月、一週間を奪っているのです。だから私は、今まで辛かったけど終りよければすべてよしとなるように、その人にどういう場面を設定してあげるのがいいかを考えて対応している。
阿川 自宅で死にたいっていう人も?
日野原 基本的には自分の家で死ぬことが一番望ましいんです。ところが、日本の家はウサギ小屋で、病人がお風呂に毎日入れないようなことがあるから無理かもしれないけれど、ほんとはいつまでも病院じゃないんだよ。老人の部屋には老人だけが使える便所や浴室を設置すべきです。お金は家に一番使ったほうがいいね。
阿川 そろそろ考えよう。
日野原 そして、僕は音楽に癒しのカがあるという音楽療法の会長をやっているから、病院でもなるべく臨死の患者には好きな音楽で最後を送ってあげる。この間、亡くなったおじいちゃんは、仏教徒だけどクリスマス・キャロルが好きだったから、臨終のときに六人のお孫さんに歌ってもらったの。僕も一緒にベースで歌った。
阿川 コーラスで送って…。
日野原 それで、耳は最後まで聞こえるから、「おじいちゃん、安心して浄土にいらっしゃいよ」とか「天国にいらっしゃいよ」っていうお別れをやった。
阿川 美しいー。
日野原 僕が往診してた開業医の奥さんが三十六歳で亡くなったとき、お子さんに「お母さんはもうあと間もなく息が止まりますよ」と言ったら、九歳の子どもが「ママ、九年間ありがとう」と言った。そしたら、七歳の子どもが「ママ、七年間ありがとう」と言ったの。それで僕は音楽をかけてお別れをさせたの。
阿川 (涙ぐんで)子どもがどうしてそういうことを言えるの……。
日野原 でね、おじいちゃんが少し難聴で、死んでいく娘の小さな声が聞えないの。そうしたら、九歳の子が「おじいちゃん、聴診器をして、ママの口にあてると聞こえるよ」と言ったの。開業医の息子だけにすごいなと思うよ。臨終のときに、そういう会話があることがみんなにいいの。ちょっとユーモアがあるでしょ。ユーモアは死ぬ前でも必要なの。
阿川 素晴らしいですね。
日野原 ねえ。僕は医師として今や教科書や研究でなく、そういう患者さんから教えられるんですよ。私は、その学んだことを若い医師に伝えたいという教育的使命を持っているんです。
阿川 先生はどういう風に死にたいですか。
日野原 やっぱり自分の家がいいに決まってるよ。そして、最後に意味がある命であったと思えるのが最高だね。そうなりたいと思ってる。あとやっぱりお別れができる最後が一番いいですよね。だから、ガンは自分が亡くなるまでに余裕があるからいいけど、心筋梗塞とか脳卒中だとガーッといっちゃうから、ちょっと味気ないね。
阿川 味気ないって(笑)。最後の音楽は何を流したいですか。
日野原 フォーレの『レクイエム』が聴きたい。僕はこの中の曲を大学院の学生時代に指揮したことがあるの。だから、その指揮のことを思い出しながら…。
一筆御礼
日野原先生にお会いして以来、人間は一日千三百力ロリーで清くバワフルに生きていけるのだと自分に言い聞かせ、粗食を心がけているつもりなのですが、どうもダメです。余分な脂肪と邪念が腹部周辺にまとわりつき、身体が重いのでついエレベーターを使い、タクシーに乗り、怠けて疲れて、口から愚痴がこぼれる毎日でございます。でも、先生のお話を伺っている間は、すっかり心が洗われる気分でした。医療ミスのニュースが連日のように世間を騒がすうちに、病院へ行くのがちょっと怖くなっておりましたが、日野原先生のような立派な先生や、先生の意志を受け継ぐお医者様、看護婦さん、ボランティアの方々がたくさんいらっしゃると思うと、考えが改まります。対談の帰り、チャペルに立ち寄り神様と約束してきました。私も先生のように、スピリットのあるおばあちゃんになって、眉間のシワをなくそうと。もはや無理かもしれないですが…・。
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