五カ国対抗ラグビー

 「TEST MATCH」宿沢広朗、講談社、1991

P164

 私(院長註:宿沢広朗)が英国にいるころも、五カ国対抗のチケットは五年先まで予約済であった。それも一般には売り出さず、各クラブを通してクラブメンバーにのみ売り出される。
 日本のように早明戦のチケットを手に入れるためにプレイガイドに並ぶ、などということはない。ラグビークラブのメンバー以外は買えないのである。
 私は好運なことに、各ユニオンや、かつてのラグビー仲間から五ヵ国対抗のチケットを手に入れることが出きた。

 ラグビーの関係者やファンにとって、外国人の私にでさえ五ヵ国対抗ぱその年の最も重要なイベントである。
 テレビはキックオフの二時間も前から、競技場周辺の雰囲気やグランドの状態などを伝える。付近のパブというパブは、ラグビーファンで動くことさえできない。街全体が、国全体が五ヵ国対抗の気分を盛り上げ、キックオフでそれが爆発する。

 そして、ノーサイドから数時間、その余韻が続く。
 親達は、自分の息子が自国の代表選手になることを至上の幸せと望む。いや代表選手のトライアルマッチに出場するだけでも、トライアリストとして羨望の的になる。
 それが五力国対抗だ。
 日本もお互いに真剣なテストマッチを定期的に戦う(それも毎年)、国対抗戦を行なう時期に来ているように思う。

TEST MATCH.JPG (院長註:本の帯にある「テストマッチは国と国との”戦争”である」という言葉から彼らの本気度が伝わってきます。命懸けでやってるのでしょう。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新宿「池林房」

 「楕円球の詩(うた) 自伝・林敏之」林敏之、ベースボール・マガジン社、1997

P213

  (院長註:1994年の)1月15日の日本選手権は、33−19で学生王者の明治大学を破り、神鋼は6年連続日本一の座についた。
 V2のときから、日本選手権の夜は新宿の「池林房」という居酒屋で選手、家族、友達などを集めてパーティーをするのが恒例だった。私が幹事をしていたこの会は、思えば6回も続いた。その間、いろいろな人が来てくれた。羽生善治名人、河島英五さん、小室等さん、おすぎさん、ピーコさん……などなど。
 「きょうの神鋼、前半戦は大変よかった。これから池林房での後半戦、僕はこれに賭けていました」
そう挨拶し、その夜は大いに飲んだ。やはりシーズン最後にはしっかり飲んで、楽しむしかない。

 

 (院長註:院長の同期医学部でスタンドオフをしていた西直人君の兄西正人さん(故人)は同志社大学がラグビーの日本学生選手権を取った時のメンバーでした。「正人と直人で正直兄弟と呼ばれている」と西君は良く言っていました。新日鉄釜石との日本選手権を国立競技場に見に行ったら、西正人さんのトイメンはヒゲのセンター森重隆さん(元日本代表主将)でした。

 新宿の居酒屋「池林房」は東京医科歯科大ラグビー部のOBの紹介で、院長もラグビー部のメンバーと時々利用していました。院長が兄と2人で行った時に、西兄弟が偶然いたこともありました。西正人さんは同志社を卒業後、上京し、日商岩井のラグビー部でプレーしていました。西正人さんは林敏之さんの徳島県立城北高校、同志社大学を通じてのの1年先輩です。同志社大学から神戸製鋼と関西がベースの林敏之さんに新宿「池林房」を教えたのは、西正人さん本人か、その周辺の人じゃないのかな。日本代表の元主将が同じ所を利用していたとは驚きで、うれしくもありました。)

モールとラックのイメージと練習法

 「楕円球の詩(うた) 自伝・林敏之」林敏之、ベースボール・マガジン社、1997

P116

 最初にこだわったのがモールとラックである。私は同志社時代に、ホクリーさん仕込みのニュージーランド流の組み方を嫌というほど練習してきた。神戸製鋼のモールとラックはそれに比べて、まだ劣っていたので、まずそこから始めることにした。
 本物のモールとラックを組むために、一番大切なのは「イメージ」である。
 フォワードの8人が統一されたモールとラックのイメージを持たなくては、なにをやっても無駄なのだ。
 ボールを待った人間はしっかり的に当たり、ぐっと踏ん張って振り向く。2番目の者は、前傾して前に押し込みながらボールをもぎとる。その両脇に「くさび」を打ち込むように、ひとりずつバインドに入る。さらに2人がスクラムのロックの位置に突っ込む。その場合は、5メートル前から低い姿勢になり、下から上の方向に突き上げるように入らなくてはならない。
 練習では、これを、ゆっくり、ゆっくり、繰り返すのである。
 自分はどこの位置に入るべきかを判断しながら、イメージ通りに完璧にこなすのは、たとえゆっくりでも難しい。

 ポイントのタックルバッグの手前5メートルに、腰の高さに紐を張り、そこをもぐってポイントに入る練習を何度も何度も繰り返した。もちろん実際の試合では、いつも練習のように組めるわけではないが、この型を身につけなければ応用もきかないのだ。

ホポイの檄

「楕円球の詩(うた) 自伝・林敏之」林敏之、ベースボール・マガジン社、1997

P135

 この年(院長註:1986年)は、私(院長註:林敏之)にとって、大きな出来事があった。
 5、6月に行われる北米遠征のジャパンのキャプテンに選ばれたのである。
 私は、まだ26歳であった。主将にふさわしい先輩は多くいたのに、年齢差を飛び越えて主将に選ばれたのは、しいて理由を探せば、ラグビーヘの純粋な思いと、ひたむきさを買ってくれたためだろう。
 ジャパンは前年にフランス遠征を行ったが、いいところなく全敗した。1980年の遠征とは違い、テストマッチにも惨敗した。このころ、すでに1987年に第1回ワールドカップが開催されることは決まっており、招待出場の決まっているジャパンとしては、一刻も早く立て直しを図らなくてはならなかった。
 団長は横井さん、監督は宮地さんであった。高校日本代表の合宿のときから何年過ぎたのか。私にとっては懐かしいコンビでもあった。
 出発に先立ち、壮行会が開かれ、その席上で前年のフランス遠征に参加したホポイ・タイオネが協会機関誌に寄稿した文章のコピーが全員に配られた。ホポイは、トンガから大東文化大学にノフォムリとともに留学し、揃ってジャパンに選ばれた。異国の代表に選ばれたことを誇りに感じて全力を尽くす素晴らしく熱い男だった。
 『(前略)日本の選手は、キャップを得たいが為にテストマッチを注目する傾向があるようですが、どのゲームに於いても選手達は、相手が選抜チームであろうが、テストマッチだろうが、クラブチームであろうが、全力を注ぐべきだと思います。ケガを恐れて、充分に力を出せなかったりする選手もいます。そんなことをしていると、テストマッチに出場するチャンスは巡ってこないでしょう。(中略)今回の遠征の中で、私として一番のゲームは第3試合の、対ツールーズ戦でした。そのゲームは非常に心に残っています。ゲーム主将の林さんが、グラウンドに出る前、ロッカールームで言いました。「胸の中で、桜の叫びがわかるはずだ!」この言葉を聞いて私は、戻ることのできない戦場が頭に浮かびました。帰りの燃料を積まずに飛び立つ「神風特攻隊」を思ったのです。この試合は、あたかも、「日出づる国」の為に、何物をも無視し死を選んでいったあの意気の様に思われ、自分にとっては決っして忘れることはありません。
 日本人は、その肩にかかった責任と信頼を解からなくてはなりません。他国に行くと異なった環境や文化に直面しなくてはなりません。食物が悪かろうが、ひもじかろうが、自分の国のことのほうがずっと大切だから死ねる、ということを決心しなくてはなりません。
 (中略)私達、選手が、座り込んで、終わってしまったことをいつまでも考えていては駄目です。日本のラグビー界に、将来素晴らしい収穫をもたらすためにこそ私達が作っていくステップのひとつひとつを楽しみにしていようではありませんか』(表記は原文のまま)
 壮行会では、横井団長が「全勝して帰ってきたい」と挨拶した。
 私も挨拶をしたが、ホポイの文章を読んで感激し、「必ずや強いジャパンになって戻ってきます」と涙ながらに話すのが精一杯であった。

