孫ソフトバンク社長の言葉

「髪の毛が後退しているのではない。 私が前進しているのである。」孫正義

寒冷地への適応

「美女の骨格 名画に隠された秘密」宮永美知代、青春出版社、2009

P36

 環境もまた骨格のかたちを決める要素の一つです。たとえば、寒冷地という環境であれば、骨格もそれに適応したものになっていきます。

 寒い地域では、呼吸する際に冷たい空気を吸い込むことになります。吸い込んだ冷気が充分に暖められないまま気管支や肺に到達すると、肺炎などで呼吸器官にダメージを受けます。そこで、空気をできるだけ温めることが大事になってきます。

 空気を温めるには、頬骨が横や前方に張り出し、鼻腔や副鼻腔が広く、空気と接する面積が広いことがきわめて有効です。また、鼻が高いことは、寒さが厳しいところでは凍傷を負いやすく、マイナスです。むしろ鼻が低いかわりに、鼻腔や副鼻腔を広げる方向に変化してくるのです。形質的には頬骨弓が前や横に張り出してくることになります。すると見た目に、頬骨が高く張って鼻が低い、という印象をつくることになります。

 このように副鼻腔が広く、鼻が低いという骨格的な特徴には、先祖代々、長い間の寒冷地への適応という環境条件が深くかかわっているのです。

 日本人でいえば、弥生時代人に寒冷地適応の骨格的特徴が見られます。それは彼らが北方からきたモンゴロイドであることを示すものだといえるでしょう。

 なお、骨格とは直接関係ないのですが、瞼が一重か二重かということも、環境適応ということとかかわっています。

 二重瞼と比べて、一重瞼は脂肪がずっと豊かです。ほとんどが水分でできている、露出した眼球を厳しい寒さから守るためには、脂肪が豊かな一重瞼がはるかに有利です。寒冷地に適応しているのが一重瞼、あるいは奥二重瞼なのです。

アンタブス

「神経内科 頭痛からパーキンソン病まで」小長谷正明、岩波新書、1995

P40

 アンタブスという、女性には処方しにくい名前の薬がある。アル中の薬で、アルコールが肝臓でふつうに分解できないように作用する。これを飲んでいて酒を飲むと、ひどく酔ってしまい、はき気や頭痛が出てくるという。アンタブスとはanti-abuse、抗乱用の意味である。 

日本の美術解剖学の生みの親は森鴎外

「美女の骨格 名画に隠された秘密」宮永美知代、青春出版社、2009

P96

日本の美術解剖学の生みの親は森鴎外

 日本ではじめて「美術解剖学」の講義をおこなったのは、森鴎外です。明治二四年、東京美術学校(現・東京芸術大学)を創立した岡倉天心からの招聘によるものでした。

 当時の日本に美術解剖学は未知の学問でしたが、ヨーロッパではこの時代にもっとも多くの図書が出版されていました。岡倉は美術学校創立に際して、ぜひとも美術解剖学を講義科目に取り入れたいと考えていました。折しも、鴎外はドイツ留学から帰国したばかり。

(中略)

 森鴎外といえば、小説家としての側面が多く伝わっていますが、彼はそもそも医学を志し、東京大学で近代西洋医学を学んだ医学博士でした。軍医として医学の先進国であったドイツ留学を命じられたのは明治一七年。ドイツで四年を過ごしています。この間、鴎外が目にし、手に触れたのは、医学に関することばかりではありませんでした。西洋の文学と哲学、そして美術だったのです。

 ドイツから帰国した鴎外は、軍医としての職務をまっとうする傍ら、彼の地で得た知識を遺憾なく発揮するようになります。文学しかり、そして美術に関してもしかり。

 岡倉がどのような経緯で鴎外に講義を依頼するにいたったかは定かではありませんが、日本における美術解剖学を系統だって講義したのは、森鴎外が最初の人でした。

 「系統だって」と正したのには理由があります。じつは東京美術学校が創立される以前、私塾や工部美術学校という学校が設立されており、ここで外国から迎えられた外国人教師が美術解剖学を教えていた事実があるのです。

 ただし、具体的な授業の記述は残されてはおらず、工部美術学校も学校そのものが五年で閉校になっているところから、授業内容の詳細が残されている鴎外の講義が、日本における美術解剖学の礎をつくったとみなしていいでしょう。

ルネサンスの解剖は芸術家から

「美女の骨格 名画に隠された秘密」宮永美知代、青春出版社、2009

P66

 ルネサンスの実際の人体解剖は医師ではなく、まず、芸術家の手によってはじめられました。もちろん、解剖によって人体の構造を確かめ、自身の作品に反映させるためだったのです。残念ながら彼らは、それを後世にも残る書物にするということはありませんでしたが、医師にさきがけメスを握ったのが芸術家だったことは、特筆すべきかもしれません。

 ルネサンス以前は、人々の人体のかたちへの注目度は低かったといえます。当時の宗教画や書物などに描かれている人物は、分厚いローブのようなものをまとい、身体の線はほとんど窺い知ることができません。また、画家の肉体への関心をそこから読み取ることはできません。そうした描写に飽き足らず、かつての古代ギリシアの芸術家たちのように、人体を理解し、あるがままに表現したいという欲求を持った画家や彫刻家たちによって、解剖は開始されたと考えられています。

 人前に裸体をさらすことなどあり得なかったキリスト教的価値観が支配する世界で、人体の姿かたちを理解するには、解剖という方法以外にありませんでした。解剖によって、外貌に表れる筋肉や骨格がどのような構造を持っているのか、動きにともなってどう変化するのかを知りたい・・・・・。解剖台の遺体に向けられる芸術家の注視が、熱っぽいものだったことは想像に難くないでしょう。

「頭」の読み方

「神経内科 頭痛からパーキンソン病まで」小長谷正明、岩波新書、1995

P32

(前略) もう一つ、考えこむと頭の痛いことがある。「頭」の読み方である。頭蓋骨は解剖学ではトウガイコツと読むのが正しく、ズガイコツではない。頭巾はズキンで、トウキンではない。前頭葉はゼンズヨウとは読まない。学問用語ではトウと読み、ふつうの言葉はズと読むらしい。では頭痛は、ちゃんとした学問的な病名でもあるので、トウツウと読むべきなのだろうか。しかし、手元にある専門書も、神経学用語集もみなズツウと読ませている。が、『広辞苑』にはトウツウの項に頭痛と疼痛が載っていた。頭痛は一般の言葉としてのズツウが先にあったから、そう読むのであろうか。しかし、学問用語ではない頭取もトウドリと読んでいる。だから、あえて頭を痛めて考えないことにした。

今治西高校甲子園活躍期待してます。

 院長の母校今治西高校の甲子園出場が平成27年7月27日に決定しました。3年ぶり13回目だそうです。決勝の相手小松高校の宇佐美監督は元今治西高校の監督で、高校時代院長の1学年上の主将でした。早稲田大学に進まれ、岡田元オリックス監督の同期で副キャプテンとして活躍されたそうです。全然無名の小松高校を昨年は甲子園に連れて行き、今年も予選決勝までとさすが宇佐美監督です。

 今治東高校の木村監督は高校時代院長の同学年でしたし、今治北高校の監督も今治西高校のOBだそうです。

 ハンカチ王子の早稲田大学で同期で副キャプテンだった宇高選手のお父さんは院長の兄の同学年の主将でした。法政大学に進み、江川投手の一年下だったと思います。

 母校の活躍を期待します。

芝生のグランド

「TEST MATCH」宿沢広朗、講談社、1991

P172

芝生のグラウンドでプレーするのが当り前

 ラグビーは芝生の上でプレーされるスポーツである。

 すべてがトウイッケナムやカーディフアームスパークのように、じゅうたんを敷きつめたような芝生である必要はさらさらない。牧草のようなものでも、雑草が混じったようなものでも一向にかまわない。しかし土の上でやるスポーツではないことは確かだ。

