「精神科にできること」野村総一郎(院長註:防衛医大精神科教授)、講談社現代新書、2002
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ザーケル(一九〇〇〜一九五七)のインシュリンショック療法は画期的である。インシュリンはご存知のとおり本来は糖尿病の治療に用いられる薬であり、これを打つと血糖値が低下するが、間違って大量に与えると、極端に血糖値が下がり、患者は昏睡に陥ってしまう。インシュリンショック療法は、精神障害者にインシュリンを大量に投与し、タイミングをみて糖分を注射して、昏睡から覚ます方法である。この方法で精神障害は明らかに改善し、またたくまに全世界で統合失調症の治療法として一般的な治療法となっていった(この方法が発表されたのは一九三五年のことだが、わが国でも一九三七年にはすでに行われるようになっている)。
ザーケルはどのようなことから、この方法を考えついたのだろうか? もちろん背景がある。昔からヨーロッパでは精神障害者にショックを与えたら病状が良くなる、ということが言われていて、実際に精神障害者をびっくりさせたり、恐がらせたりする治療法が大真面目で行われていた。今から考えると、まことに滑稽でもあり、患者の立場からすればいささか残虐な方法のようにも思えるが、たとえば患者に池の上にかかる橋を渡るように言い、患者が橋の中央まで来た時に突然橋板を抜いて患者を池の中に落とす、「びっくり橋療法」というのがあった。またもっとひどい治療法になると、へびのたくさんいる穴に患者を突き落として恐怖心を味わわせる、という方法まであった。患者はびっくり仰天し、恐怖するが、その後で症状はかなり改善するというのである。これらには別に患者を虐待する意図はなかったにしても、人道的とはとてもいえない治療法である。
こういう方法をもっと医学的にできないか、というのがザーケルの発想だった。びっくりさせる、恐がらせるというのは、生理学的にはショックを与えるということである。それをインシュリンの大量投与で行おうということである。病室で医者が注射し、その管理下で覚醒させるという風景はいかにも医学的であり、新時代の到来を思わせるものだったし、効果の方も従来の前近代的なショック療法よりはるかに優れていた。そこでこの方法は随分長く用いられ、一九六〇年頃までは比較的一般的に行われていた。私が精神科医になりたての頃に指導を受けた先輩医師には、実際にこの治療法を行った経験のある人がいた(私白身は一度も経験がない)。その話を聞くと、インシュリンの量や糖分を注射するタイミングを間違えると非常に危険で、しかもそれを見定めることがきわめて難しかったという。つまり効果はともかくとして、安全性という点に大きな問題をかかえていたわけだ。
同じショック療法でもインシュリンショックよりははるかに安全なのが、電気けいれん療法である。これは後に詳しく述べるように、今日でも方法が大幅に改良されて行われているが、原点はやはりショックを与えて治すという発想である。これを最初に行ったのはチェルレッテイというイタリアの精神科医で、一九三八年のことだった。頭に電気を通して、人工的にけいれんを引き起こす方法である。これは特にうつ病に大きな効果をあげた。危険性は案外低く、麻酔をきちんと行うので苦痛もない治療法だが、けいれんを引き起こすなど、見た目が残虐なので、ある時期あまり行われなくなっていた。これがけいれんを起こさなくても済む新しい方法に改良され、再び見直されているのは後に述べるとおりである。
(院長註:作者は1949年生まれだそうです。)