 

小金井良精の医学部学生への課外講演会

「祖父・小金井良精の記 下」星新一、河出文庫、2004

P341

 大正10年の秋に現役を退官。余生を研究のためにささげる生活となる。
 昭和2年4月28日〈学士院総会。会長に桜井氏、副会長に田中館氏、それぞれ重任。自分は出て教室に寄る。五時、山上会議所、柿内氏の依頼により健進会(医学部学生への課外講演会)に出席。医学部追憶談をなす。つぎに後藤新平氏「世界情勢に処する青年の覚悟」と題して演説す。家より電話。新坊のどに病気と。杉野氏を同道、帰宅。診察をたのむ〉

 この日の講演はのちに文章にされ「鉄門」という雑誌にのった。その結びは、「ぼくももはや老齢であって、ふたたび諸君の前で、このような話をする機会が、あるや否や。恐らくは、なかろうと思うからして、今夕に話したことは、ぼくの遺言として聞いて下さってよろしいのである」

 と、なっている。現実の講演の時、この言葉は最初のほうで口から出たにちがいない。
 内容は、明治初期からの、医学部の歴史のあらましである。昔にくらべ、建物や設備が充実し、毎年おおぜいの医師が社会へ出てゆく。非常な進歩であり、喜ばしい。
 そして、そのあと自己の意見を述べたのである。小川鼎三(のちの解剖学教授)によると「小金井先生は学者のあり方など、あまり口になさらず、もっぱら実践で示される方と思っておりますが、ここでは、学者はかくあるべしといわれております」というわけで、異例な発言といえた。

ーーー良精「日本医学に関する追憶」より要約ーーー
 しかしながら、研究の方面はどうであるかというに、この点については遺憾にたえない。ここの医学部のみならず、他の大学、医学者一般に関することである。
 学者たるもの、その専攻の分野で、その進歩につくしたことを残さねばならぬ。世界の医学文献に、日本の学者の名が見えねばならぬ。しかし、その数ははなはだ少ない。海外にあって、それをなした日本人はあるが、それは事情がちがう。
 学者が日本という環境のなかで、独力で具体的な業績をあげてもらいたいのである。ドイツには、学位論文は業績とみなさぬという規則の学会がある。わが国では、学位を取れば研究終了という人が多すぎる。外国とくらべ、真の研究者が少ないと痛感する。
 研究者の少ない一因は、社会的なむくわれ方が薄いからであろう。改善せねばならぬことだが、大問題なので、いまはふれない。
 清貧に安んずる。現実には、口で言うほど容易なことではない。研究とは、注目されることの少ない、地味な仕事である。しかし、真理をめざし、思考と実験を反復するなかには、金銭でえられない味がある。また、業績を発表し、海外の学者から反響があると、こんな楽しいことはない。
 研究の成績は、才能でなく、努力によるところが多い。それだけのことは、必ずある。日本の医学は、移植時代から、研究時代に入って四十年ちかくなる。世界の水準に達するのが目標である。そのために、純真な研究者が多くあらわれるのを熱望してやまない。
 奇怪なことには、日本の研究者のなかには、途中で研究を中止する者がある。また、医学からはなれ、政治家や実業家になる者もある。努力不足の人といわざるをえない。その分野で社会につくしているともいえるが、学問の側からいえば、かかる人は不忠者である……。

 緒方富雄の追憶によると「この文を読んで、なにか大きな巌の前に立ったような気がしました」とある。この講演の日、良精のあとで話をした後藤新平は、いささか妙な気分だったにちがいない。医学界の出身で、大政治家になった人物である。

 (院長註:緒方富雄は元東大医学部教授、血清学者で緒方洪庵の曾孫らしいです。)

井上通夫先生と西成甫先生の対立

「祖父・小金井良精の記 下」星新一、河出文庫、2004

P187

(院長註:森於菟は森林太郎(森鴎外)の長男で、小金井良精の甥です。この時点で解剖学教室の助教授でした。)

(前略)於菟は書いていないが、解剖学教室に入ってからも、それに匹敵する悩みがあった。大沢と良精の二人が教授であった時代はよかったが、大沢の死亡、良精の引退のあと、二人の教授のあいだに、対立があった。
  内科のように、三つの教室にわかれ、それぞれ一名の教授となると問題はないが、解剖学教室は、一つに二名の教授。この対立となると、やっかいである。学者であるため、表面化せず、あつかいにくい。
  助教授として、そのなかにあった於菟は、ただならぬ苦労をした。名誉教授であるため、良精は口出しが出来ず、すべては於菟ひとりの肩にかかった。於菟を解剖に入れて、かえって気の毒な目に会わせたと、良精は内心で考えつづけだった。

(院長註:星新一はここでは具体的な名前は挙げていませんが、井上通夫先生と西成甫先生だとすぐわかります。この先生方が東京医科歯科大学歯学部とどんなに密接な関係にあったかは、ここを読めばわかります。) 

P281にも

 退官し名誉教授となったからには、教室運営に口を出すべからず。当然のことながら、感情的には耐えがたいことである。良精が半生をささげて作りあげた解剖学教室、自己の分身といってもいい。
 順調に発展しているのなら、まだいい。しかし、良精の退官後の解剖学教室は、必ずしもそうではなかった。井上、西両教授の間がうまくいかないのだった。井上教授への不満を、時たま日記のなかに書き残している。
 しかし、良精は決して口を出さなかった。融和や仲介のためであっても。不干渉が自己に課した誓約であった。
 甥の森於菟が助教授として残っているので、なおさらだった。於菟の指示を表面に出したら、教室の私物化となる。於菟はそれが物たりなかったようである。折にふれて改革の必要を訴える。学問上の問題だと、微細な点にわたってまで相談にのり、研究を激励する良精だが、こと教室運営についてとなると、口をつぐんでしまう。

(院長註:小金井良精は東京帝国大学医科大学解剖学教室の初の日本人教授になるそうです。それまではずっとドイツ人が教授を務めていたそうです。P381) 

脳の容積測定法

「祖父・小金井良精の記 下」星新一、河出文庫、2004

P144

---緒方富雄の追憶談より---
 (院長註:小金井良精)先生は絹の布のまんまるい小さな袋、なかは砂のようでしたが、それを文鎮がわりに、おもりとして使っておられた。机の上の、ホホズキのような真赤な色が、いまでも目に浮かびます。

 