 日本では芝生のグラウンドは"ぜいたく品"である。公共的な競技場を除いて、チームとして芝生のグラウンドを持っているところは極めて希である。管理、維持の困難さは想像にかたくない。地質面での難しさもあるのだろう。英国やニュージーランドは、その点全くうらやましいの一語に尽きる。

 英国ではどこにでも芝生が生えているという印象だ。極端な言い方をすれば、グラウンドはつくるものではなく、芝生の生えている所にポストを立てるだけで、出来てしまう感じさえする。

 平らな所はラグビー場かサッカー場、丘陵とか荒れている所はゴルフ場・・・・そんな気がするくらい、いたるところにラグビー場やサッカー場、ゴルフ場がある。それはもう、とてもわざわざ作ったとは思えない。その場所の地形をあるがままの姿で少しだけ手を加えると、グラウンドになってしまう。

 大学とか高校にはラグビーグラウンドが最低三面はある。ウェールズの体育大学などではラグビー、サッカー、ホッケーのグラウンドが合計で二十面以上あり、それも常時使わず、芝生の保護の為に順番に使っていく。

 田舎の山あいのクラブなどに行くと、グラウンドが傾斜していることもあるが、そんなことはあまり気にしないようだ。サイドラインの右から左に傾斜していても、一方のゴールから向こうのゴールに傾斜していてもそれはそれでいい。

 ハーフタイムでサイドチェンジすれば両方とも一回は登り坂になる。なるほど不公平ではない。風向きと同じぐらいのおおらかさなのであろう。

 そのような芝生の上でプレーしてきた英国や、その他の国のプレーヤーと日本のプレーヤーとでは、ラグビーの質に差が出てくるのは当然のことである。プレーにその違いが表われてくる。
 たとえばグラウンドにボールがあって、一瞬そのボールを確保するために身体を挺していけるかどうか、攻められた時にちゅうちょせずセービングできるかどうか、イーブンボールになった時にどちらが早くそのボールを確保できるかーーー。芝生のグラウンドのラグビーと土の上のラグビーとでは、埋めようのないギャップがそこにある。その一秒の何分の一かのギャップが勝敗というような次元ではなく、ラグビーそのものの質をも変えてしまう。

 ”痛い”という意識、一瞬の逡巡が日本のプレーヤー達の中にあることで、プレーをどれだけ阻害しているかは計り知れないものがある。

 日本代表チームは芝生のグラウンド以外では練習や合宿を行なわないことにした。

 これはぜいたくとかおごりとかいった発想ではなく、土のグラウンドではプラクティカルではないという理由からである。日本代表チームが海外や国内で試合をする場合は、すべて芝生のグラウンドで行なう。当然、練習もそれに近い状況で行なう必要がある。

 日本でも、もっと芝生のグラウンドが増えてほしい。そして小さな時から芝生のグラウンドでラグビーをプレーしてほしいと思う。

 現在芝生のグラウンドを持っているチームは大事に、有効に使ってほしい。毎日使って芝生のグラウンドを台無しにするくらいなら、グラウンドの使用ひん度を落すぐらいの覚悟が必要だ。それは少しも本末転倒なことではない。

 ラグビーは芝生の上でプレーされるものという意識が最初のころからあったら、これほど多くの人達がラグビーをプレーするようにはならなかったかも知れないが、ラグビーの質が大きく変わっていた可能性は捨てきれない。

 それに、トンガや西サモアのように芝生のかわりに草の上でも構わなかったのだからーーー。

競技場の設備

「TEST MATCH」宿沢広朗、講談社、1991

P176

細かなこだわりが良いラグビーを生む

 ラグビー場の設備についても同様なことがいえる。長い歴史の中で少しずつ改良され、テストマッチを行なうにふさわしいものとなっている。

 プレーヤー達のチェンジングルーム、メディカルルーム、ロイヤルボックス、プレスボックス、どれひとつとっても単に付属設備としての機能だけでなくテストマッチを良い試合にするための大事な”道具”として不可欠な役割をはたしている。

 トゥイッケナムのチェッジングルームには、シャワーだけでなくプレーヤー全員にひとつずつ大きなバスタブがある。ぜい沢というよりテストマッチに出場する選手達へのねぎらいだろうか。それとも代表選手への当然の扱いなのだろうか。

 テストマッチに勝利したあと、あのバスタブでお湯につかる気分はひとしおであろう。

(院長註:院長は丹下健三さんの高校の後輩です。前回の東京オリンピックの象徴である代々木の体育館や東京都庁の前を通ったり、写真を見る度に「先輩の作品だ」と誇らしく思ったものです。新国立競技場が今回のオリンピックのシンボルになるのであれば、なんで外人の設計なのだと最初から違和感がありました。日本にも多くの優秀な建築家がいるのは衆知のことです。何十年と使い続けるのであれば是非とも日本人の設計でお願いします。)

屋根つきの観客席

「TEST MATCH」宿沢広朗、講談社、1991

P175

屋根つきの観客席がラグビー場の雰囲気をつくる

 素晴しいテストマッチは、三十人のプレーヤー達だけによって生み出される訳ではない。プレーの良さ、テストマッチの雰囲気を引き出し、盛り上げる″大道具、小道具”が必要である。
 その代表的なものがスタジアムであろう。英国のトゥイッケナム、カーディフアームズパーク、マレーフィールド、ランズドーンロード、ニュージ−ランドのエーデンパークーーー。どのラグビー場も、ナショナルスタジアムにふさわしい大きさと風格がある。

 近年、これらの競技場は改装を重ね新しく、より見やすくなってきている。ちなみにこの改装費の一定部分は、デベンチュアーといわれる社債のようなものをラグビー協会が発行し、一般の人々の購入を募る。デベンチュアーの保有者は、テストマッチのチケットを購入する権利を賦与されるというもので、資金の集まり具合は良好だという。

 ナショナルスタジアムの風格をつくり出すのに大きく役立っているのが、スタジアムの屋根だ。

 この屋根が、威厳さと圧倒感を生み出していることは見逃せない。

 加えて、ゲームが白熱してきた時の大歓声や観客の大合唱をエコーする効果も絶大だ。

 ラグビー場は本来、屋根があるのが本当なのかも知れない。屋根の型は様々だ。四方を屋根でおおっているもの、正面とバックスタンドだけのもの、アームスパークのような馬てい型のものもある。

 ナショナルスタジアムだけでなく、英国では地方や、クラブのラグビー場も小さくても屋根のあるところが多い。

 日本も最近、札幌の月寒、熊谷、瑞穂など美しいラグビー場が建設されているが残念ながら風格のある屋根は無い。もちろん費用の関係でそこまでぜいたくは言えないけれども、英国のいろいろなラグビー場でプレーすると屋根つきの観客席の良さがわかる。本当に観客に囲まれてプレーしていることが実感できる。

(院長註:先日熊本では「新国立競技場の建設にあたって、熊本城の一口城主のように一口一万円で寄付を募って、寄付した人の名前を掲示したら」という意見が新聞に載っていました。一口場主なんてね。熊本ではおじいちゃん、おばあちゃんは「孫の分まで」と言っている人もいて結構集まった様ですよ。城主証が送られてきて、それが期間限定の熊本城の入場無料のパスポートになっていたようです。)

