リズムの共振

「かたちのオディッセイ エイドス・モルフェー・リズム」中村雄二郎、岩波書店、1991

P17

 ところで、私がかたちの問題の一つの展開としてリズムの問題を考えるようになり、それがさらに〈共振〉の問題へと進むようになったいきさつは、こうである。すなわち、さまざまな相互行為や相互作用についていろいろと思いめぐらしてきて、ものごとの知覚や認知、そして理解・了解ということは、リズムの共振をなによりも前提とするのではないかと思うようになったのである。俗に人と人との間でウマが合うとか、合性がいいとか、また体で知るとかカンが働くとかいわれるのは、そういうことではなかろうか。このことは学習や教育の場でも、医療や意思疎通・情報伝達の場でも、明らかに見られるところである。

宇宙の根原現象〈らせん〉と〈リズム〉

「かたちのオディッセイ エイドス・モルフェー・リズム」中村雄二郎、岩波書店、1991 

P117 

 三木成夫氏は、没後に刊行された著作集『生命形態の自然誌』第一巻(一九八九年、うぶすな書院)所収の『生命の形態学』のなかで、「宇宙の根原現象」としてくらせん〉と〈リズム〉を真っ向から扱っている。さいわいなことに、ここには、三木氏の螺旋への関心がほかならぬリズムと結びつけて示されているので、それについてふれておこう。
 三木氏は書いている。
 ゲーテは最晩年に、植物の生長過程に見られるラセン形成の強い傾向を鋭い直観によって捉え、そこに秘められた〈生の根本原理〉をもののみごとに洞察した。それは、詩人八十余年の体験から発した〈瞬間のひらめき〉であろうか。しかし、ラセン形成は植物だけではない。われわれの体表を飾る無数の毛幹も、毛流を形成し、やがて頭の頂点で渦巻いて終わっている。
 広く動物を見れば、おどろくほどのラセンが渦巻いているのに気がつく。羊の角、マンモスの牙、伸ばし過ぎた爪、そして血管はもちろん腸管も尿管も卵管も精管も、それらの管壁をつくる互いに交錯した各層の繊維とともに、すべてラセンを描いて走る。最近では電子顕微鏡が、一本の神経繊維についても、そこにみごとなくへその緒〉のようなラセン形を捉えている。染色体の二重らせんにしてもそうである。
 いや、ラセンの渦巻きは生物の世界だけにとどまらない。地・水・火・風のいずれにも見られる。火山の噴煙、台風の渦、ジェット気流、濁流など、みなそうであり、さらには、星雲の世界にまで及ぶ。極大の世界とともに極微の世界にも渦巻きがあることがうかがわれる。
 しかし、太古からこの宇宙的な渦巻き現象をひとが知らなかったわけではない。賢者の眼がそこに注がれていたことは、古代ギリシアの箴言《パンタ・レイ(万物流転)》や、古代インドの《輪廻転生》を見ればわかる。ともに宇宙の実相を渦巻きに見立て、無常回帰のこの世の姿をそこに表象したとしか思われないからである。日本の神話の〈ウルワシノアメノウズメ〉といった神々の名も、同じ捉え方をしていたことを示している。
 このように渦巻きは、宇宙の根原現象として太古から〈流れ〉にたとえられ、今日に至ったが、それをクラーゲスは端的に〈リズム〉と表現している。すなわち、リズムの語源はrheein(流れる)に由来し、したがって、リズムはなによりも、水の面に拡がる波の動きによって示される、と。
 ところで、空間的なラセンの渦を時間的なリズムの流れによって捉えなおしてみると、宇宙の森羅万象は大きな〈二つの流れ〉の交錯から成っていることがわかる。一つは四大、地・水・火・風の奏でる壮大な自然のリズムのハーモニーである。一年のリズム(四季の移り変わり)、一月のリズム(月の干満、潮の交替)、一日のリズム(昼夜の交替)のほか、水の波・電磁波・音波・地震波から周期的な気象変動・地殻変動、さらには氷河期のくりかえしに至る長短さまざまのリズム波が知られている。
 宇宙のリズムの一つが、このような四大のリズムであるとすれば、他の一つは植物・動物・人間の奏でる生物のリズムである。そして、ここにもまた、これらの膨大なハーモニーがある。眼をまず体内に向ければ、自己の生をつよく実感させる心臓の鼓動と呼吸の波動に出会う。次いで、内臓の諸器官や各種の細胞の描き出す色とりどりのリズムにゆきあたる。一方日常生活に眼を向ければ、そこでは休息と活動、睡眠と覚醒の交替、それらの振幅の周期的な増減、〈調子の波〉のくりかえし、病気の時節的な到来、人生の〈節目〉など、数多くのリズムが交差して見られる。
 しかし、ここで、あらためて眼を自然の動植物の姿に向けるとき、そこに、以上見たどれよりも色鮮やかな〈生命の波〉が連綿とつづくのが見られる。それこそ、〈食と性〉の位相交替のリズムである、と。