  藤田恒太郎(のちの東大解剖学教授)は、なかみは砂でなく、頭骨の内部の容積を測定するための、散弾ではなかったかと発言している。頭骨をさかさまにして散弾を入れ、それを出して、容積を調べるのである。私(院長註:内孫であった星新一)はそれをいじり、ぬい目の間から1粒とり出してみたことがある。散弾であった。

解剖家の職分

「祖父・小金井良精の記 上」星新一、河出文庫、2004(院長註:小金井良精は明治19年から大正10年の間、東京大学医学部解剖学の教授でした。孫の星新一が祖父のことを書いています。下の文章は明治20年のことです。)

P197

 10月15日、良精は東京医学会に出席し「解剖家の職分」という題で講演をした。これは論文集に収録されている。それを要約する。

 解剖学は医学の基礎であり、病理学も手術も、その上に存在している。人体構造の究明ははるか昔より手がけられ、一六世紀から一段とさかんになり、現在は大部分があきらかになっていて、大きな異説の対立はない。自分はこれを学生に教えるに当って、明快第一はいうまでもないことだが、想像力をかきたてるようつとめている。この入口において、医学への情熱を持たせることは重大だからである。
 解剖学に付属する分野に、比較解剖学(人とそのほかの生物の比較)、組織学(顕微鏡的研究)、胎生学(胎内での成長の変化を追う)の三つがある。しかし、これらは臨床に関係がないからとの理由で、ドイツにおいても、利益を優先して考える医者たちは学ぼうとしない傾向がある。賛成できないことだ。医師が尊敬されるのは、ひろく学問を修めているからであって、これなくしては品位が失われてしまう。
  解剖学者たるには、仙人のごとき忍耐心、芸術家のごとき巧妙さ、豚の胃のごとくよごれる覚悟、この三つが必要である。自分はこの道につくし、よい医師を多く世に出すことにつとめたい。楽しみはそのなかにある。

 

 ひたすら学問の世界につくそうという、良精の決意の表明である。医学部の学生には、江戸時代の藩医の子弟が多く、医学を営業の手段と考えている者が多い。また、世の人も多くはそう見ている。そんな者ばかりでないことを、武士の子息である良精は身を以て示したかったのであろう。

(院長註:三木成夫先生は「医学の歴史」(中公新書)を書いた小川鼎三先生の講義に感銘を受けて解剖学教室に入られたそうです。この本の中にも小川鼎三先生の名前が何度も出てきます。「想像力をかきたてるようにつとめている」という部分がこの当時から解剖学教室の伝統としてあったのですね。後の三木成夫先生の名講義につながったんでしょうね。)

天網恢恢疎にして漏らさず

実用新国語辞典、三省堂編集所編、1995

「天網恢恢疎にして漏らさず(てんもうかいかいそにしてもらさず)」

天の網は目があらいようだが、悪者を、すくい漏らすことがない。天罰は免れられない。

(院長註:悪事に対してだけ使われるものと思っていました。善行に対して使われることもあるのですね。)

「老子・荘子の言葉100選」境野勝悟、三笠書房知的行きかた文庫

p108

天網恢恢,疎にして失わず(老子七十三章)
天の網は目があらいが何物ももらさない
すべての人にするサービスこそ天の道

 知人の社長が住んでいる市には、東西に二つの結婚式場がある。
 ある朝、九時四十分ごろ、東北からやってきた老夫婦が、孫の結婚式に参加するために東の方の式場にやってきた。が、老夫婦が行く式場は、実は西の方であったのだ。
「うわーっ。困った。タクシーを呼んで飛んでいっても十時には間に合わない」この言葉をきいた若い社員は、当日は大安で彼の式場も多忙だったにもかかわらず、自分の車にエンジンをかけ、こっそりと西の方の式場へとどけてあげた。
 後日、仙台に帰った老夫婦が、東の式場の社長に手紙を書き、その日の一部始終を書き、若い社員と社長に深く感謝の意を伝えた。翌朝、社長は社員にこう訓話した。
 「わが社だけのお客にするサービスは、利益のためにするサービスであって、真のサービスとはいえない。わが社に関係なくあらゆる人にするサービスこそ、まことのサービスである。天は大きな網を張っている。その目はいかにもあらいように見えるが、小さな善行も決してもらさない。天は善行者には、必ず幸いを授ける」……と。

 

島峰 徹

「祖父・小金井良精の記 上」星新一、河出文庫、2004(院長註:星新一の祖父小金井良精は越後長岡出身で、ドイツ留学を経て、明治19年から大正10年までの間、東大医学部の解剖の教授だったようです。森鴎外の妹と結婚したそうです。島峰徹先生は東京医科歯科大学の創設者です。)

P399

島峰 徹

 大正3年12月1日〈島峰氏、真鍋氏とともに帰朝。新橋に迎える。島峰との談つきず、ドイツ状勢についてなど〉
 第一次大戦の開始により、ドイツの留学生が帰国したのである。これをきっかけに、島峰の名が日記にむやみと出てくる。なぜこうも親しくよく会っているのかふしぎだったが、やっと同郷の出身の人と判明した。
 12月7日〈島峰氏を歯科の石原氏に会わす〉
 歯科を学んできたのだった。『医学部百年史』によると、明治35年、石原久が助教授格で歯科学主任となる。大正4年、石原が教授となり、歯科講座が独立、とある。
 講師以上の在職リストを見ると、島峰徹、大正3年12月15日、講師就任とあり、退職時期、不明とある。在職期間の不明なのは、彼ひとりである。
 それはともかく、良精はよく会っている。大正6年など、日記で数えてみると、年に二二回もである。
 島峰は歯科のあり方について、ひとつの信念を持っていたらしい。それが石原教授と合わず、複雑な事態にたちいたった。良精は医学部の教授のひとりとして、部長や各教授の意見を調整しようとするが、うまく進展しない。良精はかなりの苦心をした。大正10年、良精が停年退官によって、それから解放されるまでつづくのである。
 かなり深刻な対立だったようである。くわしく調べたら面白いのだろうが、それをやると横道にそれてしまう。この程度でとどめておく。
 島峰徹は東大をやめ、東京高等歯科医学校(のちの医科歯科大学)を創立する。そこヘドイツから医学者ディークを教授としてまねいた。ディークは良精のよき友となる。
 良精の論文には、大正7年の「日本石器時代人の抜歯風習について」をはじめとし、歯に関するものがかなり多い。晩年の「むしばの統計について」や、最後の大論文、昭和9年の「人類の咬合形式およびその系統発生的意義」もそうである。この方面へ関心がむいたのは、島峰との交友が一つの原因であったかもしれない。
 島峰はなかなかの手腕家だったという。同郷でありながら、良精とはかなりちがった性格。おたがいに、おぎないあう点が多かったと思われる。

驚きました。文藝春秋8月号

 少し前に紹介しました院長の同期(だけど名前も知らなかった。ここに書いて名前を覚えた)医学部の中山敬一九州大学生体防御医学研究所教授が、熊本では昨日発売の文藝春秋8月号で立花隆さんと対談していました。新聞の広告を見て、書店に走りました。ガン研究の第一人者という扱いでした。すごいなぁ。

文藝春秋H25.8.jpg

小さな会社の方がいいこともある

「メシが食いたければ好きなことをやれ!」岡野雅行、こう書房、2008

P79

 いいかい。大会社だと、什事を任せてもらうようになるまでになかなか時間がかかる。ところが、小さい会社だとあれもこれもとなんでもやらせてもらえる機会に多く恵まれるんだよ。
 大企業には営業やなんかに限らず、技術職といわれる職人もたくさんいるけれど、彼らもいわゆる「専門のこと」しかできない。研磨だけでしかできません、とか、マシンのプログラムしかできません、といった具合にだ。
 大きな会社は、分業の人たちが集まってひとつのものができるようになってるんだな。だって1から10まで、みんなが全部できたら、みんな会社辞めて独立しちゃうだろ?

