〒861-8003 熊本市北区楠4-3-18

受付時間
月・金 9:00~13:00/15:00~19:00
火・水・土 9:00~12:30/14:00~18:00
定休日
木曜、日曜・祝祭日
096-337-0088
096-337-0088

 クレヨンしんちゃんは埼玉県春日部市双葉町904という架空の住所に住んでいる設定になっていて、春日部市のイメージキャラクターを務めているそうです。

 院長の学生時代(まだクレヨンしんちゃんなどなかった時代だと思います)、春日部から通って来ているみんなにしんちゃんと呼ばれる同級生がいました。荒川真一君です。彼が7月1日付けで東京医科歯科大学歯学部口腔保健学科生涯口腔保健衛生学分野の教授に就任しました。今、東京では歯科衛生士学校が4年制になり、大学の扱いになっているそうです。そこの教授です。9月16日(日)に同級生による祝賀会があり、出席してきました。

 彼は元々歯周病の教室で口腔細菌の研究をしていたそうですが、水の研究もやっているそうで、当日はオゾンナノバブル水の簡単な講演もありました。彼の人柄のせいか、みんなのスピーチも和やかでいい会だったと思います。

 岡本君のエールの後、「しんちゃん頑張れ!」と声がかかり、祝賀ムードも最高潮。そこに「春日部しんちゃん!」と声がかかり、思わず笑ってしまいました。

 同級生80人の内、これで教授は4人目です。皆さんの益々のご活躍を期待しています。

「 ツキの正体 運を引き寄せる技術」桜井章一2010幻冬舎新書P60

 すべての局であがる必要はないのです。ここだけはどうしてもあがりたい、という勝負どころで、きっちりとあがりをものにすればいい。そのために、どんなに手が悪くても、流れが悪くても、それにふさわしい手順を打ちながら、ターニングポイントに向かって力を溜めていくのです。
 内容と勝負の関係を、私はこう考えています。
 理想的なのは、「よい内容で勝つ」こと。

  次に望ましいのは、「よい内容で負ける」こと。
 3番目が「悪い内容で負ける」ことであり、最も下なのは「悪い内容で勝つ」こと。
 極論すれば、勝ち負けなんてどうでもいい。問題なのは内容であり、プロセスです。
 間違った手順を打っているのに、悪運に恵まれて、たまたま勝っている人間。
 今は流れが向かずに負けているけれど、ひるむことなく、正しい手順を堂々と打ち続けている人間。        長い人生の間に、どちらが強くなれるか、どちらに本当のツキが回ってくるかは、言うまでもありません。 

  今の時代は、いわば流れが逆になっている状態なので、最も価値の低い「悪い内容で勝つ」という現象が頻繁に起こっています。そして、「内容なんか関係ない。勝てばいいんだ」
 などと言う輩が大手を振って歩いています。
 けれども、そんなものは相手にしなければいい。そのうちに「悪い内容で負ける」ようになり、肩を落としてどこかへ姿を消すかもしれません。
 黙々と正しい手順を打っていきましょう。
 逆流の時代であることをわきまえて、焦らずに。
 くれぐれも、正気を失ってはいけません。
 そのためにも、頭より身体の声に耳を傾けるのです。
 そして、その声に従って即行動するようにすれば、自ずとついてくるのです。

 8月24日(金)深夜放送の探偵ナイトスクープ(TV朝日系列、熊本ではこの日の放映でした)で、5歳の女の子が四つ葉のクローバーを見つけるのが異常に早いので、一度見に来てくれというのをやっていました。映像を見る限り本当に早い。30秒に1本の割合でどんどん見つけていきます。女の子曰く、「こっちだよ。ここ。」と言う声が聞こえるそうです。ある一角の土地では、「ここにはない」という一言。「なぜ?」という問いかけに「声が聞こえないから。」と答えていました。本当に不思議な能力があるとしか思えない映像でした。コーナーの締めくくりは、「こういう能力って、大人になるとだんだん消えていくんだよね。」というものだったと思います。

 この話を見て、思い出したのが、最近第2子の出産準備と旦那さんの福岡転勤とが重なって、退職された歯科衛生士のTさん。第2子の妊娠に、「最初に気が付いたのは、上の子(第1子)なんです。保育園の先生が最近○○ちゃん(第1子)が情緒不安定なところがある。今までなかったこと。お母さん、(第2子を)妊娠しているとかないですよね?」と言われて病院に行ってみたところ本当に妊娠していたそうです。

 最近TVで見たのは、お母さんは妊娠しているのはわかってたみたい、「上の子が『赤ちゃん2人いるよ。』というので病院に行ってみたら、双子でした」というのをやっていました。

 もう本当に見えていて、聞こえているとしか思えない不思議な状況というのがあるようです。オリンピックで金メダルをとった女子柔道の人、妖精が見えたというのも、子供の能力がそのまま残ったと考えれば、ありかなと思う今日この頃です。

 メダリストのパレードも終わり、東京オリンピック招致が話題になっていました。東京オリンピック招致と言えば、良くTVに映っているのが、河野一郎東京オリンピック招致委員会事務総長です。ラグビー部の先輩です。院長の学生時代は筑波大学におられたので、全く接触する機会はなかったのですが、卒業後、埼玉で勤務医をやっていた時に、ラグビー日本代表のマウスピースを作るために、秩父宮ラグビー場に、ラグビー部OBに招集がかけられ、その時遠目にお見かけしました。そのため、顔は見ればわかります。今回、ご紹介しようと思って、その経歴を調べてみて、その華麗なる経歴に驚きました。先生は医者でありながら、医学部ではなく、体育学系の学部でスポーツ医学の教授を務められました。今回東京が取れなければ、アジアで初の2回目のオリンピックは韓国に持っていかれるなどと聞くと、先輩を応援しない訳にはいかんと思ってしまいます。なんとか東京に決まって下さい。

河野一郎JOC(日本オリンピック協会)理事略歴

1973年東京医科歯科大学医学部卒業

講師、助教授を経て1999年から筑波大学人間総合科学研究科スポーツ医学専攻教授

同年日本ラグビー協会強化推進本部長としてラグビーワールドカップ日本代表団長

ソウル五輪からアトランタ五輪まで三大会連続日本選手団チームドクター

その後2012ロンドン五輪まで日本選手団本部役員

2001年JOC理事になり「JOCゴールドプラン」を策定し、アテネ五輪メダル獲得数過去最高に貢献

2006年東京オリンピック招致委員会事務総長

日本ラグビー協会理事として2019年ラグビーワールドカップ日本招致に成功

2010年日本アンチ・ドーピング機構会長(2011年9月まで)

2011年日本スポーツ振興センター理事長

 オリンピックによる寝不足で、しばらく更新できませんでした。

 夏の甲子園8日開幕で、9日には母校(愛媛県立今治西高校)が桐光の松井投手に22K(三振)の新記録であっさり負けてしまったので、今年は済々黌の応援しか残っていませんでした。

 18年ぶりの出場ということは、初出場も同じ。固くならないかと心配しました。初戦の相手、鳴門高校は昨秋の四国大会優勝校、選抜ベスト8の強豪です。この日はお休みだったので、全試合テレビ観戦できました。西口主将のホームランは出るし、全く危なげない勝利でした。大したものだと感心しました。選手もすごかったけれど、応援団もすごかった。アルプススタンドの最上段まで黄色で埋め尽くされていました。「巨大なヒマワリ畑」というような表現でアナウンサーが言っていました。応援団長のバンカラスタイルを「弊衣破帽と言って、大昔の学生がやっていました。」とNHKのアナウンサー。せいぜい旧制中学時代のことでしょう。大昔っていうかな?とちょっと嫌な感じ。今年も同じスタイルで、伝統が守られていると安心した全国の高校野球ファンは多いのではないでしょうか。