国立競技場・新国立競技場

 連日国立競技場と新国立競技場のニュースが流れていますが、国立競技場を統括しているところのトップが、以前このホームページでも紹介しました河野一郎日本スポーツ振興センター理事長です。この前も竹田恒和JOC会長や森喜朗元総理らと会議している場面や個人でインタビューを受けているところが放映されていました。ラグビー部の先輩です。東京医科歯科大学医学部を卒業後、筑波大学の体育学系の教授を務められました。2015年のラグビーワールドカップ日本招致に中心メンバーで活動し、イングランドに敗れはしましたが、2019年の日本招致成功に結びつけました。2016年の東京オリンピック招致委員会事務総長を務められ、リオデジャネイロに敗れはしましたが、2020年の東京オリンピック招致成功に結びつけました。2015年のラグビーワールドカップ招致失敗前後の動向をラグビー部の部誌に投稿され、手に汗握って読ませていただきました。院長の在学中は筑波大学に出られていて、接触する機会はなかったのですが、卒業後一度遠めにお見受けして、お顔だけはわかる程度の先輩ですが、活躍されているのを見るとうれしくなります。ますますのご活躍をお祈りしています。

馬場

「街道をゆく3陸奥のみち肥薩のみちほか」司馬遼太郎、朝日文庫、1978

P166

 馬場というのは、道路のことである。道路の両側に武家屋敷を置きならべる場合、その道路は通りとはいわず、馬場と称される。

過去の賜物

「カンブリア宮殿村上龍×経済人2できる社長の思考とルール」(著)村上龍(編)テレビ東京報道局、日経ビジネス文庫、2010、P279、日本最大のタクシー会社日本交通社長川鍋一朗

川鍋 (前略)ある弁護士の先生にずっとお世話になっていたのですが、会社が生き残った時に、その方から言われたんです。「自分がやってきた何百件という案件の中で五指に入るほどうまくいった」と。「君、何でかわかるか」「わかんないです」という話になって、「君もがんばった。僕もがんばった。だけどこれは、この会社が過去に積み上げてきた徳によって、もう一回チャンスを与えられたんだ」と言うわけです。「何でそんなことがわかるんですか」と聞くと、「いろいろな会社の再生をやっていると、ここで勝たなきゃいかん、という時がある。そういう時に、うまくいっているようでダメになる会社と、ダメそうでも必ず神風が吹く会社とある。日本交通は後者だ。ヤバそうでも必ずポイントのところでうまくいく会社は、過去にいいことをしてきたからだ。だから川鍋君、復活した暁には君はもう一度、徳を残さなければいかん」と言われました。 

村上 すばらしい弁護士さんですね。
川鍋 ええ。自分もがんばったけれども、やはり全員で積み重ねてきた、過去の賜物だと思いました。

恥の合理化

 どなたにも印象に残る言葉があると思います。院長にもいつまでたっても忘れない言葉に「恥の合理化」があります。大分前の「ホンマでっか!?TV」を見ていたら、心理学者が嘘をつく人の4条件の一つにこの「恥の合理化」を挙げていました。この言葉が何故か忘れられません。平気で嘘をつきまくる人を見て、この人には恥とか卑怯とか言う概念がないのだろうかと疑ったことがあります。恥を何らかの理由を付けて誤魔化すのが上手な人なんでしょうね。「恥の合理化」うまいこと言うなあと感心しました。記憶に残っています。