脳と脊髄

「神経内科 頭痛からパーキンソン病まで」小長谷正明、岩波新書、1995

P26

 脳はひじょうに大量のエネルギーが必要な組織である。体重の約二・五%の重さしかないのにもかかわらず、全身で使う酸素の一八%、心臓から出てくる血液の一六%が脳にまわされている。逆にいえば、血流や酸素がとだえるとそれだけダメージを受けやすい組織ということだ。脳に血を送っている血管は左右の頚動脈と、左右の椎骨動脈の計四本だ。頚動脈は首の左右両側にあり、強く持動する血管だ。椎骨動脈は首の奥のほうから脳に入るので、目に触れることはないが、脳幹部では左右が一本になりながら血流をめぐらしているだいじな血管である。これらの血管が脳の底部ではたがいに枝を出して一つのループをつくっており、かりに一本の血管がつまっても脳の血流が保たれるようにという安全策を造物主があらかじめ用意しておいたにちがいない。ウィリスの動脈輪とよばれている。

 脳や脊髄は豆腐のようにやわらかい組織なので、くずれないように膜で包まれて、まわりを髄液という透明な液がひたしている。脳の表面にピタッと密着してラッピングしているのが軟膜、その外にクモ膜があり、クモ膜と軟膜のあいだのスペースに髄液が満たされている。動脈瘤の破裂などでおこるクモ膜下出血とは、この部分に出血することである。その外側に厚いシートのような硬膜がある。骨と密着したり、あるいは左右の大脳半球のあいだや、大脳のスペースと小脳のスペース間を区切っている。脳のなかには空洞があり、脳室とよばれている。髄液は左右の大脳半球のなかにある側脳室でつくられ、ほかの脳室や髄膜スペースと連絡している孔を通して循環しており、クモ膜にある穎粒などで吸収されている。

(院長註:脳の重さは体重の2.5%ということは60kgの人で1.5kgということになります。体積はおよそ1350mlといわれています。)

頭の重さ

「美女の骨格 名画に隠された秘密」宮永美知代、青春出版社、2009

P41

 人間の頭部の重さは体重の約一三%だといわれます。体重が六〇キロなら、およそ八キロ近くあるということになります。つまり頬杖をつくことは、顔の骨格のその部分に集中的に、その重量分の力を加えることなのです。

甲子園 奇跡のバックホーム

 平成27年7月13日(月)放映の「甲子園 奇跡のバックホーム 〜今明かされる20年目の真実〜」(テレビ朝日系列)を見ました。1996年8月21日に行われた熊本工業対松山商業の決勝を再現したものです。司会は小泉孝太郎さんでした。小泉さんは同い年で地区大会で敗れたそうです。

 試合は9回裏2アウトから熊本工業が本塁打で追いつき、延長戦に突入。流れは完全に熊本工業に。10回裏熊本工業の攻撃。先頭打者2塁打。次打者送りバント成功で1アウトランナー3塁。ここで松山商業がとったのは満塁策。2人敬遠で1アウト満塁に。ここで次打者がライトフライ。3塁ランナータッチアップでホームに向かったがバックホームでタッチアウト。この右翼手の返球が「奇跡のバックホーム」と語り継がれているのです。結局11回表に松山商業が3点取って優勝しました。

 このゲームについて10年後の2006年8月に熊本日日新聞紙上で「再現・熊本工VS松山商 風を切る2つの白球」と題して連載されました。その15回目8月17日(木)24面の記事が残っていました。

 

今だから分かる   西本洋介中堅手(熊本工)

 八代二中で坂田と同期だった中堅手の四番西本洋介(二八)は一九九七年に新日鉄八幡製鉄所(北九州市戸畑区)へ入社。しかし、二〇〇三年夏に野球部は廃部となり、そのまま軟式野球部へ移籍した。同年十二月、暁子(二九)と結婚し戸畑区の社宅に住む。会社では自動車鋼板のメッキ塗装検査部門の副主任だ。

 延長十回裏の一死満塁の場面について、西本はあっさり本音を言った。「正直言って、本多(院長註:3番、ライトフライを打った)が三振せんかなと思った。自分は甲子園では全然打ってなかったんで、ここで打てば全部取り返せるぞ、とね」。西本は熊本大会では五割七分一厘と打ちまくったが、甲子園では一割二分八厘と不振にあえいだ。「スカウトを意識し過ぎてフォーム崩したんです」と笑う。

 「今だから分かることがあるんですよ」。西本が明かした反省点とはー。九回裏、熊本工の澤村幸明が同点ホームランを打った場面。マウンドに座り込んだ松山商の新田浩貴を、主将今井康剛が「まだ負けてないぞ」とばかりに抱き起こした。

 一方、延長十回に憤死した熊本工星子崇が本塁で倒れ込んだが、そばにいた西本だけでなく、誰も星子に手を貸そうとはしなかった。「あそこが熊工と松山商との違いなんです」。(後略)(敬称略)

 

(院長註:小泉孝太郎さんが進行役なのでてっきり全国放送だと思っていたら、愛媛と熊本の2県だけのローカルだったようです。すごいいい番組でした。2県だけのローカルではもったいない。全国の高校野球ファンにはたまらないと思います。甲子園開幕前にぜひとも全国放映すべきです。)

『源氏物語絵巻』に描かれた表情

「美女の骨格 名画に隠された秘密」宮永美知代、青春出版社、2009

P128

『源氏物語絵巻』に描かれた表情

 誰しも一度は国語の教科書や資料集などで、『源氏物語絵巻』の図版を目にしたことがあるのではないでしょうか。平安時代、紫式部が『源氏物語』を著してから一世紀ほどの時間を経て作成されたといわれていますが、江戸時代初期に描かれたという説もあり、現在ではこちらがもっとも有力だと考えられています。

 ともあれ、絵画での顔の描き方は目、鼻、口はくるっと描かれたふくよかな輪郭の中に納まり、奈良時代を踏襲していますが、少しずつ、変化が見られるようになります。

 その変化とは”表情”です。 奈良時代に描かれた「鳥毛立女屏風」と『源氏物語絵巻』の印象は異なります。「鳥毛立女」は目は黒目まではっきりと描かれますが、『源氏物語絵巻』ではさらに目は細くなり、″引目鉤鼻"という描き方になっています。

 源氏の人物たちは下ぶくれの顔型に”引目鈎鼻”で顔のパーツが描かれます。「鳥毛立女」から通じる顔のかたちがここに見えます。

 そして『源氏物語絵巻』には、表情を描こうとする繊細な工夫が、随所に見てとれるのです。

 第三九帖「夕霧」では、夢中で恋文を読む夫に後ろから音もなく近づこうとする妻の顔に描かれた目は、わずかにつり上がり方が強く、嫉妬の表情がほのかに描き出されています。

 また、ものうげな表情も見てとれます。「宇治十帖」の場面で自分の子ではない皇子をそれと知りながら胸に抱いている源氏の姿は、やはり赤子を慈しみながらも哀しげにも見えるようです。

 源氏の心の中の葛藤を知りながらこの絵巻を見る人は、この顔からあらゆる感情を読み取ることができるでしょう。『源氏物語絵巻』に通底する静かに抑制された表情表現ゆえに、高貴さや品格を感じ取るのだと思います。

 日本には感情をあからさまにしないことを美徳とする文化があります。そのあたりは諸外国からは奇異に映ってきたところです。

 伝統的には、京の貴族社会で、ことさらそうした表情が発達したと思われます。というのは、自ら武力を持たない公家は、次第に力を持ちはじめた武家との間で、うまく政治をおこなわねばなりませんでした。喜怒哀楽をそのままストレートに面に表すようなことをしていては何事も立ち行かないからです。そう考えれば、貴族社会では無表情や控えめな表情が美徳とされたことは、容易に想像がつきます。

 見る人の思い入れか、というほどのかすかで微妙で控えめな表情表現なのですが、『源氏物語絵巻』の登場人物たちの表情は、各段の物語にそっと寄り添うような感情の表現として読み取れるのです。

鳥毛立女屏風.jpg鳥毛立女屏風

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源氏物語絵巻 夕霧.jpg源氏物語絵巻 夕霧

 

 

 

 

 

 

 

 

 

豊満な裸婦

「美女の骨格 名画に隠された秘密」宮永美知代、青春出版社、2009

P90

肥満はブスか? 美人か?