 済々黌のすぐ後のゲーム、浪速のダルビッシュ。さすがにでかい。バッターボックスにっ立ったら、相手のキャッチャーは肩までしかない。150km超の球速。後輩の22Kの後だけに、「ゲームになるんかい?」と心配になりました。怪物と言われた作新学院の江川投手に今治西が、選抜の準々決勝で1安打20K取られて、当時の監督が「完全試合にならなくて良かった。」と言ったゲームがあるのを思いだしました。夏までに江川投手対策を徹底的にやって、夏の甲子園ではベスト4まで行きました。超高校級投手を相手にする時の対処法を調べてみました。

 基本的にはバントのようです。セーフティーバント。ベースの上に覆いかぶさる様に構え、的を小さくする。内角のボール球にはバットを引きながらデッドボールを狙う。出塁したら、盗塁、送りバント。そしてスクイズ。バスター(バントの構えから、強振)も交えてかき乱すことが大事みたいです。プッシュ打法というのも出てきました。バントのように球の勢いを殺すのではなく、バントの格好のまま、強く押し返して、バント処理に出てきた内野手の間を抜くようです。

 怪物江川投手対策に今治西はピッチングプレートの数メーター前から投げさせたということですが、新聞報道によると、済々黌はピッチングマシーンのスピードを上げて、やはり同じように前から投げさせていたようです。バント練習の写真も載っていました。

 当日は診療中で、TV観戦は出来ませんでしたが、インターネットの一球速報を時々見て、接戦になっているのはわかっていました。診療を早めに切り上げて、TVを見てびっくりしました。背番号10が投げている。なめてるのか。まっ、すぐ、かなりいい投手だというのはわかりましたが。Wエースと呼ばれていました。中盤に大竹投手が本塁打を何本か打たれたのはしょうがないですね。あれだけの体格でブンブン振り回してくるのだから。振り回しを許しているのもチーム力でしょうか?凡退しても誰かが打つ。

 9回ワンアウト満塁で、代打の打球音に座っていた椅子から、飛び上がりました。いい当たりだった。正面すぎました。勝負運がなかっただけで、いい試合でした。健闘でした。

 応援団もすごかった。大阪の監督が「サッカーでいうところのアウェーの雰囲気だった。」と感心していました。済々黌に大拍手です。

 体は100%、気持ちは7,8割。(スピードスケート清水宏康選手。平成10年2月10日長野オリンピック500m優勝の後。)リレハンメル五輪ではただガムシャラに走ればいいと思っていた。結果は5位。その反省から気持ちの持って行き方がわかってきた。

 失敗したらどうしよう。ジャンプ団体の最終ジャンパーとしてスタート台に立った船木和喜選手平成10年2月17日。4年前のリレハンメル五輪で普通に飛べば金メダルの状況で失敗ジャンプに終わった原田選手のすごい重圧を自らの体で感じることが出来た。失敗を思い浮かべては駄目だと、頭の中から消し去り、自分のジャンプをすることだけを考えた。

 済々黌18年ぶりの甲子園決定おめでとうございます。

 前日に優勝候補の九州学院を1−0で破ったとのことで、気になっておりました。歯石除去の仕事を歯科衛生士さんに任せて、ちょっと早めにTVの前に行ったら、4−3で済々黌リードで8回裏2アウト満塁で済々黌の攻撃、走者一掃の2塁打、見る事が出来ました。大竹投手が最後のバッターを3球三振に仕留めたところは鳥肌ものでした。

 甲子園での活躍期待しております。くりーむしちゅーがOBです。知り合いのK先生は昭和33年に済々黌が全国制覇した時の同級生と言っていました。院長はその年に生まれました。K先生いったい何歳だろう?

 院長は桜美林が全国制覇した昭和51年の夏に、愛媛県立今治西高校3年で母校の応援で甲子園に行っております。カチ割り氷も経験しております。1回戦は不戦勝、2回戦は熊本工業でした。接戦の末、2−1で勝って、帰ろうとしていたら、次の試合の桜美林の応援団がやってきて、「君たち、早く移動してくれないかな。」と言われてしまいました。東京の私立高校生のまぶしかったこと。スポーツ新聞によると桜美林の応援団のユニフォームは大丸で誂えた一着数万円のものとのことです。

 「ちょっと、待ってつかー。」と今治弁丸出しで返した同級生の貧相なこと。今治西の応援団の服装は、黒の普通の学生服にモールか何かで飾りつけただけの簡単なもの。田舎モン丸出しでした。今となってはいい思い出です。

 済々黌の応援団はボロボロ帽子のバンカラスタイルで有名です。応援団もがんばれ!!

2000.10.19週刊文春P90読むクスリ
守破離三十年
 「我が家には、先祖から伝えられてきた家訓が三つあります」
と東京・新橋に百七十年続く老舗の天ぷら店『橋善』の常務取締役、橋本欣也さん(五十六歳)。
江戸後期に初代善吉が橋のたもとの屋台で天ぷらを揚げ始めたのが、店の名の由来だ。