 でも逆から考えると、1から10まで全部できたら、独立して一人でも食っていけるということだ。これは世の中を渡っていく上で、大きな強みになる。
 下請け企業っていうと、大会社の言いなりになってしまう企業がほとんどだよな。多くの中小企業が、大企業に無理な注文をされたり、圧力を受けた経験があるんじゃないかな。
 俺の知り合いにも、大企業の言いなりにならないと仕事がもらえなくなっちゃうと言って、悪い条件をのんでいるちっちゃな会社がいくつもある。
 俺はそんな大会社にも、理屈に合ってないことをされたり、言われた場合には「他へどうぞ」と言ってきた。それでもえらそうな態度のやつには「何百人、何千人の会社と、数人の会社、どっちが先に倒れるかやってみるか」って言ってやるんだよ。「恐竜はすぐに倒れるけれど、アリンコは倒れねえぞ!」ってね。まあ、それを言えるだけの力と自信を身につけなきゃならないけどな。
 もう大企業だって未来永劫安定、とはいかない時代だ。いつ何か起こるかわからない。もし会社が潰れたら、みんなで一緒に共倒れだよ。いまどき大会社の肩書きで得意面ぶらさげてるなんて古いよ。時代錯誤もいいところだ。
 実は大会社にいるほうが、個人としての成長にはハンデがあるってこと、気づいてないやつが多いんだよな。大会社では、自分の属した部署の仕事、ただそればかりをひたすらやらなきゃならない。
 たしかにその仕事の専門にはなれるかもしれないが、大きな円のうちのせいぜい一部でしかない。でも小さな会社はあれもこれもできなくちゃならないんだから、自分のできることをどんどん増やしていける。一人で円になれる。
 大企業になればなるほどリスクを背負おうとしない傾向が強くなるもんだ。失敗したら出世コースからはずれちまうんだから。誰も失敗を恐れてチャレンジしようとしなくなる。
 それに大会社にいるとそうやって、なかなか色々な仕事をさせてもらう機会はないから専門外の分野は身につかないし、大きな会社という肩書きに押しつぶされて自分のスケールが知らずの内に小さくなっていくばかり・・・・・・あんまりいいことないだろ?今や小さい会社で色々できるやつのほうがラッキーだよ。

ジョブズに出来てソニーに出来なかった理由

 「スティーブ・ジョブズU」ウォルター・アイザックソン、井口耕二訳、講談社、2011

P192
 アンディ・ラックがはじめて出席したソニーの新年度年頭訓辞は、2003年4月、アップルがiTunesストアを発表した週におこなわれた。ラックは音楽部門のトップとなった4ヵ月前から時間の大半をジョブズとの交渉に費やしてきた。このときも、クパチーノ経由で東京へ向かう。荷物には、最新型のiPodとiTunesストアの資料が入っていた。
 訓辞に集まった200人のマネジャーを前に、iPodをポケットから取り出す。
 「これだ」
 CEOの出井伸之や北米ソニーのトップ、パワード・ストリンガーも見ている前で宣言する。
 「これがウォークマンキラーだ。怪しげなところなどどこにもない。こういうものが作れるように、ソニーは音楽会社を買ったんだ。君たちならもっといいものが作れる」
 しかしソニーにはできなかった。ウォークマンでポータブル音楽プレイヤーの世界を拓いた実績もあれば、すばらしいレコード会社を傘下に持ってもいる。美しい消費者家電を作ってきた長い歴史もある。ハードウェア、ソフトウェア、機器、コンテンツ販売を統合するというジョブズの戦略に対抗するために必要なものはすべてそろっているのに、なぜ、ソニーは失敗したのだろうか。
 ひとつは、AOLタイムワーナーなどと同じように部門ごとの独立採算性を採用していた点だろう。そのような会社では、部門間の連携で相乗効果を生むのは難しい。
 アップルは、半ば独立した部門の集合体という形になっていない。ジョブズがすべての部門をコントロールしているため、全体がまとまり、損益計算書がひとつの柔軟な会社となっている。
 「アップルには、損益計算書を持つ『部門』はありません。会社全体で損益を考えるのです」

 とティム・クックも語っている。
 もうひとつ、ふつう会社はそういうものだが、ソニーも共食いを心配した。デジタル化した楽曲を簡単に共有できる音楽プレイヤーと音楽サービスを作ると、レコード部門の売り上げにマイナスの影響が出るのではないかと心配したのだ。
 これに対してジョブズは、”共食いを怖れるな”を事業の基本原則としている。
 「自分で自分を食わなければ、誰かに食われるだけだからね」
 だから、iPhoneを出せばiPodの売り上げが落ちるかもしれない、iPadを出せばノートブックの売り上げが落ちるかもしれないと思っても、ためらわずに突き進むのだ。
 この年の7月、ソニーは音楽業界で豊富な経験を持つジェイ・サミットをトップとして、ソニーコネクトというサービスの構築をはじめた。iTunesと同じように楽曲をオンラインで販売し、ソニーのポータブル音楽プレイヤーで再生できるようにするサービスだ。
 ニューヨークタイムズ紙はこう報じた。
 「この動きは、衝突することが多いソニーのエレクトロニクス部門とコンテンツ部門をまとめるためのものだろう。ウォークマンを発明し、ポータブルオーディオ市場最大のフレイヤーであるソニーがアップルに完敗したのは、この社内抗争にあると言われている」
 ソニーコネクトは2004年5月にサービスを開始したが、わずか3年強で終了する。

(院長註:iPodを発表するスティーブ・ジョブズ

当時のソニーの雰囲気

「カンブリア宮殿 村上龍×経済人1 挑戦だけがチャンスをつくる」村上龍、日経ビジネス文庫、2009

平松庚三ライブドアホールディングス会長
P320
村上 大きな影響を受けたソニーを、どうして退社されたんですか。
平松 奥手だったので、三十歳を過ぎてから、トップに上りつめたいな、社長になりたいなと思ったんです。結構、僕も自信家だったのですが、当時のソニーというのは、ライトがイチローでセンターが松井、レフト、タフィー・ローズみたいな連中がいた。そういう連中が努力も練習もするものですから、こいつらがいてそこでスタメンの競争をするのかと思ったわけです。他の選手、清原や新庄あたりだったら僕でもやったと思いますが、イチロー、松井みたいなのとは戦わないほうがいいなということで、大リーグに行ったんです。どちらかというと逃げた、かわしたという感じです。