 西洋美術の世界で、画家たちはしばしば「裸婦」を描きました。

 みなさんはこんな疑問を持ったことがありませんか。

「裸婦ってなぜかみんな、肉感的でぼってりと描かれてない?」

「裸婦=ふくよかな肉体」という図式があるわけではありませんが、広く知られる絵画には、確かに豊かな脂肪を持った裸婦が描かれているケースが多いものです。

 現代的な感覚からすれば、「太っている」ことは「美」とは相容れないわけですが、画家はなぜ、太った裸婦を描いたのでしょうか。

 結論からいってしまえば、彼らはその時代の「美女」を描いたのです。

 そもそも「美」という漢字は、「大きい(よく太った)」「羊」を意味しています。かつて食べることが生きることの第一義であった時代、太った羊は美しいとみなされてきたのです。

 女性についても同じことがいえます。太っていることが美しさに直結している時代、文化があったのです。今日の日本や欧米は「飽食の時代」といわれて久しいのですが、人類の歴史の中で食糧がふんだんにある状況は、ごくごく近年になってからのことでしかありません。

 厳しい食糧事情の中で、食べるものに汲々とするという時代が長く続いてきましたし、現在でも世界には飢餓地域が存在します。

 充分に食べられないという生活が一般である中で、食べ物が豊富にあり、太るほど食べられるということは、ステイタスの高さを示すものでした。太っていることは富裕さの証明であり、一般の人々にとっては憧憬でもあったのです。

 憧憬の対象としての太った女性ー彼女たちをその時代の美女と規定することにさほどの抵抗感はなかったでしょう。豊饒をもたらす神として崇められた、古代の地母神たちもたっぷりと豊満な身体つきで表現されています。太っていることの”価値”は、現代とはまったく違ったものだったのです。

 南米コロンビアの画家であり、彫刻家でもあるフェルナンド・ボテロが造形する人物たちは、いずれも顔も身体もまるまると太っています。愛らしさに満ちた太っちょを造り出す理由を、ボテロ自身は「芸術家は理由など知らずにあるかたちに惹きつけられる」という言葉で説明しています。ボテロを惹きつけてやまない、丸いふくよかなかたちは、彼にとって美そのものであるといっていいでしょう。

 太った裸婦を好んで描いた画家として挙げたいのが、ピーター・ポール・ルーベンスとピエール・オーギュスト・ルノワールです。太り肉という点では共通していますが、二人の画家が描く裸婦から伝わってくる印象はまるで違います。

 ルーベンスの裸婦は重量感にあふれ、どっしりとしてたくましい。太った身体には脂肪がたっぷりついているのですが、その皮膚と皮下脂肪の下には力強い筋肉があることを窺わせます。量感のある筋肉が重量感、たくましさを伝えるのです。

 ルーベンスの裸婦は、解剖によって得た骨格や筋肉の知識を存分にその作品に反映させた、あのミケランジェロの女性像を彷彿とさせます。実際、ルーベンスはミケランジェロに深い尊敬を抱いていました。

 一方、ルノワールが描く裸婦は豊かな脂肪におおわれていながら、どこか軽い印象です。ふわふわとして重量感や皮膚がぽんと張っている感じに乏しいのです。やわらかいマシュマロのイメージといったら、わかりやすいかもしれません。緊張感のある弾力を感じさせるルーベンスの裸婦とは、その点でも好対照です。

 もう一ついえば、美術解剖学的な色彩が強く感じられるのはルーベンスです。構図や人物描写に均衡を求めたルネサンス期の絵画から離れ、動きのあるダイナミックな表現が好まれた、バロック絵画を代表する画家だったルーペンスですが、肩や背中、腹部や腕など、体の各部の筋肉を見ると、内部構造を充分に理解していることが、一見しただけでわかる表現となっています。ルノワールにはそうしたところは薄いのですが、この印象派の画家にも美術解剖学の素養はありました。そうでなければあの裸婦は描けません。

 ルーベンスとルノワール。まったく違う作風で太った裸婦を描き続けた二人の画家ですが、キャンバスの奥に見すえていたのは、まぎれもなく、それぞれの美女の骨格だったのです。

エレーヌフルマン.jpgピーター・ポール・ルーベンス「毛皮をまとうエレーヌ・フルマン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

陽光の中の裸婦.jpgピエール・オーギュスト・ルノワール「陽光の中の裸婦」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寡黙にならざるを得なかった瀬古選手

2015.6.4週刊文春P111

大和ハウス工業会長樋口武男の複眼対談瀬古利彦DeNAランニングクラブ総監督

樋口 (前略)瀬古さんは今もマラソン走ってますか?

瀬古 いやいや、もうあんな苦しいことはやりませんよ。僕は人よりちょっと足が速かっただけで、走るのを取ってしまえば、顔はダメ、頭もダメ、脚も短い。それが中村先生と出会って、あれだけ走れるようにしてもらえた。本当に運がよかっただけなんです。

樋口 何事かを成し遂げた人は、「運がよかった」と言う。しかし、運だけではないんですよね。

瀬古 まあ、世界レベルの競走では、天才が何人かいます。その中で運がよく、人一倍の努力をし、根気よく練習した人が勝つわけです。

樋口 私は「凡事徹底」と言うんですが、電話が鳴ったら一回で取る。元気よく挨拶をする。約束を守る。そういった「凡事」を極めることで、結果、「非凡な成果」につながるわけです。瀬古さんが練習を地道に積み上げ、大きな結果を出されたのと同じですな。瀬古さんも講演をやられるでしょう。
瀬古 僕は聴衆を絶対に寝かさないと決めてるんです。前の席の人に話しかけて会話すると、次は誰が指されるかわからないから、寝られない。吉本興業の芸人さんを見て勉強もしました。もっとも大阪のおばちゃんに、「セコさん、あんたの話は、オ・モ・ロ・ナ・イ」といわれました。「おもてなし」の振りで(笑)。まだまだみたいです。

樋口 しかし、現役時代は「走る修行僧」といわれていたにしては、ずいぶん洒脱で明るい方ですなあ。

瀬古 元来は明るいんですよ。ただ、中村先生からは、「お前、しゃべるな。しゃべると力が逃げる。おしゃべりなランナーでロクなのはおらん」と言われてましたから、寡黙にならざるを得なかった。今は仲間とジャズのビッグバンドを作って、「瀬古利彦とパンキーズ」と称して、マラソンのゴール地点や震災の被災地で演奏しています。僕はドラムスとボーカル、それとしゃべりをやってます。