卑怯

「日本人への遺言」司馬遼太郎、朝日文庫、1999

P74

司馬 (前略)今「卑怯」という言葉を使いましたけれども、日本人が明治の中ごろまで一番いやな言葉は卑怯という言葉だったんですね。西郷と大久保は東京で決裂して、やがて西南戦争になるのですが、大久保からみると西郷にはわるい癖があって困難なときがきたら大久保に任して引っ込む男だということなんですね。それを大久保が満座の前で指摘して、「卑怯でござろう」と言った。これは言うべからざる言葉です。西郷は帰ってこなくなった。 しかし、今のわれわれは卑怯という言葉に鋭敏じゃないですね。江戸期のさむらい気質、町民、百姓も含めたものですが、そういうものはいまは薄いものになっている。しかし、それこそ輸出するに値する文化だと思う。日本人はあまりしゃべらないけれども、キャラクターとして立派な人たちだ、見ていて気持ちがいいというのは一つの魂の輸出になると思うんです。海外で働いている企業の人たちの中には立派な人もいるらしいですね。

先崎学(将棋棋士)氏の兄

 今週号(平成26年5月22日号)の週刊文春、新・家の履歴書に将棋棋士の先崎学氏が出ていましたので思い出しました。彼の兄先崎章君は院長の同期医学部でした。彼も硬式テニス部でした。ある会合で上京した折、別の同級生が教えてくれました。「週刊文春に連載を持っている将棋の先崎学って知っている?」「『先ちゃんの浮いたり沈んだり』だろ、よく読んでいるよ。」「あれ寮にいた先崎の弟らしいよ。」「本当に!」

 先崎学氏自身が「兄は東京医科歯科大学卒業」とどこかに書いてあるのも見たことがあります。

 ネット情報によると先崎章君は精神科医になり、現在東京福祉大の教授をしているそうです。

薩摩隼人

「街道をゆく3陸奥のみち肥薩のみちほか」司馬遼太郎、朝日文庫、1978

P181

 もっとも私には、もう一枚これとは別な薩摩人についての経験がある。私にとって先生とか教官とか隊長とかいったような人たちに、奇妙なほど鹿児島出身の人達が多かった。私にモンゴル語を教えてくださった先生もそうだし、軍隊に入って初年兵という惨憺たる境遇の中で初年兵教官としてわれわれを教えてくれた人もそうであった。また見習士官で赴任したときの最初の中隊長もそうで、この人は目を見はるほどに薩摩隼人らしい人だった。やや長じて、べつにそれまで文学青年でもなんでもなかった私ににわかに小説を書く勇気をあたえてくださった人ーーー海音寺潮五郎氏だがーーーもそうである。私にとっていつも自分の履歴のまがり角に薩摩人が立っているというぐあいであった。これらのひとびとはひとに対するときはかならず微笑をするという共通の表情をもっている。それも唇を閉じたままくちの両はしにすこし微笑を溜めるという独特のもので、他の地方のひとにはこういう微笑法はない。
 むかしの薩摩では、
「三年に片頬(かたふ)」
 といわれた。武士はげらげら笑ってはいけない。三年に一度ぐらい、それも片頬だけで笑え、というものだが、歯をみせて笑わないにせよ、薩摩人はひとに接するときにはたえず微笑をしていたように見える。西郷という人もそうであったらしい。元来、薩摩の士族言葉というのはじつに優美なもので、音韻的にも母音が多くてやわらかであり、抑揚も音楽的で、ひとに対する優しさのみを表現しようとして出来あがったものではないかとさえ思えるほどのものである。歴史的薩摩人というのは敵人に対して異常にやさしかったということはすでに触れたが、全体に心優しさというものが薩摩の気風の特徴であったかとおもえる。私のまがり角にいた薩摩びとたちも心優しさという点では例外なしに共通しており、とくにひとの性癖上のきずや失敗についてはじつに寛容なのである。それらのひとびとはいま五十五歳から七十余歳になられているが、薩摩隼人の伝統というのはその時期までのものであったのだろうか。

硬式テニス部OB

 平成26年5月11日(日)に全国共通がん医科歯科連携講習会が熊本県歯科医師会館でありましたので行ってきました。がん患者さんの歯科治療や口腔ケアの注意点をDVDで研修するというものです。勉強にはなりましたが、9:00〜13:00の4時間は疲れました。DVDの中で東京医科歯科大学大学院臨床腫瘍学教授が講師として出てきましたので、知っているかもと目を細めてよーく顔を見てみたら、三宅智くん、一年後輩医学部でした。男子寮で一緒に生活していました。硬式テニス部で真っ黒になりながら走り回っていました。「ガッハッハ」と豪快にいつも笑っていたのを思い出します。ラグビー部も数多く教授を輩出していますが、硬式テニス部もすごい。歯科医師で東北大学医学部教授で日本分子生物学会理事長の大隅典子さんは1年先輩。医師で九州大学医学部教授で日本分子生物学会副理事長の中山敬一君は同期です。この2人は最近STAP細胞問題への発言で注目をあびています。みんなすごいなぁ。