インテリジェンス(情報収集)が日本に根付かない理由

「インテリジェンスの賢者たち」手嶋龍一、新潮文庫、平成22年

P114 

 日本の官僚組織に潜む病弊は、重大情報の意図的な扼殺(やくさつ)にとどまらない。忙しく立ち働くことのみが多とされ、ひとり怜悧(れいり)に事態を観察し分析する者の役割はときに軽視される。この国では流した汗と費やした時間の総量が発言力の大きさを規定する。
 だが、インテリジェンスの世界にあっては、流した汗の量や費やした時間が正しい結論を導き出すとは限らない。それゆえ、かっての東西両陣営の情報機関では、その経験則から情報を収集する者と分析する者の役割を峻別(しゅんべつ)してきたのである。賽(さい)の河原から夥(おびただ)しい石を拾い集めてくる者。その一方で、日がな一日、石の表情を眺め、その内に秘められた意味を考える者。この両者を切り離して緊張関係のなかに置いたのだった。
 分析の踏み台を直感の脚力で蹴ることのできる者こそ独創的な啓示を得る、と看破したのはかの開高健だった。インテリジェンスを読み解く者が、石をひたすら拾い集めてきた者の努力を思って情に流されれば、たちまち直感の脚力は萎えてしまう。あるときはおのが国の滅亡すら冷たく予言し、あるときは情報の質だけを極限まで重視して、汗の介在を断じて許さない。こうしたインテリジェンスの世界に在っては、ただ非情の原理が鋼(はがね)のごとく支配している。それゆえ、湿潤な日本の精神風土に、酷烈な諜報組織は容易に根づかないのかもしれない。

心臓の拍動数

「新ヒトの解剖」井尻正二、後藤仁敏、築地書館、1996

P83

 心臓の拍動はヒトでは一分間に約七〇回であるが、ネズミでは三〇〇回、ゾウでは三〇回である。哺乳類では、からだの小さい動物では拍動がはやく、大きい動物ほどゆっくりであるが、どの動物でも一生の拍動数は約二〇億回ときまっているという。ただし、爬虫類や両生類などの冷血動物では、その数はずっとすくなくなる。

パリ夢劇場

「巴里夢劇場」鴨志田恵一、朝日新聞社、1990(院長註:作者は元朝日新聞パリ支局長)
P14

(前略)パリの人たちとは、生まれてから死ぬまで、みんなそれぞれに「劇」をやっているのでは、なかろうか・・・・・・。

P31
 フランスの精神安定剤使用量は、世界一との学会報告がある。一人あたりの年間消費量は米国人の五倍だという。豊かでのんびりした国に、どのようなストレスがあるのかと、ビジネス大国側からの疑問もあろうが、人生は「劇」であり、人間を「演じる」という日常生活の維持はなまなかなものではないのだ。きりっとした自我を保つため、安定剤なり睡眠薬を服用せざるをえない彼等のストレスは、少し質が違うのである。

 子どもたちは、物心がついたかどうか、という年頃にもう立派に大人の顔つきと態度を身につけている。精神科という分野で、小児精神科を独立させて特別診療体制をつくったのは、フランスであった。南仏マルセイユ郊外の小児精神科病棟を取材したことがあるが、私の腰ほどしかない小さい子どもたちが、そろって虚ろな目を向けてきた時の驚き。あまりに無邪気の年頃に、大人の不自然な姿を見たり、両親のすさまじい葛藤に巻き込まれ「この子らは、心を病む患者になってしまった」と医師は話していた。

(院長註:熊本大学教育学部附属小に一時在籍し、パリで活躍した藤田嗣治作品の展覧会が7月2日〜8月25日に熊本県立美術館で開かれているようです。)

iPadの誕生

 「スティーブ・ジョブズU」ウォルター・アイザックソン、井口耕二訳、講談社、2011

P325
 「感動した」と、ジョブズが私に記事を送ってきたことがある。フォーブス・ドット・コムにマイケル・ノアーが書いた記事だ。コロンビアの首都、ボゴタの少し北にある田舎の酪農場に滞在していたノアーがiPadでSF小説を読んでいると、家畜小屋の掃除を終えた子どもが近寄ってきた。ふと思いついてiPadを渡すと、使い方を教えられてもいなければコンピュータを見たこともないというその子が、"なんとなく使えてしまった"というのだ。スクリーンに指を走らせ、アプリを起勤し、ピンボールゲームで遊ぶなどした。
 「文字も読めない6歳の子どもが使い方を教えられなくても使えるパワフルなコンピュータをスティーブ・ジョブズは作り上げた。これを魔法と言わずしてなにを魔法と言うべきだろうか」
 1ヵ月もかからずにiPadは100万台が売れた---iPhoneの倍という驚異のスピードだ。発売から9ヵ月で1500万台に到達。新発売された消費者製品として史上最高の成功を収めたと言えるだろう。

(院長註:iPadを発表するスティーブ・ジョブズ

 

iPhoneの誕生

 「スティーブ・ジョブズU」ウォルター・アイザックソン、井口耕二訳、講談社、2011

P292 
 2007年1月、サンフランシスコのマックワールドでiPhoneを発表した際、ジョブズは、iMacのときと同じように、アンディ・ハーツフェルドにビル・アトキンソン、スティーブ・ウォズニアック、そして1984年のマッキントッシュチームを招待した。ジョブズは製品プレゼンテーションがすばらしいことで有名だが、なかでもこのiPhoneの発表は絶品である。
 「ときどき、あらゆるものを変えてしまう革命的な製品が登場する」
 そう語りはじめると、過去の例をふたつ、紹介する。まず初代マッキントッシュで、これはコンピュータ業界全体を変えた。もうひとつが初代iPodで、これは音楽業界全体を変えた。そして、発表に向けて慎重に伏線を張ってゆく。
 「今日は同じくらい革命的な製品を3つ、紹介する。まず最初は、タッチコントロール機能を持つワイドスクリーンのiPodだ。2番目は、革命的な携帯電話。そして3番目。インターネットコミュニケーション用の画期的な機器だ」
 この3つを繰り返して強調したあと、会場に問いかける。
 「わからないかい? 3つに分かれているわけじゃないんだ。じつはひとつ。iPhoneっていうんだ」
 その5ヵ月後の2007年6月末、iPhoneが発売となった日、ジョブズは妻とふたり、その興奮を味わいにパロアルトのアップルストアヘ出かけていった。新製品の発売日にジョブズがよく顔を出すのは有名で、それを期待して集まったファンも大勢いた。
 皆、モーゼがバイブルを買いに登場したらこんな感じではないかというほどの大騒ぎでジョブズを歓迎する。そのなかにハーツフェルトとアトキンソンもいた。
「ビルは一晩、徹夜で並んだんだよ」

とハーツフェルド。ジョブズは手を広げると大笑いした。
「彼にはひとつ贈ったのに」
「6台いるんだってさ」
 iPhoneにブロガーらは「キリストの電話」というあだ名をつけた。業界では、500ドルは高すぎて成功しないと冷ややかな見方が多かった。
 「世界で一番高い電話です。キーボードがないので、仕事用に買う人はいないでしょう」
と、マイクロソフトのスティーブ・バルマーはCNBCのインタビューに答えている。
 そして今回も、マイクロソフトはジョブズの製品を過小評価した。2010年末までにiPhoneは累計で9000万台も売れ、利益で見ると世界の携帯電話市場のじつに半分以上を占めたのだ。