瀬古選手の心拍数

2015.6.4週刊文春P108

大和ハウス工業会長樋口武男の複眼対談瀬古利彦DeNAランニングクラブ総監督

樋口 瀬古さんの戦績を拝見すると、凄いもんですな。やはり天性の運動神経ですかね。

瀬古 陸上競技では短距離なんかは天性のものが必要なんですが、長距離はやはり練習ですね。普通の人の心拍数は毎分六〇〜七〇ですが、僕の現役のときは四〇を切ってました。一回の拍動で全身にドカーンと大量の血液を送り込める大きな心臓。それは練習によって鍛えられるものなんです。それと内臓が丈夫だったこと。母親から丈夫な内臓をもらったことは幸運でした。

形態学と用不用の法則と系統発生学

「追いつめられた進化論」西原克成、日本教文社、平成13年

P102

形態学と用不用の法則と系統発生学

 リンネの分類学に則って、脊椎動物を形態に従って並べて行くと、簡単な体制から複雑な体制に至るまでが、四つか五つのステージに分けられて哺乳類に至る。

 リンネやキュビエは、キリスト教の自然神学の聖書の世界観に従って生命不変説を採用していたから、これらの種の違いは天地創造のはじめから神によって創られたものと考えていた。

 一七九五年にモルフォロギア=形態学(morphologia)を創始した詩人で有名なゲーテ(Goethe)は、動物には原型があり、それが変容して今日のヒトをはじめとする多様な動物が存在すると確信していた。

 彼は、モルフォロギアの定義として、「動物の器官の命名と器官の形態変容の法則性の解明」と明記している。実際に彼は、ヒトの胎児の頭蓋骨とサルの成体のそれとを比較する比較解剖学の手法を使って、ヒトにも他の哺乳動物と同様に顎間骨が存在することを検証している。

 ゲーテの形態学の創始を受けて、その一五年後に、観察術に基づいて形態の変容が「用不用の法則」によることを明らかにしたのが、前述のラマルクである。一八〇九年のことであった。

 「用不用」とは体の使い方のことである。つまり、動物の進化がニュートンの万有引力の法則にもとづく力学の摂理に支配されることを究明し、脊椎動物の進化学として「用不用」の法則を樹立したのであった。

 体の使い方というソフトの情報を伝えると、遺伝形質は同じままでウォルフの法則に従った形態の変化を伝えることができる。

 そして変形に後追いして生殖細胞に起こる突然変異で遺伝子が変化する。これが分子進化であり、形態の変化がラマルクの用不用の法則である。わたしは、世界にさきがけてラマルク説を分子生物学的に解明した。

 ゲーテとラマルクの合作とも見られる進化の法則性(進化学)とは、原型が力学の摂理に従って、時間の作用のもとに形を変化させ、今日の多様な動物へと発展したというものである。

重労働を余儀なくされる人類

「追いつめられた進化論」西原克成、日本教文社、平成13年

P94

重労働を余儀なくされる人類

 人類においては、四〇〇万年前頃から始まった言葉の習得では、後鼻孔(こうびくう)の口蓋垂にはまり込んでいた喉頭が離れて、嘸下時に息が止まるように力学対応した。このために餅がつかえるようになってしまった。

 犬や猫は、血圧九〇ミリ水銀柱であるが、直立のヒトは一二〇ミリ水銀柱ないと、頭蓋内の血圧が九〇ミリ水銀柱とならない。常時、過重労作のため、ヒトは心臓麻輝が多発する。睡眠中に一二〇ミリ水銀柱の血圧が九〇ミリ水銀柱に下がると、成人では約一兆個の細胞のリモデリングがはじまる。骨休めをおこたると、このリモデリングの障害で、代謝性の疾患や血液の不調が起こる。成人で最低八時間、子供で一〇時間から一二時間の睡眠が必須である。

 ヒトの体重は重いから、睡眠中の不良姿勢で、身体が自分の体重でつぶれて種々の障害が生ずる。顔のゆがみ、歯型のゆがみ、脊椎側彎・前彎のほか、睡眠姿勢で長時間利き腕を圧迫すると、神経と筋肉の関節が自重でつぶれてこわれ、しばしば腱鞘炎を発症する。利き腕を下にして寝るのが普通のためである。

 また人類特有の文明の弊害として、冷刺激の中毒がある。胃腸を三六・五℃に保たないと円満な消化吸収ができず、腸内細菌と抗原性のある蛋白質が吸収されやすくなり、アトピー性皮膚炎を発症する。

 これらの弊害から身を守るためには、重力エネルギーを制御し、左右の差をなくして両顎でよく噛み、枕なし上向きのうえ、鼻呼吸で眠り、一日の活動を一晩の骨休めでリモデリングをはかり、充分に疲れをいやすことが肝要である。

 さらに、日頃より横隔膜呼吸に努め、ゆるやかな筋肉運動を続けて身体の呼吸をする必要がある。あまり交感神経を緊張させるスポーツは体によくない。副交感神経でゆるやかに呼吸をうながす程度がよい。

スピーチ

週刊朝日2015.6.5P117司馬遼太郎の言葉「風塵抄」の世界

 「言葉の魅力」のテーマは日本人のスピーチとなっている。

 歌舞伎がニューヨークで上演された際、開幕前に行われた日本の偉い人の「ごあいさつ」がまず取り上げられている。

 私情を入れず、催しの概説をのべ、公演の意義、関係者の努力に感謝といったもので、日本的にいえば、悪いスピーチではない。

 ただ、全くおもしろくはなかった。アメリカ人の観客にとってはつらかったろう。一緒に聴かされた司馬さんの友人もげんなりしたようだ。

 〈たとえがわるいが、立小便をしている父親の姿を、年頃の娘がたまたま街角で友達と一緒に見てしまった心境に似ている。(略)魅力のない言語は、拷問にひとしい〉

 司馬さんはかつて、誰かのつまらないスピーチを並んで聴いていたとき、筆者にいったことがある。

 「3分間話して、クスッとも笑いが起きない挨拶は犯罪だね」 司馬さんの”スピーチ論”について、話のプロに感想を聞いてみた。

 「3分は長いかな。私たち、アナウンサー仲間の間では、話を飽きずに聞いてもらう限度は1分40秒と、昔からいっています。たとえば結婚式の場合、その人とどういう関係だったか、どういう人物だったかを浮かび上がらせるためには、ワンエピソードで足ります」

 「少し長いスピーチだと起承転結ではなく、”結”から話したほうがいいですね。結で始めて起承転、最後にもういちど結。何を伝えたいかをまず話すこと。スピーチでわかってもらえるのはせいぜい三つぐらいの話ですね。それ以上話すと、何を伝えたかったのかがわからなくなる。昔の江戸っ子がいったでしよ。『四の五のいうな』って」というのは古屋和雄さん。

 元NHKアナウンサーで、「おはようジャーナル」「ひるのプレゼン卜」「ラジオ深夜便」などのテレビ・ラジオ番組で活躍した。毎年の「菜の花忌シンポジウム」の司会進行役を長くつとめていて、シンポジウム最後の古屋さんの朗読を楽しみに来る人も多い。

 現在はNHKを卒業し、新宿にある「文化外国語専門学校」の校長先生となった。日本語を学ぶ留学生たちを指導し、あわせて文化学園大で「TVジャーナリズム論」などの講義もしている。

 「外国人のスピーチコンテストで、出だしの言葉がすごく印象的な人がときどきいるんです。日本人の学生より、やはりアピールがうまいですね。でも司馬さんが、スピーチのなかの笑いにこだわるのは、やはり大阪の人だからですよ」