基礎訓練に欠ける日本の大学院

「精神と物質 分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか」立花隆、利根川進、文春文庫、1993

P53

ーーー学部を卒業してから、ウイルス研の渡辺格さんの研究室に大学院生としてお入りになるわけですね。 

「分子生物学をやるためには大学院にいかなければならない。しかし、当時の日本では、大学院でも分子生物学をやっているところはごく限られていた。渡辺格さんのところ以外では名古屋大学の大澤省三さん(現・名古屋大学教授)、広島大学の柴谷篤弘さん(現・京都精華大学教授)、阪大の野村真康さん(現・カリフォルニア大学アーバイン校教授)のところなんかがめぼしいところだったかな。そこをぼくは、いまから考えてみてずいぶんガッツがあったと思うんだけど、どれが一番いいかいちいち訪ねていって見学させてもらったんですよ。その結果、やっぱりウイルス研が一番だと思った。面接試験でそういったらとってくれました」 

ーーーそれでいよいよ分子生物学の勉強が本格的にはじまったわけですか。 

「いや、それがねえ、日本の大学院というのは、ちゃんとした教育機関になってないんですよ。工学系とか文学系とか、他の系統の大学院は知りませんよ。しかし理系の大学院はそうなんです。学生を教育しない。だいたい講義というものがないんです。はじめから、みんな自分はもう大学を出たんだからと、一人前の研究者のような顔をしているし、表面上は先生からもそう扱ってもらえる。だけど実際には、科学者として本格的に研究していくための基礎的訓練をきちんと系統的に受けていないわけです。一種の徒弟制度で、教授、助教授の研究を手伝いながら、見よう見まねで覚えていく。この研究はどこがどう大切なのかをじっくり自分で考えるとか、実験結果について徹底的にディスカスするとか、そういう訓練がない。だから科学研究の本当の基礎が欠けた研究者ができてしまう。日本の基礎科学が弱い原因はこのあたりにある」

ーーーアメリカはちがうんですか。  

「全然ちがいます。たとえば、ぼくがいまいるMIT(マサチューセッツエ科大学)の場合、大学院に入ると最初の一年間は全部講義です。実験は全然しない。二年目から教室に配属されて実験をする。非常に厳しく訓練される。そして、二年目の終りに、五、六人の先生から徹底的なロ頭試問を受ける。それに通らないと、落第です。だいたい大学院生を一人前の研究者として認めていない。日本でいうと高校生くらいの扱いです。徹底的に訓練する。日本とアメリカをくらべると、高校生までは日本のほうがいい。日本のほうが厳しく教育している。しかし、大学、大学院の教育はアメリカのほうがほるかに厳しい。だから、大学院までいくと、日本とアメリカは完全に逆転する。アメリカのほうが優秀な研究者が沢山出る」 

ーーーそれじゃ、分子生物学をやるといっても、分子生物学とはどういう学問で、どれだけの領域の広がりがあり、最先端の部分はそれぞれどこまできていて、あとどんな問題が残されているのかとか、基本的研究技術としてはどういうものがあるのかとか、そういう基礎的訓練をシスティマティックに大学院生に与えるということはなかったんですか。 

「ありません。そういうシスティマティックな訓練というのは、日本ではいまでもないと思いますよ」 

ーーーじゃどうしたんですか。

 「結局、ぼくの場合は、全部こちらに留学してから学んだんです。日本にいる間は、ほとんど何も学んでないに等しいですね。だいたいウイルス研にいたのは、ほんの半年くらいで、すぐに留学してしまったんです」

九州人

「街道をゆく3陸奥のみち肥薩のみちほか」司馬遼太郎、朝日文庫、1978

P180

 私は兵隊の一時期、九州七県の出身者ばかりの連隊にいた。そのなかでもっとも個性的なのが熊本県人で、容貌にもつよい共通点があり、また北九州の連中とくに博多や若松あたりの出身者になると行動の歯切れがよくて、いわば小気味のいい連中が多かった。そういう七県のなかでもっとも無個性で、どちらかといえばふにゃっとした感じの、強いて特徴をいえば大阪のボンボンのような感じの連中の多いのが鹿児島県出身者で、およそ世にいわれるところの薩摩隼人から遠いイメージの青年が多かった。なぜこういうぐあいなのだろうと、なにしろ生死を共にしなければならない環境の中だけに、ちょっと深刻に考えこんだことがある。

万物の根源はリズム?