(院長註:iPhoneを発表するスティーブ・ジョブズ

サバン症候群

「脳のなんでも小事典」川島隆太、泰羅雅登、中村克樹、技術評論社、平成16年
P175
 「サバン症候群」とは、自閉症の患者が、ある特定の分野に天才的な能力を示すことの総称です。その分野は、音楽であったり、絵画であったり、超人的な記憶であったりします。映画好きの人ならば、「レインマン」という映画でダスティン・ホフマンが演じたレイモンドといえばわかりやすいかもしれません。レイモンドは自閉症なので、人と普通に会話したりすることができません。ただ、「飛行機事故が何年の何月何日にどの飛行機会社で起ったか」などをこと細かに覚えています。また、床にばらまかれたマッチ棒を瞬時に数えてしまったりすることができたり、カジノで三〜四組のトランプのカードのどれが配られて、どれが何枚山に残っているのかを判断でき、カジノで大もうけしたりします。
 どんな曲でも一度聴いただけで完璧に演奏してしまうピアニストがいるかと思えば、ちょっと描けないな、というような素晴らしい絵を描く画家もいます。不思議なことなのですが、そういう人は風景を見て覚えて、あとでそれを非常に忠実に描くことができます。例えば、十まで数えられない人が高層ビルを見て、その窓が三十六あったのを間違いなく描けるのです。
 なぜこのような能力が発揮できるのかは、現在の脳研究ではわかっていません。ただ、通常の脳機能の一部が違っているために、ほかの場所の働きが普通の人以上になっているという考えがあります。「裸の大将放浪記」の山下清画伯なども自閉症で、その天才的な構図や色使いはそのためではないかと考えられます。          、
 脳のどこが違っていると特別な能力を発揮できるのか、詳細はまだわかっていません。科学的に証明されたものはないのですが、言語を司る左脳の側頭葉の先端部分の働きが変わると、サバンに見られるような特別な能力の「開放」が起こる(潜在的にあり、抑圧されていた能力が発揮される)と考える研究者もいます。アルツハイマ−病や脳梗塞を起こした人の中には側頭葉の先端部がダメになる人もいますが、中には突然芸術的な能力を発揮して、素晴らしい絵画を描き始める人も確かにいるのです。このことは、脳は働くばかりがよいのではなく、「働かないこと」がプラスに働くこともあることを意味しているのかもしれません。
 ただ誤解のないように付け加えますが、自閉症でサバンと呼ばれる人も、脳梗塞などで特殊な能力を示す人も、日常生活に支障をきたす障害を持っています。また、超人的な能力を発揮するものの、限られた分野だけです。

失敗を怖がってちゃダメ

「人生は勉強より『世渡り力』だ!」岡野雅行、青春出版社、2008

P178失敗するたびに新しい発想を生むヒント
 親父にドヤされながら嫌々始めた金型の仕事は、案外、おもしろかったんだ。工夫すれば、どうにでもおもしろいものができるなと思ったね。俺にとっておもしろいものっていうのは、世の中にないものだね。もう、誰かがやっちゃってるものをやったって、ちっともおもしろかねえもん。
 学歴も地位もお金もないっていう、ないない尽くしの状況も原動力になった。学歴がありゃ、サラリーマンでもやるかってことになったかもしれないけど、俺は中学中退だからね。お袋が言ったように手に職をつけなきゃ、箸にも棒にもかからねえよ。
 とにかく技術をつけなきゃ話にならない。金型の仕事で一人前にならなかったら、クズ同然だと思ったね。技術を磨くうえで大事なのは辛抱と失敗だ。金型の職人として一人前になるには二〇年はかかるって言われてる。その間、辛抱できるかどうかなんだよ。

「大卒、大学院卒なんかに負けねえぞ。いまに追い越してやるからよ」
 俺はいつもそう思ってやってきた。追い越すには職人の技術しかねえんだ。これしかないと思ったら、人間、辛抱だってきくもんなんだ。
 失敗はしたくない、できるだけしないほうがいいって考えてるヤツが多いけど、失敗しなきゃ、成功なんかできっこない。失敗を怖がってちやダメなんだよ。
 学校がいけないね。小学校に入ったとたんに、あれしちゃいけない、こうでなくちゃダメだだろ? 勉強だって間違えないこと、失敗しないことが評価される。それが大学、大学院まで続くんだ。社会に出るときには、すっかり”去勢”されてたって不思議はねえやな。
 大企業にいくら「優秀」な技術者が揃ってても、俺みたいな仕事はできない。失敗したらまずいってことが、まず最初にあるからだよ。上の人間だって責任を取りたくないって考えてるのばかりだろ?
 俺は学校に行ってないから、失敗なんか怖くも何ともないね。実際、ひとつの金型を仕上げるまでは、失敗の連続なんだ。
 「ここのところがまずかったのか? だったらこんなふうにしてみるか?」

 失敗するたびに、新しい発想やアイデアが湧き出てくるんだよ。それをかたちにしていくのが工夫ってことだよ。
 俺はおんなじ金型をつくれない。一度完成したものでも、「ここを変えたら、もっと効率が良くなるな。もちを良くするには、ここんとこを工夫すりゃいいんだ」ってことが出てくるからだよ。注文先から追加注文があったら、俺は言うんだ。
 「おんなじものはできねえよ。もっといいもんならできるけど……」
 失敗を繰り返して、ようやく成功にたどりついたときの楽しさを知って欲しいね。いまの人たちに、どんな仕事でも二〇年は辛抱しろって言ったって、どだい無理だろうけど、失敗したっていいんだよってことは言いたいんだよ。 

行き過ぎた信用創造

 「世界の富の99%はハプスブルク家と英国王室が握っている」真田幸光、宝島社新書、2012

P116

  ショック・ドクトリンという言葉があります。ショックを起こし、人々が混乱の中にいるときに社会を変えてしまうことです。簡単に言えばそういうことですが、そういうことをアメリカはやってきたのです。アジア通貨危機を起こして、そのショックのさなかに、アメリカは、彼らアングロサクソン人のスタンダードを、グローバリズムの名の下にアジアに押し付けてきたわけです。

 そして、アメリカはその次に何をしたのか。世界のブラックホールになっていったのです。サブプライムローンをも生み出しながら、世界の資金と物とサービスをブラックホールのごとく吸収していきます。アメリカの図体以上に吸収し、そして、ドル紙幣を吐き出します。先ほど説明した基軸通貨のメリットのひとつ”いくらでも紙幣を刷れる”利点を最大限利用します。

 ドル紙幣が世界に溢れていきます。溢れていったお金が、行き過ぎた信用創造をしていくのです。信用創造とは、乱暴な言い方をすれば、お金がお金を生み出すことです。現在のお金は、実需に対して1対15とか、1対20とかいわれるほどの規模になっています。実際の商取引で使われるお金の15倍から20倍のお金が動いているということです。小さな市場など、あっという間に投機の金で溢れかえり、一気に暴騰します。しかし、資金が引かれるときは、一気に引かれて暴落するのです。そういう世界をブラックホールになったアメリカは作り出していったのです。

P123

(前略) 信用創造自体はある程度必要です。そうしなければ、経済は成長していきません。しかし、行き過ぎた信用創造はバブルになるわけです。現在の世界のGDPは60兆ドルぐらいですが、出回っているお金は1200兆ドルぐらいといわれています。いくらなんでも膨らみすぎです。

P179

 国際経済社会は、「貨幣経済」が浸透し、ものとサービスの価値判断基準である基軸通貨を源に発展してきました。しかし、金本位制から離れた時点から、一定の有形資産に支えられつつも、基軸通貨国=アメリカの信用度という、事実上の無形資産に支えられた国際金融資本主義が拡散しました。その過程で、格付けなどを利用した「行き過ぎた信用創造」が発展し、実体経済を超えて金融市場が膨らみ過ぎているのです。例えば、1980年当時の世界経済のGDPを1とすると、当時の世界全体の銀行与信規模はほぼそれと同様の規模でありました。
 ところが、2010年にはこれが約一・七五倍に拡大しています。
 株価の時価を見ると、1990年には世界のGDPに占める株価総額は半分以下であるのに対して、2010年には世界のGDPの九割近くになっています。