「ヒポクラテスたち」を35年ぶりに見ました

 大森一樹監督の「ヒポクラテスたち」を35年ぶりに見直しました。1980年の作品だそうです。医学生の姿を描いています。大森監督自体が京都府立医大出の医者です。今や名脇役の斉藤洋介さんと内藤剛志さんの映画デビュー作だそうです。元キャンディーズの伊藤蘭さんに蘭というタバコを吸わせていました。女も男もタバコを吸うシーンがやたら多く、やはり35年前かなと。あと車の型が古く感じました。なつかしの手塚治虫さんや北山修さん、鈴木清順監督らが出演されていました。「投げて、打って、走れる医者が目標」という名セリフも楽しめました。画像は少し古く感じましたが、映画自体は全然古さを感じませんでした。ヒポクラテス症候群というのが出てきましたが、院長も経験があります。学生時代、朝から一日病気のことばかり聞かされているとなんとなく体調が悪くなりました。DVDはツタヤで借りました。108円でした。熊本では三年坂店かイオンモールにある嘉島店に在庫あるそうです。光の森店と菊陽店にはおいてなかったようです。

 35年前の京都の町並みを見て、浪人時代を思いだしました。院長は京大正門のすぐ近くの内科医院に下宿していました。正門前はいつもの通り道です。当時学生運動の一番最後の時期で、時計台の下のロータリーは立て看が何枚も立てられ、機動隊も時々来ていました。ある時など時計台下の広場が学生で埋め尽くされ、正門が閉じられ正門前の機動隊と押し合いしていました。最後は正門をこじあけて機動隊が入って行きましたが、指揮車のスピーカーから「こちらは川端警察署長である。学生諸君抵抗してはいけない。抵抗してはいけない。」というだけで全然強圧的ではありません。なんでかな?と思いました。騒ぎの終わった後には、ゴミ箱にジュラルミンの盾が捨てられていました。疑問が解決したのは何年も後です。上級職を取って警察官僚になった兄の同級生が30才になるかどうかのところで川端警察署長になったという話を聞いた時です。学生の気持ちが一番わかるのは年の近いOBだということだと思います。

 あの頃の京都のエネルギーはすごかったと思います。大森監督も若くしてプロデビューしていましたし、京大の「卒塔婆小町」という劇団がおもしろいらしいというのは浪人の間でもうわさになっていました。主宰していたのは辰巳琢郎さんだそうです。

 兄が学園祭でプロレスをやるというので見にいったら、えらい盛り上がりで大人気でした。兄は中学の頃器械体操をしていたので、バク転、バク宙が得意です。普段は少林寺拳法部に所属していたので格闘もできます。マスクをかぶって得意の空中殺法でリング上で飛び回っていました。「かんさい珍版瓦版」という番組が京大の学園祭を取材にきて、兄と笑福亭鶴瓶さんとがリングの上で闘い、関西地区でTV放映されました。当時アフロヘアだった鶴瓶さんその髪の分巨漢に見えました。えらい盛り上がりで、たぶん鶴瓶さんも「京大にもおもろい奴がおるな」と思ったと思います。とにかくエネルギーに満ち溢れていた気がします。

予備校講師の言葉A

「京都よ、わが情念のはるかな飛翔を支えよ」松原好之、1980、集英社

P157

 パラグラフを二つほど訳したあと、例によって彼独特の脱線講義が始まった。その間、彼は右手にテキストを掲げ、二コリともせず語り続ける。

 「この日本にもかつてと同じように、軍国主義者、戦争遂行論者が目立ってはびこり始めた。そういう連中は決まってぬくぬくと警護兵に囲まれた赤絨毯の中で意気まくに過ぎない、本質的には臆病者たちだ。最前線に立つ気配のない者ほど、他人に『死』を強要して男を上げた気になるのだ。

 だいたい日本がアメリカに戦争を仕掛けて勝てるわけがなかった。そんなことは今、われわれのまわりを見渡してもわかるはずだ。日本の国技は相撲だ。アメリカの国技はプロレスだ。素手だけで膝がついたかつかんか、俵から足が出たか出んか、挙句の果ては、かばい手かつき手かで勝負を決する相撲に比べて、プロレスは凶器でも何でも見つからんかったらよし。血だるまにさせてワンツースリーで勝負がついても、まだ飽き足らんと首絞めよる。

 だいたい私は女房に、アイラブユーなどと言ったことがない。千年にひとり出るか出ないかの私を当然にも慕ってきた多くの女性の中から、ひとり選んでこの女を女房にする! と決意したときから、もうすでに彼女は私の女房になっていた。

 諸君もあの大学何とかして入りたいって言うんではなくて、俺はあの大学に入る!と敢然と決意したまえ。そのとき諸君は希望の大学の学生になっているはずだ。

 私の絶対性大原理は、確然とした意志のあるところ、どこにでも息づいているのだ。つまり原理と言うからには、普遍的なのはあたりまえなのだ。」

予備校講師の言葉@

「京都よ、わが情念のはるかな飛翔を支えよ」松原好之、1980、集英社

P35

 「私は諸君に全員、東大を目指して欲しいと思う。京大では駄目だ、早稲田ではもっと駄目だ。」

 独特の「須磨節」と呼ばれる講義が始まっていて、時々館内に笑い声がどっと上がる。

 「なぜなら京大は権力と無縁だからだ。権力志向を放棄して何が学問だ。学問とか英知とかは、権力を媒介として初めてかたちをとるのだ。権力志向のないアカデミズムはすべて欺瞞であり、逃避なのだ。媒介の仕方が肯定媒介であるか否定媒介であるかで、体制か反体制かが決まる。このいずれでもない者は歴史の落伍者だ。彼らは営々としてこぢんまりと、自分と自分の家族を守ってのみ生きる。つまりクズだ。私の授業を受けた者がクズになったら、私は死んでも死にきれん。

 東大にどうしても行けずに、京大ないし早稲田へ否応なしに行くんなら、私は涙をもって見送るが。」

 京大志望者も早稲田志望者も一様に笑う。京大向けの予備校でこれを言うところに、須磨の面目躍如たるものがあった。

 「早稲田は中退者でもっている大学だ。東大落ちてどうしようもないのが早稲田に入り、まわりがクズばかりなのを見てむかつき、あほらしくなって中退し、しこしこと文学でも始めよかといって、その中のどれだけかが文学者として生き残り、早稲田の名を上げるのだ。

 要するに早稲田もひとつのバロメーターで早稲田を軽蔑するか崇拝するかで、人間とクズとに分かれる。私は一度でも早稲田など憧れたことはない。

 私の依って立つ理論は、知っての通り、絶対性大原理だ。これはアインシュタインの相対性原理を揚棄して生まれた。ゆえに『大』がつく。彼が天才であったことは言うまでもないが、ただひとつ彼の不幸は私の理論及び私の存在を知らずに死んでいったことだ。この不幸は現役で嬉々として大学に入学していった者、あるいは別の予備校で迎合主義の講師に飼い馴らされている者にも通ずる不幸だ。

 諸君らの幸福には、この私でさえ羨ましいと思う。なぜなら諸君には私がいる、だが私はつねに孤独なのだ。私はいつも私の影と対話するしかないのだ。

 私の書斎を諸君らに見せてあげたい。私の部屋にはオックスフォードの大辞典以外一冊もないのだ。私が膝を屈して教えを乞うべき師と書物はすでにこの世にない。

 私の絶対性大原理について知りたい諸君には無料で教えてさしあげるので、これから言う私の家の電話番号を控えて、予め連絡の上訪ねて来なさい。

 私は三高で一心不乱に勉強してトップになった。私の家はど貧乏だったのでストーブなどなく、火の消えた炬燵で毛布を体に巻きつけて勉強した。まだほかにやることがあるのではと思ったがーーーいいか、ここが大事だーーーそれはすぐに打ち消した。そして教師に尋ねた。私のような天才を収容する日本一の大学はどこですか、と。それは東大法学部だと、教師は答えた。当然の如く、東大法学部に入ったが、私は裏切られた。貧しい教授陣と学問内容。それが私の天才の上にさらに積み重ねた労に対する唯一の報いだったのだ。