 「その一つは『守破離三十年』です」
 守破離とは、主として剣道で、修業上の段階を示すのに使われる言葉。
 初めは、師や流派の教え、型、技を確実に身につける。これが「守」だ。
 次の「破」の段階では、他の師や流派の教えを研究し、よい方向へ発展していく。
 そして、特定の派から離れて、独自の新しいものを確立する。すなわち「離」だ。
 「それを我が家の家訓では、守、破、離、それぞれに十年ずつ割り振り、合わせて三十年にしているんです」
 つまり、最初の十年間は先代の教えを徹底して守り通す。
 次の十年間は、自分で研究し、好きなようにやってみる。
 そして最後の十年間は、それらをすべて見直せ、というのだ。
 「私は中学生のころから、親父に天ぷらの揚げ方を教えられました」
 父定善さんは四代目『橋善』にあたる。亡くなった今は、母秀子さんが五代目を継いでいる。
 次男の欣也さんは慶応義塾大学法学部を卒業して店に入った。
 「ですから親父に本格的に鍛えられたのは二十二歳からですが、それからの十年間は、それは厳しい『守』の時代でした」
 初めの一年間は、来る日も来る日も豆腐ばかり切らされる。いい加減に切るのは許されない。橋善流の形と大きさにきちんとそろえなければならない。
 「親父は決して、ああしろ、こうしろ、とは教えてくれません。頭や言葉で覚えるんじゃない。親父が切っているのを見て、からだで覚えていくしかないんです」
 豆腐がすむとコンニャク。これがまた一年間。
 「それができるようになったら、じゃ刺身を切ってみろ、となるんです」
 やっと天ぷらを揚げさせてもらえるようになったのは、四、五年経ってから。
 揚げてみろ、といわれ、喜び勇んでやるのだが、中学生のころ半ば遊びで揚げていたのとは違って、ぜんぜん天ぷらにならない。
 「エビにコロモが付かないんです。何度やっても空揚げになっちゃう」
 父は、違う、というだけで、何も教えてくれない。仕方がないから、父がコロモを作るところから、そばでじっと見ている。
 そのうち、小麦粉と卵と水を、こくらいの比率で混ぜるのだな、とわかってくる。
 「その混ぜ方も、だらだらではなく、さっ、と瞬間的にやらなくてはいけないんです」そうやって作ったコロモを、手早くエビにからませて油に入れる。
 「このからませ方がむずかしくて、そこに橋善の流儀があるんですね。それを覚えて身につけるのに四、五年かかりました」
 欣也さんの揚げた天ぷらがようやく客の前に出されるようになったのは「守」の十年も終わりに近くなってからだった。
 「破」の時代に入ったのは三十三歳になるころ。
 「もう父はなにもいわず、好きなようにやらせてくれました」
 伝統の味を時代に合わせて生かしていくには、どんな材料を使い、どう揚げるのがいいのだろう、と自分で考え始める。
 料理の先生につき、魚河岸で仕入れるエビから、コロモに使う卵や小麦粉まで、あれこれ使い比べてみることもした。
 「エビだけでも三百種類ぐらい買い、味はどうか、ウチの天井の汁に合うかどうか徹底的に調べ、データにしていきました」
 味の模索を続けるうち、あっという間にまた十年が経つ。
 最後の「離」の時代に入った四十代の半ばから五十代にかけて、橋本家の家訓によって過去の二十年間を見直した欣也さんは、そうか、とうなずくことが多くなった。
 「あれか、これか、と材料や技術の勉強をしてきたつもりだけれど、結局今のおれは親父と同じ材料を使い、同じやり方でやってるじゃないか、ということに気が付いたんです」
 エビも、小麦粉、卵、油も、いつの間にか父が使っていたのと同じ材料に戻っている。
 父を越えよう、とあがいているうちに、父のところへ帰ってきてしまったのだ。
 「きっと親父もね、先代を越えてやろう、と思ってあれこれやりながら、気が付いてみると元へ戻っていたんじやないでしょうか」
 その“元”とは、つまり老舗の原点の味のことだろう。
 橋善の天ぷら、とりわけ看板の天井の味は昔から変わらない、といわれる。
 しかし正確には、変えようとしているのだが変えられない、というべきではないかと欣也さんは思う。
 「私にとっての守破離三十年は終わりました。次は若い人が、一から始める番ですね。そのときに味が変わるかどうか、楽しみです」
天下の戦を語るな
 橋本家の第二の家訓はこうだ。『我 仏 隣宝 嫁姑 天下の戦 好き嫌い』
 われ、ほとけ、となりのたから、よめしゅうと、てんかのいくさ、すききらい、と読む。
 読み下してみると、五七五七五のリズムがあって、覚えやすい。
 「商いをするにあたって、客と話すときに触れてはならないことを教えた言葉です」
我。商人は自分のことを客に話すような出すぎた真似をしてはならない。
 仏は宗教のこと。客がどんな宗教を信じているかわからないから、うかつに話題にしてはならない。
 「ただ、先祖を大事にしています、とは言ってもいいことになっています」
 先祖を粗末にするような宗教はないからだ。
 それに、ついでに言ってしまうと『先祖を敬う』のが橋本家の第三の家訓になっている。
 隣宝。他人の財産を意味する。
 「あの家はお金持でいいね、などと言わないことです」
 嫁姑。
 「うちの嫁はだらしなくて、子供のしつけもろくにできない」
 お姑さんが店主の前でこぼす。
 そんなとき、古くからのお得意さんだから、とうっかり相づちを打ったりしてはいけない。
 「それをやりますと、お姑さんは家へ帰ってお嫁さんに、あそこの店主があなたのことを、だらしなくて子供のしつけもできない、と言っていたわよ、と話します」
 お嫁さんは店主を恨み、店の評判が落ちることにつながる。
 嫁姑の間には決して立ち入らず、知らん顔をしておくことだ。
 天下の戦。
 官軍といい、賊軍といっても、どちらの贔屓(ひいき)も店のお客にはいる。どちらの悪口も言わないこと。
 現代にあてはめれば、政治の話はするな。
 欣也さんは法学部政治学科の卒業なので、
 「政治には非常に関心があり、今でも勉強していますが、お客様の前ではただ、私どもにはむずかしいことはわかりません、と受け答えしています」
 好き嫌い。
 「あの車が好きだとか、このタレントは嫌い、なんて言っちゃいけません。お客様の中には、まったく逆の考え方をなさる人もありますから」
 客を嫌な気持にさせたり、角を立てたりして、いいことは何もない。
 「この家訓を守っていますと、聞き上手になるんです。その点にかけては、私は人に負けないと思っています」

 前出の「となりの億万長者」、トマス・J・スタンリー&ウィリアム・D・ダンゴ、斎藤聖美訳、早川書房、1997年に資産家の両親が金銭的にしっかりした子供を育てるためのハウツウというべきやり方が載っていましたのでメモしました。これも資産家へのアンケート調査から浮かび上がってきたものでしょう。日本で昔から言われてきたこととの類似点に驚きました。

資産家の両親がしっかりした子供を育てる場合。
1子供に両親が金持ちだと絶対に教えない
 親が世間体を気にして見栄をはり、高価なものを見につけ、金のかかる生活を送っていれば、子供たちが真似をしようとするのも当然のことだ。逆に金持ちの両親のもとで蓄財優等生に育てられた人々は、よくこう言う。「おやじがそんな金持ちだなんて知らなかったよ。そんなふうには全然見えなかったもの」
2どんなに金があろうと、子供には倹約とけじめを教えること。
 親たちが率先してお手本を示す。
3子供が大人になり、自己管理ができるようになり、きちんとした職業について安定した生活を送るようになるまで、親が金持ちだと気付かせてはいけない。
 「私は子供のために信託をもうけました。相続税で多少有利になるので。子供が40才になるまでお金は受け取れないようにしてあります。その頃までには自分たちの生活が出来上がっているでしょうから、私の金でおかしな影響を受けることはないでしょう。」
 彼は決まったお小遣い以外に子供にお金をあげたことはない。
 「テレビやマスコミが子供の価値観を作っている。お金を使うことばかりを教える。だからお金をあげなかった。何か高額のものを買おうとしたら、まず自分である程度のお金を貯めてからにしなさい、と子供たちには言ってきました。」
4子供や孫に、何を遺産に与えるつもりか、なるべく話さないこと
 軽はずみな口約束をしてはいけない。あなたたちは忘れてしまうかもしれないが、子供たちは覚えているものだ。
5現金や高価なものを駆け引きに使うな
  愛情のしるしに何かをもらうというようには考えなくなる。パパとママから買ってもらうには、しつこくおねだりしたり、ごねたりすればいいと考えなくなる。
6巣だった子供の家庭のことには立ち入るな
 自分たちの思うようにやらせてやることだ。何かアドバイスする場合でも、アドバイスしていいか聞く。高価なものをプレゼントする場合でも、していいか聞く。
7子供と競おうとするな
8子供はそれぞれ違う、独立した人間であることを忘れるな。
9成功をもので計るのではなく、何を達成したかで計るように教育しよう。
 何を持っているかで私は人を判断しない。それよりも何を成し遂げたかのほうがよっぽど重要だ。私は医者であることに誇りを持っている。自分の専門分野で一番になるように努力しなさい。お金を追いかけてはいけない。自分の専門でしっかりやっていれば、お金の方からやってくるものさ。
10子供にお金よりも大切なものがあることを教えよう。
・ 健康、長寿、楽しい生活、愛する家族、自立心、よい友達。そういうもののほうがお金よりもずっと大切だ。まわりの人からよい評判を得て、尊敬を集め、誠実に、正直に生きる。そして何かをやり遂げたという自信を持てたら、黙っていても金持ちになれるさ。
・ お金はおまけのようなもの。人をだましたり、盗むことはない。法律に背くことをしたり税金をごまかしたりする必要はない。
・ 正直に稼ぐほうがずっと簡単だ。いつも人をだましていたら商売は続かない。人生は長丁場なんだ。
・ 逆境は避けられない。人生には、いいときも悪い時もある。

 調べもののために熊本県立図書館に行った時に、経営か経済のコーナーで手にした本、おもしろさに引き込まれ、思わずメモを取りました。

 日本ではお金の話はまだまだタブー視される傾向にありますが、アメリカではお金持ち学とでも言うべきお金持ち研究があるようです。多数の資産家にアンケートし、そこから浮かび上がってきた成功のための7つの法則とは。