「養老孟司・学問の格闘 『人間』をめぐる14人の俊英との論戦」日経サイエンス編、日本経済新聞社、1999

P178

●万物の根源はリズム?
養老―ーー振動に注目して嗅覚(きゅうかく)のモデルをたてられたというお話を聞くと、感慨深いものがあるんです。もう亡くなられてしまったんですが、東京芸術大学で教授をしていた解剖学者で三木成夫さんという先輩がおられて、その方が晩年に行き着いたのが、極端な言い方をすれば「万物の根源はリズムだ」ということだったんです。哲学者の中村雄二郎さんが、それにいたく共鳴されて、二人でリズムの話をよくしていました。一〇年以上前の話です。
 私は、そのころまだ脳についての仕事を十分にはしていなかった。でも、そういう人たちが、直観的に考えて、脳の機能の基本にはリズムがあると主張するのは面白いなと感じていたんです。当時は、リズムということがあまり注目されていなかったから、この主張の意義は大きかった。木村さんの研究の話は、三木さんが生きておられたらきっと喜んだと思います。
木村ーーー脳のリズムということが注目されるようになったのは、視覚の研究が最初だと思います。脳の一次視覚野のリズムは眼球の動きのリズムと対応していて脳自身がリズムをつくり出しているという説ですが、これを支持するような実験を八年ぐらい前にドイツのウォルフ・ジンガーが報告しました。それ以来、リズムということが盛んに言われるようになったんです。
 ナメクジの嗅覚系の振動は、米ベル研究所の研究者アラン・ゲルペリンが見つけ、それに私たちの研究成果も加わって結構知られるようになりました。バッタの場合も、においがくると、それに関係した細胞群の活動が振動するという報告があります。それにナメクジでは、嗅覚の入力によって自分の行動を決めているわけですが、体を動かすときの基本となるのはやはりリズムです。こういう下等な生物が使っていたリズムが、進化の過程で勝手にひとり歩きするようになって、脳全体の働きを支配するようになったのかもしれません。聴覚も入力自体が振動ですし……。
養老ーーーやはりそこにたどり着きますね。脳の働きの基本はリズムだというときの根拠のひとつは、聴覚と運動なんです。運動は、体の部分をリズミカルに動かしていくものだから、聴覚と同期させやすいですね。体操は号令をかけてやるもので、音を消したテレビを見ながらではうまくいきません。

おもしろおかしく

「カンブリア宮殿村上龍×経済人2できる社長の思考とルール」(著)村上龍(編)テレビ東京報道局、日経ビジネス文庫、2010、P148

「おもしろおかしく」(院長註:堀場製作所の社是だそうです。)

神経伝達物質

「脳にいいことだけをやりなさい!頭のいい人は『脳の使い方』が上手い!」マーシー・シャイモフ(著)茂木健一郎(訳)、三笠書房、2008、P144

 栄養心理学の専門家ジュリア・ロスは、私たちの不幸の原因は「危機的な栄養不足」にあると述べています。
 彼女によると、幸せをうながす4つの神経伝達物質を増やすことが大切だと言います。
 これらの神経伝達物質はすべてアミノ酸をエネルギー源にしており、神経伝達物質の一つでも少なくなると、身体に何らかの問題が生じてくるのです。

○「セロトニン」が多いと、前向きで、自信にあふれ、適応力があり、穏やかである。
○「セロトニン」が少ないと、ネガティブな考え方をしがちで、強迫観念を抱き、不安や焦燥感に駆られ、熟睡できない。

○「カテコールアミン(ノルエピネフリン、ドーパミン、アドレナリンなど)」が多いと、エネルギーにあふれ、明るく機敏である。
○「カテコールアミン」が少ないと、生気がなく、憂うつで、反応が鈍い。
○「GABA(ガンマアミノ酪酸)」が多いと、リラックスしていてストレスを感じない。
○「GABA」が少ないと、緊張し、ストレスを感じ、気分が沈みがちである。
○「エンドルフィン」が多いと、気分がよく、喜びや幸せを感じる。
○「エンドルフィン」が少ないと、涙もろく、ちょっとしたことで傷ついてしまう。