 また法に縛られる人間存在を、その存在方向でのみさらに強化するために、何でこの私が法律家にならねばならないか。医学部転部を勧めてくれた友人もいた。しかしあの病院と称する所へ行ってごらんなさい。あの大設備を抱えて癌すら治せないなんて。医者たちはそれだからこそ医学の対象とすべき領域は無限であるなどと言う。けれどそれは違う。己れと医学そのものの力量が有限であるという意味の裏返しに過ぎないのだ。対象が算術的に無限であることには何の価値もない。算術的である証拠に、ただ生かそうとのみ腐心するだろう、どんな患者に対しても・・・・・。この世界もやはり俗物しか集まらないわけだ。あんな不純な世界に入ったら、私の清くてもろい情熱など潰れてしまう。

 私にそれなら文学者になれ、と勧める向きもあった。だが私は言葉に絶望している。厳密に言えば活字に絶望している。私自身、これまで真に感銘を受ける書物に出くわしたことがない。いずれも、私の偉大な絶対性大原理からすれば足許にも及ばぬ。

 私の絶対性大原理は『語り』によってのみ伝達されうる。語ることによって私自身が昂揚し、存在そのものの呪縛から離れうる瞬間があるからだ。人は喋ったり咀嚼したりすることによって、脳を活性化するものだ。現在の私にはまだ到達できていないある段階が、こうして話し続けることによって、次の瞬間に到達できるかも知れないのだ。文字文化の遅々とした歩みなど、千年かかったとて、私の語りの、一秒後の高度な一回性に達しはしない。

 文学が文字表現である限り、私は文学などに見向きもしない。大原理はあくまで存在そのものを越える直截な表現でなければならないはずだ。

 諸君には、東大で挫折してもらいたい。そこで挫折すれば私のような偉大な傑物になれる。」

 僕らは笑いながらも、いつしか須磨の弁舌に魅了されていた。そして須磨宅の電話番号も真剣に書き留めていた。

 ああこの人は、本当に人間が好きなのだと思った。矛盾を濾過しない混沌たる純粋という逆説は、まさにこの人に当て嵌まるものだろう。僕らは彼の個性と自意識をすべて動員した外連昧のない励ましに応えようと、殊勝な意欲を燃やすのだった。

(院長註:35年前の予備校にも名物講師がいました。伝説の予備校、京都の近畿予備校で数学の永井先生と並び称された英語の橋本実先生の言葉です。第三回すばる文学賞受賞作品で1979年2月号の「すばる」に掲載されました。教え子が「受賞しました。」と電話をかけてきたそうです。「この小説の中で輝いているのは私の言葉だけだ。」と橋本先生言われてました。当時の近畿予備校は、京大医学部と京都府立医大の学生の3割は近畿予備校出身者と言われ、京大の他の学部にもかなりの学生を送り込んでいました。今は凋落してしまったそうですが。教えてもらっているだけに36年前は嬉々として読んでいましたが、今読み返すとただの誇大妄想狂のようにも・・・。)

独学のすすめ

週刊朝日2015.5.29 P98司馬遼太郎の言葉「風塵抄」の世界

 『風塵抄』に「”独学”のすすめ」という章がある。中学時代の司馬さんは、英語の授業でショックな出来事があった。教科書に「New York」という地名が出てきて、この地名にはどんな意味がありますかと質問したところ、

 「地名に意味があるか!」と、すごい勢いで怒られてしまったという。その先生、授業を妨害されると思ったのか、司馬さんが気に食わなかったのか、それともNew Yorkの意味を知らなかったのか、いまとなればわからない。どんな時代でも、ときどき理不尽な目に遭うことはある。

 〈まったく不愉快な思い出である。この日、家へ帰る途中、小さな市立図書館に寄って、司書の人に必要な本を出してもらって読むと、簡単にわかった〉

 もともとニューヨーク辺りはオランダの植民地で、ニューアムステルダムと呼ばれていたが、1664年にイギリスに占領された。当時の英国王の弟、ヨーク公の名にちなみ二ユーヨークと改称されていた。

 〈図書館にゆけば簡単にわかることが、学校では教師とのあいだで感情問題になってしまう。私の学校ぎらいと図書館好きはこのときからはじまった〉

 その後、英語は参考書で勉強することに決めた。嫌いな先生の使う教科書は見ないようにして、参考書の単語とセンテンスを丸暗記し、以後、英語の学力がかえって上がった。

 "独学癖"はその後も抜けなかったようだ。もちろん仲のいい先生はいたが、図書館通いは続いた。司馬さんが作家になっていく過程で、独学と図書館は重要だろう。

 もっとも独学は万能ではなく、ひとりよがりになる危険もある。

 〈この稿では、独学独思を勧めつつも、一方でいい先生につくに越したことはないと言い添えておく。ただし、そういう幸運にめぐまれればのことである〉

日本酒一日一・五合以下

「痛風はビールを飲みながらでも治る!」納光弘、小学館文庫、2004

P62

 以下に、アルコールと尿酸値の関係をまとめます。

その1 ビールは他のアルコール飲料に比べればプリン体を多く含んでいるが、しかし大した量でなく、ビールが痛風によくないというのは間違い。むしろ、尿量が増し、尿路結石をつくりにくくするなど、いい点もある。プリン含有量ではなく、アルコールの含有量を問題にすべき。

その2 少量のアルコール(日本酒に換算して一日一・五合以内)なら、ストレスを解消することによりむしろ尿酸値を下げる。

その3 日本酒に換算して一日三合程度のアルコールは腎臓からの尿酸排泄を抑制するため、尿酸値は上昇する。

その4 日本酒に換算して四合以上のアルコールを連日飲み続けると、尿酸排泄の抑制に加え、体内での尿酸の産生をも促進させるので、尿酸値はさらに高い値を保つようになる。

 以上がここまででわかったアルコールと尿酸値の明確な関係です。アルコールは、日本酒に換算して一日一・五合以内ならば尿酸値を上昇させないといういうことがポイントです。

 話は少しそれますが、この日本酒一・五合以内という数字は脳卒中の発症率においても一つの区切りとなるようです。過度の飲酒は血圧を上げますが、少量の飲酒は脳卒中の発生を抑える役割を持つ善玉のコレステロール(HDL)を増加させる作用があります。九州大学第二内科が福岡県久山町において長期にわたって行われてきた研究によると、一日に日本酒に換算して一・五合以上を飲む人は、全く飲まない人と比べて脳出血の発症率が飲酒量とともに増加し、また一・五合以下を飲む人は、全く飲まない人と比べると脳卒中の発症率に低下が見られたそうです。単純に一・五合以下ならばいいとは言えませんが、一つのキーワードとして日本酒一日一・五合以下と覚えておいてください。

日本では痛風は明治以降に出現

「痛風はビールを飲みながらでも治る!」納光弘、小学館文庫、2004

P34

痛風が”ぜいたく病”と呼ばれる理由

 以上のように古代・中世の西洋において歴史上の偉大な人物の多くが痛風によって苦しんだという記録が残っていますが、では、当時の一般市民も同じように痛風を患っていたのでしょうか。