「となりの億万長者」、トマス・J・スタンリー&ウィリアム・D・ダンゴ、斎藤聖美訳、早川書房、1997年

100万ドル以上の純資産を持つ者のアンケート調査

100万ドル以上の資産を持つ世帯の割合はアメリカの3.5%

80%は一代で資産を築いてきた

成功を生む7つの法則

1彼らは、収入よりはるかに低い支出で生活する。

2彼らは資産形成のために、時間、エネルギー、金を効率よく配分している。

3彼らは、お金の心配をしないですむことのほうが、世間体を取り繕うよりもずっと大切だと考える。

4彼らは、社会人となったのち、親からの経済的な援助を受けていない。

5彼らの子供たちは、経済的に自立している。

6彼らは、ビジネスチャンスをつかむのが上手だ。

7彼らはぴったりの職業を選んでいる。

成功への鍵

資産を築くには  自分をコントロールする精神力

                  犠牲をいとわぬ態度

                  そして勤勉さ

京都大学の校風 竹内久美子
2003.8.28週刊文春P58
 より変なことを考える奴ほどえらいとみなされる校風。当然ユニークな学生が集まってきています。さらに斯く各々が競い合い、切磋琢磨するためにいよいよもって変なことに。

長生きの秘訣は2000.9.21週刊文春P90読むクスリ
気は長く
つとめはかたく 色うすく
食細うして 心ひろかれ
長命は
粗食(そじき) 正直 日湯(ひゆ) 陀羅尼(だらに)
折々御下風(ごかふう) 遊ばさるべし

 今年のNHK大河ドラマは『葵 徳川三代』だが、家康、秀忠、家光の三代にわたって親交があった天台宗の高僧に、天海(?〜一六四三)という人がいた。
 東京・上野の寛永寺を創建したことで知られる。
 「生年についての記録は残っていませんが、百八歳で寂されたことが定説になっています」と寛永寺執事の浦井正明さん(六十二歳)。
 人生五十年に満たなかった当時としては、稀に見る長寿だった。
 三代の中でもとりわけ天海を敬慕していた家光があるとき、「長生きの秘訣は何でしょうか」とたずねた。
それに対する天海の答えが、この歌二首だったと伝えられる。
 浦井さんに解説していただくと、一首目の「つとめはかたく」は、仕事をきちんとやる、ということ。「色うすく」とは、色事には淡白に。
 「食細うしてし」は、粗食であれ、の意味だ。二首目の「日湯」は、毎日風呂に入る、つまり、からだを清潔に保つ、という心得。
 「陀羅尼」はお経のこと。僧が読経を欠かさないように、自分の本分はきちんと果たしなさい、の意味。
 そして「御下風」はおなら。ときには息抜きしなさい、というのに通じるが、将軍に放屁をすすめた人物は天海をおいてほかにないだろう。

 「私はニ首に共通して『粗食』が出てくることに興味を持ちます」と学校法人服部学園服部栄養専門学校の理事長で校長の服部幸應さん(五十四歳)。
 「飽食のあげく生活習慣病が広がる今こそ、先人の知恵に学んでほしいものだと思いますね」家光は、天海の半分にも足りない四十八歳で死んだ。せっかく秘訣をたずねておきながら、あまりよく教えを守らなかったのかもしれない。

葬式には行くな
 明治時代の政治家に、金子堅太郎(一八五三〜一九四二)という入がいた。アメリカのハーバード大学法科を卒業し、日本の初代内閣総理大臣伊藤傅文のもとで、明治憲法の起草にあたった。その功績もあって、のちに伯爵になっている。
 「これは父から聞いた話ですが、その金子伯が八十歳になったとき、旧知の間柄で、アメリカ連邦最高裁判事だったO・W・ホームズ博士から手紙が来たそうです」と東京・目黒の城南病院長、石塚忠雄さん(七十三歳)。
 金子が八十歳になったのは一九三三(紹和八)年。十二歳年長のホームズは、驚くべきことにその前年、つまり九十一歳まで三十年間最高裁判事を務めていた。
 「君も八十歳になったそうだな。では、そろそろ、老人としての心掛けを教えてあげよう」手紙はそう書き始められ、次のように続いていた。「それは、他人の葬式にはいっさい行かない、ということだ」 

 「金子伯は大笑いしたそうですが、このホームズ博士の心掛けは医学的にも理にかなっています」年を取ると、友人、知人がだんだん世を去っていく。すると、次は自分の番かと、そのたびに気持が暗くなる。「そんな気持で葬式にばかり付き合っていては、ほんとうに順番が来てしまいます。それより、葬式には失礼して、自分はまだ若いんだ、と明るく楽しく振る舞えば長生きできるのですよ」
 金子は八十九歳、ホームズは九十四歳の、当時としてはうらやまれるような天寿を全うした。

全部ヒットさせようというのはだめだ舟木一夫
週刊朝日2002.8.16−23P58マリコのここまで聞いていいかな
舟木一夫

(前略)

林 そうだったんですか。7年ぐらい前、私がホテル・ニューオータニの中を歩いてたら、舟木さんがお茶を飲んでらしたんです。「ワッ、舟木一夫よ!」って、ガラスに手を押し当ててのぞいたら、「寒い時代」を過ごしてきたとは思えないぐらい颯爽としていて、男盛りの魅力にあふれていて、あの写真週刊誌の印象とはあまリにも違っていたので、びっくりしました。
舟木 その時期というのは、自分がどの方向に行けばいいのか、ピントが完全に合っていて、この1点に向かってレースを始めて1、2年という時期だったと思います。ただ、本人3分の1、スタッフ3分の1、お客さん3分の1、この三つのバランスがとれてないと、汽車は走らない。どれが負けても、形は崩れていきますよね。スタート時点では、スタッフのパワーで半歩行くか、本人がいきなり行くか、という話があるわけですね。そのバランスがとれれば、あとはすっと行くんです。
林 お話を聞いてると、経営論を聞いてるみたいな感じで、すごいですよね。ちゃんと自分も時代もわかっていらっしゃって。
舟木 下積みがないというのが僕のいちばんのウィークポイントなんだけど、そのぶん、「寒い時代」があった。おかげで、山のてっぺんにばかりいてはわからない景色や風、谷底ばかりにいてはわからない景色や風、僕はその両方と出合うことができたから、頂点に立っているときの怖さと、谷底にいるときの怖さの違いがわかるんです。
林 でも、芸能界って、谷底に落ちたきり這い上がれない人って、いっぱいいるわけですよね。

舟木 たとえば、100のところにいた人が、うまくいかなくなって70のところに移ったときに、90の場所はないかと探すよりは、なぜ100が70になったのかを考えていたほうが、時間をおいて90のところが見つかる気がするんです。そのとき一喜一憂して動いてしまうと、芳しい答えが出てこないことが多いような気がしますけどね。
林 そういうものですか。
舟木 春夏秋冬どの季節に咲いてもきれいな花ってないと恩う。僕らの仕事も同じで、流行歌手の場合、年じゅう人の目に触れていたい、出す歌、出す歌、全部ヒットさせようというのはダメだと思うんですね。
林 私たちの仕事と同じですね。出す本、出す本、みんな売れてほしいと思いますけど、そんなにうまくいくわけなくて、それで落ち込んだりしちゃうんです。

(後略)