(院長註:院長はセロトニンが少ないとうつ病、ドーパミンが多いと統合失調症、不眠、ドーパミンが少ないと不随意運動のパーキンソン病、パーキンソン治療薬で不眠、統合失調症などに効く抗精神薬はドーパミン遮断薬なので歯医者を悩ます舌の不随意運動ディスキネジアを起こすと覚えています。) 

成功の女神を喜ばせる方法

「カンブリア宮殿村上龍×経済人2できる社長の思考とルール」(著)村上龍(編)テレビ東京報道局、日経ビジネス文庫、2010、P92

大林豁史(ひろふみ)日本レストランシステム会長

村上 人生の成功者とか成功する人生っていうのを定義するのはとても難しいと思うのですが、自分が思う成功する人生では、こういう条件が必要ではないかというのを挙げていただけないでしょうか。
大林 限りなく中小企業に近い会社の経営者として、僕は一番大事なのは運だと思っています。成功の女神というのはいると思うんですよ。だから成功の女神が嫌がるようなことはしない。ジェット機を買ってタレントさんとどっかに行っちゃうとか、そういうことをしたら、成功の女神が怒ると思いますね。
村上 成功の女神が喜ぶことで、一番わかりやすいのはどういうことですか。
大林 ちょっと変なのですが、実は親孝行だと思うんです。こういうことを言うと照れちゃうんですけども、親を大事にできないような人は成功しないんじゃないですか。親のもっと上に、先祖がいますよね。僕は墓参りフェチなんですよ(笑)。
村上 お墓参りがお好きなんですね。
大林 好きなんです。そんなことやっていると、成功の女神が何かいいようにしてくれるのかなと。

体にも方位がある

「養老孟司・学問の格闘 『人間』をめぐる14人の俊英との論戦」日経サイエンス編、日本経済新聞社、1999

P74(井上京子慶応義塾大学理工学部教授)

●体にも方位がある
井上ーーー最近、もう一つ興味をもっているのは、日本には、自分の体に東西南北を当てはめて表現する人がいることです。知り合いの歯医者さんが、「東の歯が痛いから診て下さい」という患者さんがいると教えてくれたのです。そういう表現をするのはだいたい七〇〜八〇歳以上の方のようですが。
養老ーーーそれはきっと、漢方の考えが入っているのだと思います。私は、室町末期のものだといわれる漢方の本をもっていますが、その挿絵に、人体に方位を当てたものがあります。頭には朱雀、お尻には玄武というふうに四神で方角が示してある。江戸時代の沢庵の書物にも似たような図があります。
井上ーーーそれは知りませんでした。この地域の古いお話の本には、「丑寅のいす」というように子、丑、寅などの方角で身の回りのものの位置を示す表現が出てくるので、日本人はもともとは東西南北派だったのかとも思ったのですが。
養老ーーーそういう言い方をするのは、きっと風水の影響でしょう。風水で良いとされるような、例えば、北に山があって南西に川が流れていてというような地形のところに住みついたから、初めから方角というものを強く意識していたのではないでしょうか。
井上ーーーそうかもしれません。風水の影響ってずいぶん強いんですね。ところで、そういう文化的な説明とはぜんぜん違うのですが、電子工学の先生から、東西南北がよくわかる人の頭の中には、磁極が把握できる素子みたいなものがあるのではないかと指摘されたことがありますが………。
養老ーーー生まれた川に戻ってくるサケの頭の中には、確かに、磁石があるそうです。仮に人間の頭の中にあったとしても、そんなに不思議ではない。でも、この問題も含めて、空間を右左で把握するか、東西南北で把握するかという違いを脳の働きに帰するのは、先ほどお話したように、先の長い仕事だと思います。
 これに少し関係するのかなと思うのは、片側失認(へんそくしつにん)という病気の患者さんが西洋人に多いことです。この病気は、右側か左側のどちらかを認知できなくなるんです。見えている側だけがすべてで、反対側を無視しますから、絵を描いてもらうと右側なら右側の景色だけを描く。日本人にはあまり例がないんです。西洋人のほうが、右左で把握する傾向が強いからかもしれませんね。
井上ーーー日本語の場合、右左という言い方もしますし、東西南北という方向感覚もあって、ランドマークになるような建物を使ったカーナビゲーションシステムも作られています。右左と東西南北を人々がどう使い分けるのか。どういうところでどちらを使ったら、より効果的に伝わるのか。コミュニケーションの場での空間把握の使い分けをまず探りたいと思っています。 