自己犠牲を払える人に、トップになってほしい

「カンブリア宮殿 村上龍×経済人1 挑戦だけがチャンスをつくる」村上龍、日経ビジネス文庫、2009

稲盛和夫京セラ名誉会長

P405

村上 経営者に向いている資質というのはあるのでしょうか。
稲盛 向いているかどうかという問題もあるけれど、持ってほしい資質と、持ってほしくない資質はあると思います。自分の欲望、野望を達成することだけを目的とした方が経営者になると、社員は被害者になります。経営者になりたいと思う人は、自己犠牲を払ってでも社員とお客さまを大事にしようと思ってほしいです。というより、大事にしようと思えばある程度の自己犠牲は免れない。それをいとわない人間性を持った人でないと経営者になってはいけないと、私は思うんです。ただ現実にはみんながそうだというわけではありません。自分だけよければいいという経営者もいますから。

村上 以前は「社長」というと、とにかく一番偉い人で、社員になったらなりたいと思うのが当たり前でした。”社長シリーズ”のような映画の影響かもしれませんが。
稲盛 それは功成り名遂げて社長になったということですよね。だから部下も周囲もちやほやしてくれるし、給料もたくさんもらえる。そういう意味で一度社長になってみたいなと思う若い人もいると思います。でも映画もそうだったけど、そういう人は必ずずっこけますよね。有頂天になり慢心して、足元が崩れていく。会社を立派にしていこうと思う人はそんなヨイショに乗らないものです。神輿みたいなもので、みんなが「ヨイショ、ヨイショ」とかついでくれるけど、慢心して横暴になると、みんな手を離しますから。

人生の結果か目的か

「カンブリア宮殿 村上龍×経済人1 挑戦だけがチャンスをつくる」村上龍、日経ビジネス文庫、2009

松浦元男 樹研工業社長

P180

松浦 (前略)私はうちの社員にも自分の子どもにも、それから近所の高校生たちにも「人生の目的を間違えちゃいかんよ」と言っています。ときどき間違えるんです。だから私は「お金持ちになることを考えてはいけません」「有名になることを考えてはいけません」「偉くなろうと思ってはいけません」。この三つは実は人生の結果であって、これを目的にするととんでもないことになりますよ、と言うわけです。

小池 そうですよね。

松浦 すると「とんでもないことってどんなことですか」と聞かれます。まず友達がいなくなります。自分の周りから人が去っていきます。一生懸命やった結果、お金持ちになったらラッキーでしょう。でもお金持ちになることを目的にするとね、やはり人が離れていきます。親子、兄弟でも離れます。お金持ちになることに懸命になると、一番大事な財産を失ってしまうんです。これをいろいろな時にみんなに伝えていると、十年ぐらい経つと、「そうだね」と言ってくれます。

イラク脅威は情報操作?

熊本日日新聞H15.10.5朝刊
英国の情報操作疑惑 次期MI6長官人事で暗闘
 歴史と伝統を誇る女王陛下のスパイ組織が、その信頼性と独立性をめぐって揺れている。
 英国防省の専門家の自殺を招いたイラクの大量破壊兵器をめぐる情報操作疑惑。だが、独立調査委員会の審議では、政府と情報機関の不適切な関係も明るみに出た。
 渦中の人は、内閣府合同情報委員会(JIC)のジョン・スカーレット委員長。英秘密情報局(SIS、通称MI6)に三十年間所属、モスクワ支局長などを歴任したマスタースパイの一人だ。
 モスクワ駐在時代には、旧ソ連国家保安委員会(KGB)の大物スパイ、オレグ・ゴルディエフスキー氏のソ連脱出作戦を成功させた。
 KGBロンドン支局長などを務め、対西側工作に直接関与したゴルディエフスキー氏はソ連から寝返り、MI6に貴重な情報を提供していた。身の危険を感じた彼をスカーレット氏は無事亡命させた。ゴルディエフスキー氏は一九九〇年、「KGB・インサイドストーリー」を出版、KGBの内幕を暴露した。
 スカーレット氏はこうした業績に加えて、ブレア首相の側近グループの一員として、首相の強い信頼を勝ち得た。このため、英情報機関の関係者の間では、次期MI6長官への就任が有力視されていた。
 しかし、情報操作疑惑で、MI6の内部などからこの人事に対して強い不満が漏れ始めた。
 スカーレット氏が、友人のアラステア・キャンベル前首相府報道局長らの要求を入れて、MI6や国防省の国防情報参謀部(DIS)がまとめた情報をねじ曲げた疑いが表面化したのである。
 一番問題になったのは「イラクはフセイン大統領の命令を受けて四十五分以内に生物、化学兵器を実戦に配備できる」との首相報告書の内容。
 この情報、実は亡命イラク人科学者一人がもたらした伝聞情報で、裏を取った情報ではない、とリチャード・ディアラブMI6長官は警告したが、どうやらスカーレット氏はキャンベル前局長の要請でそのまま報告書に盛り込んだようだ。
 その他、イラクの脅威を強調するため、文言が削除されたり、強められたりした。情報が政治自的に利用された由々しい事態だ。
 英情報機関は米中央情報局(CIA)など比較にならないほど歴史が古い対外情報機関MI6と国内防ちょう部門、情報局保安部(MI5)は一九〇九年に発足した。
 JICには首相、外相らに加えて、これら機関の長官が出席する。しかし異例なことに、イラク問題を討議した時のJICには首相のスピンドクター(世論操作の達人)だったキャンベル前局長も出席していた。
 情報の政治利用に対し、実はディアラブMI6長官は反撃していた。秘密裏にBBC放送記者に会って「イラクよりシリアやイランの方が脅威」と示峻したという。
 ブレア政権の情報操作を裏から正そうとしたようだ。MI6の内部では、次期長官にはナイジェル・インクスター副長官を支持する声が強まっているという。
(共同通信編集委員 春名幹男)

(院長註:結局2004〜2009年の間ジョン・スカーレットがMI6長官を務めたようです。)

海馬で短期記憶を作り、大脳皮質で長期記憶を保存する

「脳のなんでも小事典」川島隆太、泰羅雅登、中村克樹、技術評論社、平成16年、P162

 海馬で短期記憶を作り、大脳皮質で長期記憶を保存するという事実は、側頭葉の内側部を切除された患者の症例などから明らかになってきました。手術を受ける二〜三年以上昔の記憶(すなわち長期記憶)は失われていませんでした。つまり、海馬や側頭葉内側部は、長期記憶の貯蔵場所ではないのです。しかし、手術の直前一〜二年の記憶は、かなり失われていました。このことは、短期記憶から長期記憶へと変換するためには数年かかること、その過程には海馬や側頭葉内側部が必要であることを示しています。
 脳のどこに、どんな記憶が蓄えられているかは、これからどんどん解明されてくるでしょう。

Think different.