石原慎太郎回顧録講演旅行
2000.4月号文藝春秋P354、わが人生の時の人々
第二回講演旅行、文士たちの生態
(前略)そうはいいながら当の高見さんも文化出前の講演なるものが結構好きで、浜田市から次の講演地の出雲市に移動の途中、乗っていた汽車に沿線のどこかの高等学校の熱心な校長が乗りこんできて、講演の予定を調べて来たが厚意が頂ければ可能なので、滅多にない機会故どうか途中で下車しうちの高校に来て生徒たちに講演してもらえまいか、彼等にとっても一生の思い出になりますからという。
口を挟む筋でもないので黙って聞いていたら、高見さんが私に、
「どうだい、校長先生がわざわざここまで来ていってるんだから君と僕が代表して行ってあげようじゃないか」
 いうものだから次の停車駅で二人して下車し、学校が差し向けていた車に乗せられ出かけていった。途中高見さんが私を同伴させたいい訳でか、
「僕は講演てのが割りに好きなんだよ。文士の講演なんて、なに高座の落語家の話みたいなもんだよな。僕もいささか得意な持ち話がいくつかあってね、時と場合で中から話を選んでするんだよ。君もこれからいろいろ声がかかるだろうから、どこでもいつでも出来る話を用意しておいた方がいいぞ」
 という御託宣で、私も興味で、
「これからいく高校みたいなところではどんな話をするんです」
聞いてみたら、即座に、
「今日みたいな時は、ま、お米の中の石だな」
「それはどんな話なんです」
「後で聞けばわかるが、英語の話、日本人の使う変な英語の話なんだよ」
 なにやら気をもたせながら、いかにも自信ありげだった。
 到着した高校の講堂にはすでに全校生徒が集められていて、当時の、しかも地方故にいかにも行儀のいい生徒たちの前で講演したものだが、高見さんの話は相手に合わせたいかにも手慣れたもので、生徒たちが一度爆笑したら話し手もすっかり乗ってしまいいろいろ面白い挿話を加えての大サービスだった。
「お米の中の石」なる外題の由来は、ある時ある人が外国人と一緒に食事をしていたら、出された皿のライス、お米の中に小さな石が入っていてうっかりそれを噛んでしまい、慌てて口を押さえた彼を見て相手がどうしたのだと尋ねたら、件の人が、
「ゼア・ワズ・ア・ストーン・イン・ザ・ライス」と答え、相手が驚いて身を乗り出して皿を覗きこんだという。
 外国人からすればストーンとは掌に乗せるような、ぶつければ相手が怪我もしかねない大きさの石というイメージであって、そんな石が入っていたとなれば仰天するのは当たり前。そういう際は石でもサンドと言わなくてはならない、安直な翻訳の危うさについての一種のコントである。
 直訳の滑稽さのコントとしては、ある大学の先生が外国の学者を招いて話の後隣室にしつらえた食事に促しながら、日本人としての常套文句での、「何もありませんが、まあ、隣の部屋でお食べ下さい」を、
「ゼア・イズ・ナッシング・バット・プリーズ・イート・ネキスト・ルーム」とやり、促された外国の客は、何も無い隣の部屋を食べろといわれて目を白黒させたという。学生たちは抱腹絶倒で、大受けに受けた高見さんは得意満面、上機鎌だった。日頃、俺は浅草のエンコだといっていた高見さんとしては、大道での香具師もどきの芸で田舎の高校生たちを魅了し満足極まりないところだったろう。

ピグマリオン効果ほめ上手
2000.10.13週刊朝日P22金メダル高橋尚子に学ぶほめ上手の極意
社員教育にも有効
小出マジック
一目ですぐ長所を指摘がステップ1

ほめて、やる気を出させるという埋論がある。ギリシャ神話で人形を人間だと言い続けて本当に人間にしたといわれているピグマリオンの話から「ピグマリオン効果」と呼ばれているセールスマンの教育理論だ。

凡人教育の基本 ほめる前に叱る
日本進出した約三十年前から「ピグマリオン効果」を導入しているという米化粧品会社エイボン・プロダクツ(東京都新宿区)は、全国に約八十万人いる女性販売員の管理にこの理論を使っている。掘井紀壬子営業本部長はこういう。
「まずほめる。次に改善点を指摘するといった原則です。社員向けの教科書までつくって教育しています。この成果かどうかわかりませんが、ほめ上手で相手をいい気持ちにさせる人がいい成績を残しています」
ほめれば万能の力が出るというわけだが、小出監督と高橋選手のような関係は、女子マラソンだからこそ築けたと言うのは、ソウルとバルセロナ五輪のマラソンに出た中山竹通・大阪産業大陸上部監督(40)だ。
「女子選手は気持ちの波の振幅が大きいので、一定に保つお父さん的な存在が必要だ。でも、男子選手だと自立心が強いので、ほめるばかりではだめだ。最近の若い男子選手は、思い切ったレースができないし、悔しさも表に出さない。こんな選手には、ときには叱ることが必要です」
純枠な女子マラソン界とは違い、老若男女入り交じる一般社会では、「ほめる」と「叱る」は使い分けが必要なようだ。二十五万部を売った「上司が『鬼』とならねば、部下は動かず」(プレジデシト社)の著者で人材育成会社「アイウィル」の染谷和巳社長(58)はこう話す。
「天才的な能力がある人には、ほめ続けで伸ばす方法は、たしかに効果がある。だが、一般の会社の人材育成の基本は凡人、凡才教育。平均以土が最低目標になる。それには厳しさが必要。叱ることが第一にできなければいけない。部下が基本的能力を身に着けて信頼できるようになつたら、どんどんほめればいい。叱ることとほめることは人材育成という車の両輪なのです」
  
二人は監督と選手との新しい新しい関係だ  ヱスビー食品陸上競技部監督 瀬古利彦 
早大時代から一九八四年のロス五輪までの八年間、寝食をともにした故中村清監督は厳しかったが、殴られたことなんで一度もない。実は「ほめ上手」だった。
大学入学直前の初対面のときに、中村監督が、「面魂がいい。信じてついてくれば世界一にさせる」と言ってくれてから、ずっと「中村教」に入っていった。
ほめ方は間接的で、記者を通して「瀬古はよくやっている」と話していた。ある結婚式のスピーチでは四十分間もしゃべって、このうち三十五分間は私の自慢話だったそうだ。こうした話が伝わってきて、本当にうれしかった。
ただ、「ほめすぎると甘いジュ−スの風呂に入っているようなもので、じわじわと油断がしみ入ってくる」とも言っていた。
でも愛情は大きすぎた。八一年のボストンマラソンで優勝したときに、両親と表彰台にのぼったのが気に入らなくて、「おまえの親はおれだ」と一年くらいは怒っていたほどだ。
小出監督のほめ方もうまい。選手の心と体調を理解し,気持ちをぎゅっとつかむ。高橋選手は、自分の心をわかってくれる小出監督のことを全面的に信じている。ここまでできるのは、自分で小出監督の門をたたいたから。スカウトされて「来てやった」と思っていたらできない。私と中村監督のときといちばん違うのは、楽しそうにやっていること。私はいつも中村監督の視線が気になっていたが、二人は監督と選手の新しい関係だ。

 院長の同級生森山啓司東京医科歯科大矯正歯科教授がワーキンググループの代表として招致を進めてきた第9回国際矯正歯科会議2020(The 9th International Orthpdonntic Congress 2020)の横浜開催が決定したそうです。
 今回立候補したのは、リオデジャネイロ、ローマ、北京、ソウル、ヨルダン、アブダビ、横浜の7都市で、WFO(
World Federation of Orthodontists)常務理事会の投票で、第1回目に横浜に決定したそうです。
 アジアでは初開催だそうです。5年に1度の開催だそうです。
 2020年10月4日(日)〜10月8日(木)にパシフィコ横浜に世界90ヶ国から7000人の矯正歯科医がやってきます。
 今回お世話になった関係各位の方がもし見られていれば、この場を借りて心からお礼申し上げます。ありがとうございました。

世界が曲解した進化論の意味 山口昌男札幌大学学長
2002.11.29週刊朝日P116
 (9・11がアメリカ周辺の無数の人々の不満と鬱屈が、おぞましいテロという形で露呈したのではないか。)
 私は近代の世界がダーウィンの進化論の意味を曲解したのだと思います。「生物は、その生活環境に適合したものが生き延びてきた」ぐらいの意味しかないのに、人間と世界は常に進化し、進化はすべてよいことだとひとくくりにしました。その先頭をアメリカが走っているのです。