空間を把握するときの方向感覚

「養老孟司・学問の格闘 『人間』をめぐる14人の俊英との論戦」日経サイエンス編、日本経済新聞社、1999

P64(井上京子慶応義塾大学理工学部教授)

養老ーーー私は方向感覚がいいほうでなくて、今いるこの部屋で、東西南北がどちらになるのかよくわかりません。
井上ーーー私もそうです。ところが、日本でも地域によっては、そこの住民みんなが東西南北をよく把握しているところがあるんです。そこでは、地理的な方向を言うときだけでなく、身の回りの物を指すにも東西南北が使われるんです。例えば学校で、「南に机をそろえて並べなさい」と言われる。もちろん、我々が普通に使う右、左という表現も使われるのですが・・・・・・。
養老ーーーそれは神戸のことじゃないですか。
井上ーーーそうですね。それと特に高知があげられます。東西に長くて南を海、北を山にはさまれたところでは、東西南北がすぐにわかるからなのでしょう。
養老ーーー実は、東大にいたとき、私の教室で東大の前の本郷通りがどの方向に走っているかという話になったことがあるんです。実際は南北方向なんですが、神戸出身の学生が東西だと言ったんです。それで「神戸は山と海の間の一次元の街だから、方角なんか考えなくていいんだろう」って、みんなで笑ったことがあったんです。

引き寄せの法則

「脳にいいことだけをやりなさい! 頭のいい人は『脳の使い方』がうまい!」マーシー・シャイモフ著、茂木健一郎訳、三笠書房、2008、P47

●引き寄せの法則ーーー今ある「豊かさ」を認めれば、もっと豊かになれます
 この法則をわかりやすく言えば、「好きになったものが自分の周りに集まってくる」ということ。

 何かを好きだと考えたり感じたりすれば、それはまるで磁石に引きつけられるように自分に引き寄せられてきます。
 それはまるでスポンジのよう。今の幸せを大切に思えば、それはどんどん次なる幸せを吸収して膨らんでいくのです。
 この法則を聞きかじった人の多くが、理想の家や車など、まず自分を幸せにしてくれそうな「モノ」を引き寄せようとしますが、それは本末転倒です。
 この法則の基本は”幸せであることが、望むものを引き寄せる”ということです。まずあなたが「今、幸せだ」と思うことが前提なのです。
 その幸せのエネルギーが強力な振動をつくり、欲しいものを引き寄せていきます。
 それはいったいどういうことでしょうか。
 たとえば「お金がない」から「お金が欲しい」と思うと、絶対にお金は貯まりません。
 「つまらない人生だ」から「もっと幸せになりたい」と思うと、いつまでたっても人生は好転しないのです。
 「愛されていない」から「愛されたい」と思うと、いつまでもその愛は手に入りません。
 「欠けているもの」や「足りないもの」に目を向けないでください。
 悲しいときや満たされないときにでも、ひたすら感謝の種を探し、どんなに小さな進歩でもそれを喜ぶようにするとすごいことが起こります。
 「私って恵まれているなあ」「私って幸せだなあ」と思っていると、次から次へと幸せがやってきます。人生を大きく変えることができ、「わけもなく幸せ」な日々を引き寄せることができるのです。
 「引き寄せの法則」を使いたいとき、私かいつも心の中で唱える言葉があります。それは「目標・注目・リラックス」です。
 ・目標ーーー今よりもっと幸せになることを目指しましょう。
 ・注目ーーー「幸せ」に注目しましょう。日々幸せの習慣を実践しましょう。
 ・リラックスーーー肩の力を抜いて、成果を待ちましょう。

 

