「人生は五十一から」小林信彦、文春文庫、2002
P19
そんなわけで、ぼくなりにいろいろ考えているところに出てきたのが、この〈飢え〉である。おまえは本当に飢えたことがあるか、と自分に問いかけてみたのである。
明らかに飢えたのは、一九四四年(昭和十九年)八月末から翌年三月末までの七ヵ月である。集団疎開などと書いても今どき通じないだろうが、とにかく、国民学校(小学校)の生徒何十人かがまとまって、埼玉の山の中の寺に入ったのである。
何十人もの食糧は〈現地調達〉ということになっていたはずだが、あいにく、埼玉県では米が入手できない。東京から親たちがリュックサックで運んでくるが、食べ盛りの何十人にはとても足りない。それではどうしたのかと訊かれると、ぼくにもわからない。たぶん、現地の闇ルートで入手したのだろう。
この時、ぼくは国民学校六年生であるが、初めのうちは〈集団疎開〉を世の約束ごとだと思っていた。子供からみれば、〈防空演習〉だって約束ごとである。東京に食べ物がないのが嘘であるのは、埼玉県へ出発する前に、中華料理屋でフルコースを食べていたから、わかっていた。
ぼくの記憶では、七ヵ月の間に肉をロに入れたのは1度きり。それも消しゴムの小さいようなものだった。正月に尾頭付きと称して、干物が出た。この年ごろの子供に必要な牛乳や卵は影もない。煮物もカレーも、すべて、カボチャであった。
当然のことであるが、ほぼ全員が栄養不良になった。いずれ小説にするつもりなので省略して書くが、川でヤマメや赤蛙をつかまえて食べた。いまテレビで報じられるイラクの少年そっくりに痩せていた。
どんなに辛いことがあっても、一九四五年の三月十日(陸軍記念日)には東京に帰れるというのが唯一の希望だった。そして三月十日−−東京の下町は無差別爆撃で灰になった。
(中略)
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さて、七ヵ月飢えたことは確かである。それが何年も続いたように思えるのは何故だろうか。
高校のころはやたらに腹が減った。弁当を食べたあとで、学校の近くのそば屋に毎日通ったら胃が痛くなり、医者に胃拡張といわれた。友達と、どうも腹が減る、とボヤいているうちに、連日、肉南蛮を食べるくせがついたのである。
その後、二十代になってからも、連日、空腹感に悩まされたことがある。これは、家を飛び出して、わずかな失業保険で食いつないでいたのだから仕方がない。自分が悪いのである。
これらの体験が頭の中でつながってしまって、(ずっと飢えていた)という印象になったらしい。くりかえすようだが、ぼくが文字通り飢えたのは七ヵ月である。