 日本歯科評論(業界誌)2012.4月号にダブルライセンスの特集が組まれていました。我々の業界でダブルライセンスと言えば医師と歯科医師の両方の免許を持っている人のことです。ダブルライセンス連絡会が把握しているだけで、68人いるそうです。歯科医師は10万人いると言われていますので、かなり希少価値の存在です。
 1番目に紹介されていた清水正嗣大分大学名誉教授は九州お茶の水会で何度もお世話になっています。東京医科歯科大学歯学部の講師から東京医科歯科大学医学部3年に編入学されたそうです。大分大学医学部の歯科口腔外科の教授を務められました。
 4番目に紹介されていた千葉大学医学部歯科口腔外科の丹沢秀樹教授は院長の同級生です。千葉大医学部を卒業してから、東京医科歯科大学歯学部3年生に編入学してきました。医師免許はすでに取得済みなので、朝会うと「夜勤明け」とよく言われていました。当直のアルバイトをされていたようです。院長の同級生でダブルライセンスは丹沢先生1人だけと思われます。
 最後に紹介されていた筑波大学医学部歯科口腔外科柳川徹准教授は院長の1年後輩です。柳川先生は東京医科歯科大学歯学部を卒業後、筑波大医学部に入り直したそうです。この学年は3人のダブルライセンスを生み出しています。
 歯学→医学が89.6%、医学→歯学が10.4%だそうです。
 ダブルライセンスを持った現在、何をやっているかで、歯科にかかわっている人が17.9%だそうです。

1993.10月号文藝春秋P79
回虫の卵とじ  藤田紘一郎(東京医科歯科大学教授)
 ついこの前、一カ月間にわたるインドネシア旅行から掃ってきた。インドネシア在留邦人の健康管理の仕事という名目になっているが、実はインドネシアが大好きで、毎年夏休みに行くことにしているのだ。今年で二十三年間も通いつづけたことになる。
現地での話。
 「先生。先生がとっても喜ぶ土産がありますよ」とさる大手ゼネコンの工場長が私の前に現われた。彼はもう十三年もインドネシアに住みついていて、バリ島の「バリ・ハイヤット」をはじめ、立派なホテルを次々と建てている。
 私は内心、何故この人にあんな素敵なホテルが建てられるのか不思議に思っているのだが、それはさておき、茶目っ気があり人をかつぐことの上手な彼のことだから、と警戒しながら「土産」を受け取ってみると、茶碗(インドネシア語でMANKOと言う)の中に新鮮な生卵がプルンと入っている。そして卵黄の蔭には一匹の回虫の美しい姿が。
 「本当だ。この土産は素晴らしい!」
思わずそう清潔でもない工事長を抱きかかえて喜んだ。
 インドネシアでは生卵は危ない。色々なウイルスや細菌が混入していて、食べると全身に化膿性のオデキが出たりする。それで私は在留邦人に「生卵は食べないようにして下さい」と口を酸っぱくして言っている。
 しかし、この工事長は性格が素直でない。いつも私とは反対の意見を言って困らせている。「私の十三年間の経験から言うと、インドネシアでは何よりも精力を保つことが必要である」と言いながら、毎朝、寮の若いゼネコン職員を前に生卵を割って食べて見せていたのだ。
 ところがある日、食卓で生卵を茶碗に割り込んだ途端に回虫が飛び出してきた。さすがの工事長も股を抜かし、若い職員も逃げ去る始末で、それ以来絶対に卵を食べなくなったのだ。
 勿論、この回虫は鶏の回虫であって、ヒトの回虫より小さい。体長五センチくらいで鶏を解剖すれはいくらでも採れる。しかし、生卵の中に発見することは極めて珍しい。鶏は腸管と輪卵管が終点で一緒になって総排泄腔となっているのだから、腸管内の回虫が輸卵管を誤ってさかのばることがあるのだろう。
 一方、上から卵白に包まれた卵黄が下りてきて、やがて卵殻が出来てすっぽり卵白を包む時、ボヤーッとしていた回虫が一緒に包み込まれたものか。これが本当の卵とじである。ドジョウの卵とじなら食べたことはあるが、「回虫の卵とじ」はめったにない珍味であろう。
 ところで、私がインドネシアに行く最大の目的は、できるだけ多くの人の、できるだけ多量の「ウンコ」を集めることである。日本では純対見ることのできない色々な種類の寄生虫の卵や原虫類が沢山ふくまれているからである。例えば、回虫はインドネシア在留邦人の七人に一人の割合で感染している。その他、鞭(べん)虫や鉤(こう)虫、アメーバ赤痢やランブル鞭毛虫などの寄生虫や原虫がたくさんの日本人の糞便から見つかっている。
 今回、ジャカルタでちょっとした事故が起こった。商社員の若奥さんがトイレで気を失って倒れたという。現場に行ってみると、若奥さんは右手にしっかりと回虫を握ったまま倒れているてはないか。
 私は彼女に回虫の駆虫剤を手渡したばかりでよく知っている人だった。聞いてみると、駆虫剤が効いたのだという。回虫が肛門におりてきてむずがゆいのでトイレで坐り、肛門から頭を出したのを無意識に引っ張りだしたところ、出るわ出るわ、つかみ出した長さ三十センチの回虫を見て、気を失ったのであった。
 この回虫、若い日本人にはほとんど馴染みがないだろうが、最近、日本でもちょいちょい見られるようになってきた。田舎ばかりでなく、東京のど真ん中でも見られるのだ。
 どうも化学肥料を使わない有機農業の拡大と関係があるらしい。「新鮮な下肥(しもごえ)」が、肥料としてどのくらい国内で使われているのか調べてみた。その結果、加熱など全く加工していない「新鮮ホヤホヤの下肥」が各地で急に使われはじめていることが分かった。いわゆる自然食ブームのお蔭である。
 「先生、サルのクシャミって見たことありますか」
 こんな電話が春先、ポヤーッとしている私のところにかかってきた。京大霊長類研究所の中村先生からである。「人間と同じように真っ赤な顔をして、とても苦しそうですよ」中村先生はサルの花粉症を長い間研究している。今は私と共同でアレルギー疾患のメカニズムについて実験を開始しているのてある。何故、最近日本で花粉症やアトピー性皮膚炎の患者が急増したのだろうか。同じ日本人でもインドネシア在留邦人にはアレルギーで苦しんでいる人は少ない。
 私は寄生虫が日本国内から消減したことが、その最大の原因だと考えている。寄生虫はヒトの体内でアレルギー反応の基であるIgE抗体を多量に産生する。寄生虫にかかった人は、たとえスギ花粉やダニがやってきても、もはやそれらに対するIgE抗体を産生する余裕がなくなってしまうのだ。中村先生はサルとヒトとの寄生虫感染と花粉症の患者数を経年的に比較検討して、私の考えの正しさを見事証明して下さった。つまり、サルの寄生虫感染率は三十年前も今も常に八〇パーセントである。一方、ヒトでは三十年前に比べて、花粉症は十倍に増加し、逆に寄生虫感染率は七〇パーセントから二パーセントにまで低下しているのだ。
 「ヒトに害を与えないような寄生虫がもっと日本国内に増えてくれないものか。そうすればアレルギ−患者もやがて減るだろうし、第一、今日本各地で医科大学の寄生虫学教室がつぶされているが、そういうこともなくなる。私も安心して寄生虫の研究が続けられるのだが」と、そんな不謹慎な独り言を、私は最近言うようになってきている。