 「スティーブ・ジョブズU」ウォルター・アイザックソン、井口耕二訳、講談社、2011

P79

(院長註:Think differentというCMを作ったことに対して)

 自社ブランドをガンジーやアインシュタイン、キング、ピカソ、ダライ・ラマとのかかわりで語るという、華々しい無茶ができる会社や企業リーダーはまずいないーーーアップルとジョブズ以外にはありえないかもしれない。ジョブズは、「どのコンピュータを選ぶか」という行為だけで、ユーザーが自らを反企業的でクリエイティブ、イノベーティブな反逆者だとみなし、主張できるようなブランドを作ったのだ。
 ラリー・エリソンもこう証言している。
 「テクノロジー業界で唯一、ライフスタイルブランドを生み出しだのがスティーブなんだ。車ならポルシェやフェラーリ、プリウスなど、持っているだけで誇りが感じられる製品がある。運転する車には自分が反映されるからだ。アップル製品も、ユーザーからそのように思われている」

(院長註:やはりプリウスはすごいのですね。)

若気の至り

「カンブリア宮殿 村上龍×経済人1 挑戦だけがチャンスをつくる」村上龍、日経ビジネス文庫、2009

堀威夫 ホリプロファウンダー最高顧問

P131

堀 (前略)若気の至りなんですね。だけどこの年になってみると、若気の至りというのは、エネルギーだと思うんですよ。日本では通常ネガティブに使われますけど、僕はものすごくポジティブな言葉だと思います。今やれと言われてもできない。(中略)

P133

村上 堀さんは『若気の至り』とおっしゃいましたが、最近「若気の至り」の逆で、たとえば働きもしないし、学校も行かないし、トレーニングもしない若者が八十万人もいるという話があります。そういう話を聞いてどう思われますか。
堀  それはまず、日本の国が豊かになった副作用じゃないでしょうか。何もしなくても死なないという保障があるわけです。我々の若い時は、何もしなければ餓死するわけです。現実に上野の地下道とかで、そういう姿も見ています。その緊張感があったのが、当時と今との差じゃないですか。
村上 僕もそう思います。社会的ひきこもりというのが話題になっていますが、僕が小さいころの家には部屋がないですから、ひきこもれないんです。ただ豊かになったのはいいことだけれども、エネルギーがなくなるというのはあまりいいことではないですよね。
堀  まあ、その人の生き方だからね。それはそれでハッピーだと思っている人もいるのかもしれない。僕は逆に、我々が非常に貧しい時代を生きてきたために、リスク管理が行き過ぎているところがあるような気がします。たとえば休みを一週間とって、どこかに行く。三日ぐらいするとむずむずして、こんなことをしてていいのかなあと思い出す。貧乏性ですよね。これも一種の病気だと思います。欧米諸国の人みたいにひと月もふた月も休みをもらったら、たぶん発狂するでしょうね、我々は。
村上 でも意外ですね。ニートの話をすると、大人は「だらしない」とか「何してるんだ」とか言うことが多いのですが、堀さんは違う。そういう人の気持ちがわかるということではないけど、豊かになった副作用だというのは、まったく正しいと思います。

スティーブ・ジョブズのこだわり

 「スティーブ・ジョブズT」ウォルター・アイザックソン、井口耕二訳、講談社、2011、P216

 かつてジョブズは父親から、優れた工芸品は見えないところもすべて美しく仕上がっているものだと教えられた。これをジョブズがどれほど突きつめようとしたのかは、プリント基板の例を見るとよくわかる。チップなどの部品が取り付けられたプリント基板はマッキントッシュの奥深くに配置され、消費者の目には触れない。そのプリント基板でさえジョブズは、美しさを基準に評価したのだ。いわく、その部品はすごくきれいだ。いわく、あっちのメモリーチップはみにくい、ラインが密すぎるー−−と。
 そのようなことに意味はないと新参のエンジニアが反論したことがある。
 「重要なのは、それがどれだけ正しく機能するかだけです。PCボードを見る人などいないのですから」

 ジョブズはいつもどおりの反応をする。
 「できるかぎり美しくあってほしい。箱のなかに入っていても、だ。優れた家具職人は、誰も見ないからとキャビネットの背面を粗悪な板で作ったりしない」
 数年後、マッキントッシュが発売されたあとのインタビューでも、父親から学んだこの点に触れている。
 「引き出しが並ぶ美しいチェストを作るとき、家具職人は背面に合板を使ったりしません。壁にくっついて誰にも見えないところなのに、です。作った本人にはすべてわかるからです。だから、背面にも美しい木材を使うんです。夜、心安らかに眠るためには、美を、品質を、最初から最後まで貫きとおす必要があるのです」
 隠れた部分にも美を追求するという父親の教えにつながるものを、ジョブズはマイク・マークラから学んだ。パッケージやプレゼンテーションも美しくなければならないのだ。たしかに人は表紙で書籍を評価する。だから、マッキントッシュの箱やパッケージはフルカラーとし、少しでも見栄えがよくなるようにさまざまな工夫をした。
 「50回はやり直しをさせたと思いますよ。開いたらゴミ箱に直行するものなのに、その見栄えにものすごくこだわっていたのです」

と語るのは、当時マックチームのメンバーで、ジョアンナ・ホフマンと結婚したアラン・ロスマンだ。ロスマンは、ジョブズにはバランス感覚がなさすぎると思った。メモリーチップの費用を抑えようと努力している一方で、パッケージに大変なお金が使われていたからだ。しかしジョブズにとっては、マッキントッシュを驚くほどの製品とし、また、マッキントッシュに驚いてもらうためには、細部までゆるがせにできなかったのだ。
 デザインが完成したとき、ジョブズはマッキントッシュチームを集めてお祝いをした。
 「アーテイストは作品に署名を入れるんだ」
 そう言うと、ジョブズは製図用紙とシャーピーのペンを取り出し、全員に署名するよう求めた。
 このサインは、すべてのマッキントッシュの内側に彫り込まれている。修理の担当者でもなければ絶対に目にするはずがないが、チームメンバーは皆、自分の署名がそこに彫り込まれていると知っている。回路基板ができるかぎりエレガントに作り込まれたと知っているように。
 一人ひとり、ジョブズに名前を呼ばれた人がサインしてゆく。最初はビュレル・スミス。ジョブズは、メンバー45入が全員サインしたあと、真ん中あたりに残っていた空白にサインをした。ぜんぶ小文字のきれいなサインだ。そして、シャンパンで乾杯。
 「最終的な成果をアートだと彼が感じさせてくれるのは、こういうときなのです」
 とアトキンソンはほほえんだ。

硫黄島

「カンブリア宮殿 村上龍×経済人1 挑戦だけがチャンスをつくる」村上龍、日経ビジネス文庫、2009

P119古田英明 縄文アソシエイツ代表取締役

古田 (前略)一昨年でしょうか、映画の『ラスト・サムライ』が、なぜあれだけ受けたか。あるいはクリント・イーストウッドの『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』にしても、我々の世代を含めて正しい歴史教育を受けていないので知らないと思いますが、アメリカの一定のインテリ層は、アメリカ海兵隊が百数十年の歴史の中で一番厳しい戦いをしたのが硫黄島だということを、全員知っています。
村上 トンネルを掘りまくって、頑強に抵抗したんですよね、日本軍は。
古田 これだけ不甲斐ない日本ですが、それでも「こいつらを怒らせたらちょっとまずいかな」と思わせる根源のところに、あの硫黄島がある。あの戦いでは我々の先輩が二万人くらい命を落としていますが、その壮絶な戦いのおかげで、今日の日本がアメリカからバカにされずにいる、ということを我々は知らないんですよね。

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