体と心の5億年(5)日本歯科医師会雑誌Vol73No.5 2020-8P2布施英利
ロンドンの大英自然史博物館に、チャールズ・ダーウィンの肖像彫刻がある。
この博物館の入口から入ると、キリンの剥製とキリンの骨格が並べて展示された吹き抜けの広いロビーに出る。正面に二階に続く大きな階段があり、その階段を見上げると、そこに君臨といった趣でダーウィンの彫刻が見える。
自然史博物館には、たくさんの動物の剥製や骨格が展示されている。両生類ばかりを集めたコーナー。爬虫類だけを集めたコーナー。哺乳類だけのコーナーには、馬とヒトの骨格を並べ、それを比べながら見られるようになっている。かつて生命は海で誕生し、それが骨格を持った魚へと進化し、やがてその一部が陸へと生活を移す両生類になり、そして水のある環境から離れ、殻のある卵(それは切り離された「海」だ!)を生む爬虫類、そして哺乳類へと進化した。
私は、書斎でいろいろな生き物を飼っている。魚の水槽、カエル(=両生類)の水槽、トカゲ(=爬虫類)のケース、デグーというネズミ(=哺乳類)のケースがあり、それらを並べて「ダーウィン曼陀羅」と勝手に命名し生き物を日々眺めている。
先日は、カエルが卵を産み、それがオタマジャクシになって、カエルへと成長した。このオタマジャクシからカエルへの「上陸」の過程は何度見ても感動的だ。なにしろ、オタマジャクシは水中で鰓呼吸をし、上陸したカエルは肺呼吸する。体が、内臓がまったく別のものになるのだ。オタマジャクシは、まず後ろ足が生える。この時は、まだ水中生活だ。しかし前足が生えたほぼその時から、肺呼吸をする。この時、陸を用意しておいてあげないと、オタマジャクシは溺れて死んでしまう。そして上陸した後の5日間ほど、全く餌を食べない。この間に、内臓を、体の仕組みを作り変えるのだ。上陸した幼いカエルは、数日も飲まず食わずでどうやって生き延びるのか?それまであった尻尾が徐々に消えていくが、それが生きる栄養になる。いわば自分で「自分の体を食べて」生き延びるのだ。
話を、ロンドンの大英自然史博物館に戻そう。この博物館には、そんな両生類の展示や様々な生物の多様な世界が、実物で展示されている。こういう自然の世界の多様性、豊かさ、そしてそこを貫いている法則を明らかにした偉人として、イギリス人であるチャールズ・ダーウィンを讃え、崇めている証しとして、この博物館の中心にダーウィンの肖像彫刻が置かれている。
『種の起源』(1859年)は、そのチャールズ・ダーウィンの記念碑的著作だ。ダーウィンは若い頃、『ビーグル号航海記』に書いた旅で地球の大自然を目の当たりにし、生物への知見を深めた。この星には、なぜかくも多様な生物がいるのか。その理由を「生存競争」と「自然淘汰」であると説明し、そこから「進化」という見方を導き出したのが、この『種の起源』だ。
ダーウィンは「生物は個別に想像されたとする説ではまったく理解できないいくつもの事実がある」と書く(渡辺政隆訳『種の起源』.以下の引用も同書)。そして「個々の種は個別に想像された訳ではなく、変種と同じように、別の種から由来したものだとの結論に至った」という。この『種の起源』は、そういう自然淘汰の仕組みを、地道に淡々と検証していく本である。
ともあれ、そのような検証によって「進化」という見方が浮き彫りになっていく。生命は海で誕生し、背骨を持った魚に進化し、両生類・爬虫類へと進化し、やがて哺乳類からヒトが誕生した。そういった「進化論」の宣言だ。
ところで、私の連載のテーマは「体と心の関係」である。前述したダーウィンの進化論では、体の進化についての説明なのではないか、心の話はどうなった?と思われるかもしれない。しかし『種の起源』には、あまり知られていないが、心の進化についても書かれている。ダーウィンは、そこでは「本能」という言葉を使う。
「身体構造の変化は、使用されること、すなわち習性によって生じて増大し、使用されなくなることで縮小したり消失したりする。本能の場合も同じである」
そしてこうも書く。
「『自然は飛躍せず』という自然史学の格言は、身体構造のみならず本能にも適用可能である」と。
ダーウィンは、残されたノート(=「Mノート」)の中で、この「ヒトの心への進化」について、さらに踏み込んだことを書いている。ダーウィンの教養の範囲は驚くべきもので、古代ギリシアの哲学者プラトンを読んで、こんな言及をしているのだ。
「プラトンは『パイドン』の中で、われわれが「思い描く種々のイデア」は魂の存在を前提とするものであって、実際の経験に由来するものではないという‐ここで先在はサルたちと読みかえるべし」(スティーブン・ジェイ・グールド『ダーウィン以来‐進化論への招待』早川書房より再引用)
プラトンは、人の心には「魂の先在」ともいうべきものがあると言う。経験や教育によって形成される精神や心と言うものとは別に、生まれながらに持っている「魂の先在」がある、と。ダーウィン
その「魂の先在」の実態とは何かといえば「サルたち」だという。体だけでなく心にも、ヒトの中には「サルたち」がいる。さらにこれを進化論に当てはめて敷衍(ふえん)すれば、ヒトの心には、サルがいて、カエルがいて、さらには海の中の生命の祖先もいる、という話になる。
この連載の第1回で私が書いたことを思い出していただきたい。解剖学者の三木成夫は、脳が作り出す意識とは別に、「心」と呼ぶべきものが内臓にある、と説いた。ダーウィンは進化の果てにできあがったヒトの心には、サルや、いろいろな生き物の、いわば「生命の記憶」が秘められているという。私たちの中にある「心」とは、そういうものなのだ。
チャールズ・ダーウィンは『種の起源』に続いて、論の焦点をヒトに当てた『人間の由来』(1871年)という本を出版した。さらに、それに続いて『人及び動物の表情について』(1872年)という本も書いた。地球の大自然を旅して、様々な生命をその目で見、生命の多様性についての知見身に付けたダーウィンだが、その思考は「進化」という、生命を貫く、いわば抽象的な見方へと結晶し、やがてその対象は「ヒト」へそして表情というものに現れる「ヒトの心」へと焦点が当てられていった。
ヒトとは何か?ヒトの心とは何か?
それを紐解くには、いまもダーウィンの著作を読み、そこから得られるものは尽きない。