人生は歯のよう 石川烈先生
読むクスリ、週刊文春.2001.10.25.P88

人生は歯のよう

人生は歯のようなもの
充実した日々を過ごせるのを人は当たり前と思っている
毎日なんでも噛めるのを人は当たり前と思っている
けれど、あるとき突然、歯も壊れ始める
人生も同じ。難しいことに出くわす
このときになってその大切さに気づく
そして、あわてて救おうと試みる
元通りにすることの難しさに、ため息を吐く
抜かずにすますには苦労の連続
まるで人生のように
ボリス・ヴィアン
石川烈訳
 「私は二十代でスイスのジュネーブにいたころ、このシャンソンをよく聴きました」
と東京医科歯科大学大学院教授(歯周病学分野)の石川烈さん(六十歳)。
 日本で大学を卒業してジュネーブ大学に四年間留学したのだが、そこで美しいフランス人女性と知り合って結婚した。いまのドミニク夫人だ。
 「彼女は家族とスイスに住んでいましてね、一家そろってシャンソンが好きでした。それで私も聴かされたのですが、その中にこのボリス・ヴィアン作詞の『人生は歯のようなもの』もあったのです」
 作曲はジャン・ジャック・ロベール。歌っているのはセルジュ・レジアー二だった。
 作詞したボリス・ヴィアン(一九二○〜一九五九)は、フランスの小説家、詩人で、ジャズ評論家、トランペット奏者などいくつもの顔を持つ人でもあった。
 その詩はどこかシニカルだが、若くして没した後も若者たちの間に根強い人気を保ち続けている。

 帰国して教授になったころ、石川さんにある出版社から、歯科の案内書のような一般向けの本を執筆してほしい、という依頼があった。
 歯科の本というと、見るだけで歯が痛くなってくるようなのが多いのだが、なんとか読みやすいものにできないか、と考えているうち、「あのシャンソンを入れたら、楽しい本になるんじゃないかしら」とドミニク夫人が助け舟を出してくれた。「それで、そうだ、『人生は歯のようなもの』というテーマでいこう、と決めたんです」歌詞を引用しながら、イラストもふんだんに入れた、型破りできれいな本ができた。
 「そのときに、勝手に歌詞を使ってもいけないと思い、フランスの著作権協会に手紙を出して許可を求めたんです」
 すぐ返事が来て、五万円で日本における『人生は歯のようなもの』の版権を石川さんに譲る、という。
 「ですから、この詩の日本での版権は私が持っているのですよ」

  さて、人生は歯のようなもの、とは具体的にどういうことだろう。
 詩には飛躍があって、さらっ、と読んだだけではわかりにくいのだが、
 「要するに、歯を軽く見ていると、最後には抜かなけれぱならなくなる。人生もそれと同じで、甘く見ると死ななければ追いつかないようなことになる、というのです。相当にシニカルですね」
 石川先生のご覧になるところ、日本人は歯を軽視しがちだという。
 歯肉炎なのに、自覚症状がないのをいいことに、大したことはないだろう、と放っておく。ところがその間に症状は悪化していき、やがて歯肉からウミが出てくる。
 「そこであわてて歯科へ行きますが、もう歯槽膿漏で、歯を失う結果になることが多いのです」
 たしかに人生も、浮かれて暮らしているうちに思わぬ大事が出現し、しまった、と思ったときにはもう遅い、ということが少なくない。

歯は人生のよう

 ポリス・ヴィアンは詩人だから『人生は歯のようなもの』とうたったが、
「私の立場からは『歯は人生のようなもの』といいたいですね」
 歯はその人の履歴書、と教授はおっしゃる。
 歯を見れば、その人が子供のころ歯並びや磨き方について親からどんな気配り、注意をうけてきたかがわかる。
 つまり、親の愛情は子供の歯にも表れるのだ。
 「もちろん、その後の本人の生活習慣や態度も、歯に出てきます」
 二十代、三十代までは、丹念に磨かなくてもそんなに歯は悪くならない。
 「しかし、四十代、五十代になりますと、手入れを怠っているとぐっと悪くなってきます」
 その意味では歯は、履歴書であると同時に、将来の人生の設計図だともいえる。
 「年に一、二回歯科医院へ行って、きちんと手人れしてもらって下さい。そうすれば、六十代以降に失くなる歯を、うんと減らすことができるのです」

 「八○二○運動」というのを、厚生労働省が展開している。八十歳で健康な歯を二十本保ちましょう、というものだ。
 この八○二○を提唱したのが石川教授だった。「これは平成元年のデータですが、日本人の歯は平均して六十歳で十六本、七十歳で八本、八十歳になると四本しか残っていませんでした」
 その前後に八○二○運動が始まり、
「今では多少よくなり、八○○六くらいになっています」
 しかしアメリカでは八○一五前後だというから、日本ではまだまだ改善の余地がある。「総入れ歯になると、咀嚼力は六分の一に低下します。食べ物がよく噛めないと、胃腸が栄養を吸収しにくくなってしまいます」
 よく噛むとそれだけ脳への刺激が多くなって、ボケ防止に効果があるとされるのだが、咀嚼力が弱くてはそれも望めない。
 また、入れ歯では高音や細かい音の発声がきれいにできなくなる。
 歩行などには関係ないように思うが、歯のない人はあまり行動しなくなる、というデータもあるそうだ。
 「日本は世界一の長寿国だといいますが、寝たきり率も高いんです。最後まで活発にやっていたいじゃありませんか。そのためには、いい歯を保つことも大事だ、ということを忘れないで下さい」
 お話を聞いているうち、歯は人生そのもの、という気持がしてきた。

 京大医学部の最先端授業!「合理的思考」の教科書・すばる舎・¥1400+税という本を読みました。筆者の中山健夫京大医学部教授は院長の一年後輩医学部でした。院長が教養2年の時、中山教授が教養1年で1年間自治会の仕事を一緒にやった覚えがあります。日本歯科医師会雑誌だったと思いますが、対談に中山教授の顔が出てきて懐かしく思い、何をやっているのだろうと経歴を見たら、京大医学部教授になっていました。日経新聞の下の方に、本の宣伝が大きく出ていましたので、今回購入してみました。

 本の帯には、「イメージや思い込みで物事を判断していませんか?」「文系人間必読の書」とあります。

 本書を読んでまず驚いたのが、ギリシャの公務員は多いか?という議論で労働力人口の内、公務員の占める割合のOECD26カ国の平均が14.4%、ギリシャは14.1%で決して多い訳ではないということがわかったのですが、小さい政府のはずのアメリカが14.1%もあるのに、日本は5.3%で断トツの最下位だという事実です。(2005・6年OECD雇用比較調査)野田総理公務員減らして本当に大丈夫ですか?比較の基準の再確認が必要ですが、追跡調査して行こうと思います。

 1850年代のロンドンでコレラ菌が発見される以前に、強烈な下痢を伴う原因不明の病気に公衆衛生医ジョン・スノーが患者さんが発生した場所を地図にプロットし、ブロードストリート周辺に患者が多いことを発見し、その周辺の井戸を使用禁止にし、患者さんを劇的に減らした話と日本の薬害エイズの話を例に挙げ、「100%の原因解明にこだわり過ぎることが、対策を遅らせ、結果として多くの人の生命を奪うことがある。」というあたりこだわり過ぎないという中山教授のバランス感覚を感じました。

 エビデンス(証拠)のあることだけでなく、ヒューリスティック(経験や勘)もときどき間違えることを覚悟して使うことを認める態度も好感を持ちました。

メラビアンの法則

 米国の心理学者アルバート・メラビアンによると人が他人から受け取る情報の割合のうち、「話す言葉」の内容はわずか7%、「服装や身だしなみ」が55%、「声の調子」が38%。なんと93%が外的要因の影響を受けるそうです。