 実はそうは考えられていません。当時から痛風は裕福な身分の人々に多くみられ、そのため、昔は”帝王病”や”ぜいたく病”と呼ばれていました。

 痛風を引き起こす尿酸値の上昇は、動物性たんぱく質(肉類、卵、牛乳など)を多く摂る人やアルコールをよく飲む人に起こります。痛風発作は尿酸値が上昇している状態が数年間以上続かないと起こりませんから、貧困状態が常であった過去にそのような飲食生活ができた人は相当に高い地位にいた人であると考えられます。つまり、一般市民で痛風にかかる人はほとんどいなかったのです。

 それと関連した事実として、痛風は世の中の栄養事情が良くなると増加し、反対に戦争などで悪化すると減少する傾向があるということがわかっています。

 では、西洋と同じように、日本でも痛風は古くから存在していたのでしょうか。

 実は、日本においては痛風は、明治以降に現れた病気と認識されており、それ以前には存在していなかったと考えられています。安土桃山時代に日本を訪れたポルトガル人宣教師のルイス・フロイス、明治の初めに来日したドイツ人医師ヘルツが、それぞれ日本には痛風がないと記録しています。

 痛風が日本で記録されたのは明治時代に入ってからで、実際に増えたのはつい最近の一九六〇年代以降なのです。

 そういうことから、大豆、魚、野菜が中心の和食から欧米風の肉類中心の食事に変化した現代の日本において、痛風が増加しているのは当然と言ってもよいかもしれません。

 実際、痛風はその件数を調べてみても、一八九八年に初めて報告されてから一九五九年までの六二年間で、八三例しか確認されていません。

 しかし、一九六〇年以降から急増しはじめ、厚生省(現・厚生労働省)の受療調査から推計した痛風患者数は一九七〇年には六八〇〇例、一九八四年には一万六〇〇例、一九九〇年には一万二七〇〇例となっています。現在では六〇万人を下らないと言われるまで、痛風患者数は増加し続けているのです。

 わが国の痛風患者が急増している背景には、食事内容が変化したことに加え、社会構造の変化により個人の行動パターンが変化してきたということもあげられます。

 また、わが国の成人男性の約二割が、痛風の基盤である高尿酸血症をもっていることが疫学調査で明らかになっています。

痛風は古代からの病気

「痛風はビールを飲みながらでも治る!」納光弘、小学館文庫、2004

P32

痛風は古代からの病気
 痛風は、世界的に見ると非常に長い歴史を持つ病気です。とくに西洋においては、古くからあるおなじみの病気なのです。エジプトから発掘されたミイラの関節の中に尿酸塩を見つけたという報告もあれば、医学の父と呼ばれるヒポクラテスが残した文献にも痛風についての報告があります。歴史上の人物をあげても紀元前四世紀の古代マケドニアの英雄アレクサンドロス大王をはじめ、神聖ローマ帝国皇帝のカール五世(スペイン王・カルロス一世)、プロイセン国王フリードリヒ大王、フランス国王ルイ十四世、宗教改革のルター、清教徒革命のクロムウェル、芸術家ミケランジェロ、モナ・リザの作者であるレオナルド・ダ・ビンチ、詩人のダンテやミルトン、文豪のゲーテ、スタンダールやモーパッサン、天才物理学者ニュートン、博物学者ダーウィン・・・・・痛風に苦しんだ人物をあげたらきりがありません。

ヒトは直立歩行のため寿命を全うできない

「追いつめられた進化論」西原克成、日本教文社、平成13年

P6

 人体は四〇〇〜六〇〇万年前頃から言葉を使い、直立二足歩行をするようになり、体中の骨格のみならず、すべての器官が力学対応して、猿人の型からヒトの型へと変化した。その変化の仕方は、もちろんウォルフの法則に従っている。哺乳動物の特徴は、鼻と気管が、どんな時でもつながっていることである。だから呼吸をしながら、食べ物を嘸み込むことができる。人間のように、喉に餅がつかえたり、むせることはない。

 ヒトは言葉を使うようになり、口で呼吸ができるようになった。気道と食道がこれで交差した。だからむせる。口呼吸では鼻も喉も駄目になる。免疫の要であるワルダイエル扁桃リンパ輪は、古代魚の第二鰓腺の造血器に由来するが、ヒトだけが立派に発達していて、他の哺乳類は、痕跡程度でその存在が確認できない。

 直立二足歩行のため、人類は哺乳動物の掟である「成長完了期内の五倍の寿命」を全うすることができない。ヒトは二四歳で生長を終えるが、せいぜい四倍の九六歳まで生きれば長生きする方である。五キログラムある頭と、四、五〇キログラムある胸と腹を、一・五メートル上に持ち上げる「位置のエネルギー」が四足獣にくらべて大きいので、血圧を相当に高くしているため、ヒトには心臓麻痺が多発する。 

どんなに稼いでも幸せになれない

「脳内麻薬」中野信子、幻冬舎新書、2014

P149

(前文略)イギリスのウォーリック大学心理学部、クワス・ボイス博士らの調査により、自分の年収が前年より上がっても、周囲と比べてより収入が多くないと幸福は感じない、ということが明らかになりました

 ボイスの調査では、「所得」より「所得順位」(性別・年齢・教育レベル・居住地域などが同じ人々の集団の中での順位)のほうが、「生活満足度」にずっと強く相関することがわかったのです。つまり、「いくら稼いでいるか」より、「周囲と比べてどれだけ稼いでいるか」が、幸福を感じるかどうかには重要だというわけです。

 お金持ちになって生活レベルが上がってしまい、お金持ちの友人とばかり付き合うようになった、もっとお金を稼いでもっとお金持ちの友人とばかり付き合うようになった、ということを繰り返していると、どんなに稼いでも幸せにはなれないということになってしまいます。

 却ってお金持ちになどならず、身の丈に合ったつつましい生活を続けていったほうが、より幸福に近づけるのかもしれません。

年収と幸福感は相関しない

「脳内麻薬」中野信子、幻冬舎新書、2014

P140

年収と幸福感は相関しない

 金銭的報酬のうち、もっともわかりやすいのはサラリーマンの年収でしょう。会社に勤める理由はいろいろあると思いますが、給与を得て生活の糧にすることはもっとも大きな動機でしょう。

 昨今の不況で、いわゆる一流企業も赤字に転落するところが見られ、サラリーマンが安定した収入を確保するのはますます難しくなっています。しかし、年収が仕事の満足度に直結しているかというと、必ずしもそうはいえないのです。

 上のグラフ(院長註:省略しました)は、ある大手就職情報サイトが20代、30代のビジネスパーソン500人に年収別に「今の仕事にやりがいを感じますか?」という質問を行ったものです。

 驚くべきことに、年収300万円未満の人と700万円以上の人が仕事に感じる「やりがい」はほとんど同じ、むしろ年収の少ないグループのほうがやりがいは大きいのです。

 また、年収と幸福感についての次のような調査があります(上のグラフ(院長註:省略しました)参照)。 大阪大学のCOE(Center of Excellence)プロジェクトの一部として20〜65歳までの6000人を全国から2段階抽出し、世帯年収別に「幸福感」を尋ねたものです。

 それによると所得1500万円までは、所得とともにゆるやかに幸福度が上昇しますが、それを超えるとむしろ低下します。また、500万〜900万円、1100万〜1300万円の世帯の幸福度はほぼ同水準で、必ずしも年収とともに幸福感が高くなるわけではありません。

(院長註:フェスティンガーの認知的不協和理論のところでも同じようなことをいっていましたね。)

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