 大山喬史東京医科歯科大学学長はラグビー部の創始者です。その他にラグビー部出身の現役の歯学部の教授を挙げると

 佐野晴男 昭和大学歯学部総合歯科教授

 嶋田昌彦 東京医科歯科大学歯学部附属病院長ペインクリニック教授

 泰羅雅登 東京医科歯科大学歯学部認知神経生物学教授

 深山治久 東京医科歯科大学歯学部歯科麻酔教授

 松井義郎 香川大学医学部歯科口腔外科教授

 飯島毅彦 昭和大学歯学部歯科麻酔教授

 馬場一美 昭和大学歯学部歯科補綴教授

 森山啓司 東京医科歯科大学歯学部歯科矯正教授 などがおられます。

 学長、病院長以外に先輩の教授が3人もいて、現役部員たちは幸せだなと思います。頼もしいでしょう。

 馬場教授、森山教授は院長の同級生です。馬場教授がキャプテンでした。院長の結婚式では森山教授が友人代表のスピーチをやってくれました。森山教授は現在、5年に一回開かれる世界矯正歯科学会の2020年の開催を日本に招致するワーキンググループの代表をやっています。6月に開催場所が決定するのですが、「競合する、中国、韓国には絶対負けたくない」と言っていました。どこに決まってもアジア初開催になるそうです。もし日本に決まればパシフィコ横浜に世界90カ国から7000人が集うそうです。経済効果も大きいでしょう。森山教授の努力が実るようドキドキしながら見守っています。

 偉くなったもんだなと思うのはこちらだけのようで、本人はそんな素振りはまったく見せません。

南洲翁遺訓30
 「命(いの)ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は仕抹(しまつ)に困るもの也。此(こ)の仕抹に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

 歯学部の出身は大体同業者が多いのですが、他の学部でがんばっておられる方もいます。思いつくだけで、

一條秀憲 東京大学薬学部細胞情報学教授

大隅典子 東北大学医学部形態形成解析分野教授 

現在は昭和大学歯学部歯科麻酔学の教授の飯島毅彦先生は杏林大学医学部麻酔科の准教授でしたし、  

泰羅雅登 東京医科歯科大学歯学部口腔生理学教授が最初に教授になったのは、日本大学医学部応用システム神経科学でした。

 一條先生、大隅先生は院長の一年先輩、飯島先生、泰羅先生はラグビー部の先輩です。

 泰羅先生は脳科学者として有名で、川島隆太先生と「記憶がなくなるまで飲んでも、なぜ家にたどり着けるのか?」(ダイヤモンド社)という本を出されていますし、他著書多数です。キムタク主演の「ミスターブレイン」というドラマの監修者としてテレビに出て来たときには驚きました.

 皆さんの益々の活躍をお祈りしています。

2002.4.19週刊朝日P57林真理子対談江原啓之
 「波長の法則」というのがあるんですが、簡単に言うと、類は友を呼ぶという法則なんですね。「私のまわりにはロクな人がいない」って文句を言っている人は、「私はロクでもない人間です」と言ってるのと同じです。

平安貴族はなぜ額に眉を描いたか
2001.3.8.週刊文春P86
額に描た眉
 平安時代に描かれた公家や、身分の高い女性の顔を見ると、眉がずいぶん上のほうについている。
 「眉毛を剃るのではなく、毛抜きで抜いてしまい、額に墨で眉を描き入れました。さぞ痛かったでしょうね」
とポーラ文化研究所の主席研究員で部長の村澤博人さん(五十三歳)。
 なぜ痛い思いまでして眉を上のほうに描いたのだろう。
 「それは、本物の眉は感情を表に出してしまうからです。額に描いた眉なら、感情につれて動くようなことがありません」
 眉をひそめる、眉を吊り上げる、眉を曇らせる、愁眉(しゅうび)を開く、など眉の動きで感情を示す表現はたくさんある。
 目や口だけでなく、眉にも感情を表に出す機能があるのだ。
 「目、口、眉の周りには、表情筋と呼ばれる筋肉があって、この筋肉のわずかな動きで感情の起伏が顔に出るのです」
 額には表情筋がない。だから、額に墨で描いて移してしまえば、眉から表情を読み取られることはなくなる。
 では、平安時代の貴人たちはなぜ、眉に出る心の動きを隠そうとしたのだろう。
 「日本人の伝統的な美意識のせいだ、と私は考えています」古くから教養のある人たちの間では感情をありのままにさらけ出すのははしたないこと、と考えられてきた。
 それを抑制し、隠すことにこそ美がある。
 「いわば”顔隠し”の文化が日本にはあるんです。眉の化粧もその一つではないでしょうか」
 平安の貴人たちは同時に、顔に白粉(おしろい)を塗り、歯を黒く染める化粧をしていた。
 このお化粧の”三点セット”で高貴の身分を示そうとしたのだが、とりわけ高いところに移された眉で、高貴な楕神を誇示しようとしたのだといえそうだ。

「歴史の中の米と肉」、原田信男、平凡社選書147、1993、P70

 『日本書紀』天武天皇四年(六七五)四月一七日条には、肉食を禁じた法令が記載されており、以来わが国では長い間、人々は肉食を遠ざけてきた、と考えられている。これについては、一般には仏教を国家の宗教としたため、とされているが、事情はさほど単純ではない。まず、この肉食禁止令から検討してみよう。
  諸国に詔して曰はく、「今より以後、諸(もろもろ)の漁猟者(すなどりかりするもの)を制して、檻穽(おとしあ

  な)を造り、機槍(ふみはなち)の等き類を施くこと莫。亦四月の朔より以後、九月三十日より以前に、比弥

  沙伎理(ひみさきり)・梁を置くこと莫。且、牛・馬・犬・猿・鶏の宍を食ふこと莫。以外は禁の例に在らず。若

  し犯すこと有らば罪せむ」とのたまふ。

 この法令では、禁忌の期間と対象とした動物に、それぞれ限定が付せられている、という点に注目する必要がある。確かに全体として、狩猟・漁撈一般を禁ずる内容となってはいるが、肉食が禁じられたのは、農耕用の牛馬と家畜である犬と鶏、それに人間に最も近い動物である猿の五畜であった。当時における最も主要な狩猟獣であった鹿と猪とが、ここから除外されたことが重要である。これでは実質的に肉食を禁じたことにはならず、この法令の真の目的が肉食の禁止にあった、と考えることはできなくなる。この問題を解く鍵は、四月から九月という禁止期間にあり、この時期が稲作を中心とする農耕期間に当たることの意味を問うべきであろう。

お問合せ・ご相談はこちら

受付時間
月・金 9:00~13:00/15:00~19:00
火・水・土 9:00~12:30/14:00~18:00
定休日
木曜、日曜・祝祭日

ご不明点などございましたら、お電話もしくはお問合せフォームよりお気軽にご相談ください。

お電話でのお問合せはこちら

096-337-0088
対応エリア
患者さんは、熊本市内だけでなく、菊池市、菊陽町、大津町、阿蘇郡、益城町、植木町、光の森、武蔵ヶ丘、兎谷、岩倉、新地、楡木、龍田からもいらしています。

お気軽に
お問合せください

当院は予約制になっております。必ず電話または他の方法で診療時間の確認、予約の上でお出かけ下さい。

お電話でのお問合せ・ご予約

096-337-0088

<診療日・診療時間>
月・金
9:00~13:00/15:00~19:00
火・水・土
9:00~12:30/14:00~18:00
※木曜、日曜・祝祭日は除く

祭日のある週は祭日優先、木曜日も診療します。木曜日の診療時間は祭日のある曜日に合わせています。金曜日の12:00~13:00は往診に出かけている場合が多いです。

菊川歯科

住所

〒861-8003
熊本市北区楠4-3-18

診療日・診療時間

月・金
9:00~13:00/15:00~19:00
火・水・土
9:00~12:30/14:00~18:00

祭日のある週は祭日優先、木曜日も診療します。
木曜日の診療時間は祭日のある曜日に合わせています。
金曜日の12:00~13:00は往診に出かけている場合が多いです。

定休日

木曜、日曜・祝祭日

患者さんの声

患者さんからいただいたお手紙をご紹介いたします。

まゆさんからの色紙
まなみさんからの絵手紙
治療のたびに
漢詩をくださる賀数さま

来院地域

患者さんは、熊本市内だけでなく、菊池市、菊陽町、大津町、阿蘇郡、益城町、植木町、光の森、武蔵ヶ丘、兎谷、岩倉、新地、楡木、龍田からもいらしています。