薩摩藩における浄土真宗禁止

 「街道をゆく3陸奥のみち肥薩のみちほか」司馬遼太郎、朝日文庫、1978

P156

 江戸初期、キリシタン信仰をもつということのおそろしさは、それに関する無数の資料や文献が雄弁すぎるほどに物語っている。が、薩摩藩における念仏停止(ちょうじ)はあまり知られていない。
 「門徒もの知らず」
 などと江戸時代諸国でいわれたように、門徒(浄土真宗)などはもっともありふれた宗旨で、全国の二割か三割ぐらいはこの宗旨であったであろう。かつて石山合戦のとき全日本の講を戦闘へかり出した本願寺は、豊臣期になって京都に移り、徳川期は温和そのものの教団になっていた。その法主(門主)は朝廷から門跡の礼遇をうけ、幕府からは十万石以上の大名待遇をうけていた。京の東西両本願寺に大法要があると、全日本から善男善女があつまってきて南無阿弥陀仏を唱和し、弥陀の本願のありがたさを感じては涕(はなみず)を垂らして法悦の涙を流しているとき、薩摩藩にあってはこの「隠れ門徒」がみつかると、キリシタンの場合と同様、もしくはそれ以上の苛烈さをもって、笞打(むちうち)、割木責(せめ)、縄責、裸責、大責、水責などの拷問をうけた。この一事をもってしても、薩摩藩というのが、江戸期の他の藩にくらべて平均的な存在ではなく、きわめて特異な独立圏をなしていたことがわかるであろう。

(院長註:四国では真言宗が多かったと思いますが、熊本では浄土真宗が多い様です。 お隣の薩摩藩で禁じられていたとは驚きです。)

茶の湯

「武士道」新渡戸稲造、岬龍一郎訳、PHP文庫、2005

P68

 単純きわまりないものが、どうして一つの芸術として大成され、さらには精神的修養となるのか、その例として「茶の湯」を取りあげよう。わが国ではお茶一つ飲むことですら芸術になるのである。それは砂遊びで絵を描く子どもたちや、岩に彫刻をした未開人にも、ラファエロやミケランジェロのような芸術の芽生えがあるのと同じことだ。それゆえに、ヒンズー教の隠者の瞑想とともにはじまった喫茶の風習には、宗教や道徳の侍女へと発展する資格は十分に含まれているばかりか、遥かに大きい要素が秘められているといえる。
 茶の湯の基本である心の平静さ、感情の静謐さ、立ち居振る舞いの落ち着きと優雅さは、正しき思索とまっとうな感情の第一要件である。
 騒がしい世俗の喧噪から離れた、塵ひとつない茶室の清潔さは、それだけで私たちの心から現実を忘れさせてくれる。何もない室内は、西洋の客間に飾られた絵画や骨董品のように人目をひくものはなく、「掛け物」の存在は、色彩の美しさより構図の優美さに心ひかれる。茶の湯は趣を極限まで洗練させることが目的であり、そのためにはいかなる虚飾も宗教的な崇敬をもって排除されるのである。

 戦乱や戦闘の噂がたえなかった時代に、一人の瞑想的な隠遁者によって茶の湯が考案されたという事実が、この作法が遊戯以上のものであることを証明している。茶の湯に集まり来る人々は、静かな茶室に入る前に、血なまぐさい刀とともに戦場での残忍さや政治的なわずらわしさなどを捨て去り、この茶室の中に平和と友情を見出したのである。
 それゆえに茶の湯は礼法以上のものである。それは芸術であり、折り目正しい動作をリズムとする詩であり、精神修養の実践方式なのである。茶の湯の最大の価値はこの最後の点にある。茶の湯の愛好家の中にはそれ以外の点に重点を置く者もいるが、だからといって茶の湯の本質が精神的なものではない、という証明にはならない。

肥後モッコス

「街道をゆく3陸奥のみち肥薩のみちほか」司馬遼太郎、朝日文庫、1978

P102 

「肥後モッコス」
 と、よくいわれる。一徹、頑固というのが直訳だが、ニュアンスがややちがうようでもある。たとえば江戸っ子の一徹というのはなんだか空っつねで、経済力の裏付けがなさそうだが、肥後人のモッコスには、中世の肥後の地侍たちが中央のせい肘(ちゅう)をうけたがらない気分が濃厚であったように、自前の美田をかかえこんで誰に頭をさげる必要もないという自信が裏付けになっているようにおもわれる。美田が江戸期以後は教養になった。自説をあくまでも曲げないというのが細川侍・肥後武士の一徹さで、明治初年の神風連の乱から自由民権運動の最盛期にかけての一時期に、

 「肥後はなにぶん一人一党だから」
 などといわれたりした。モッコスは要するに空っつねでなく、蜂ノ巣の城主のように田畑山林があるか、それとも明治期に大量に輩出したジャーナリストたちのように教養があるか、いずれにしてもそういう肉の厚さが重要な組織要素になっているらしい。一徹型で有名な土佐のイゴッソウともニュアンスがちがうのである。

(院長註:伊予松山藩でさえ十五万石なのに肥後熊本藩五十四万石ですから、余程肥えた土地なのでしょう。)

医学におけるドイツの影響力

「ヒトラーの震え毛沢東の摺り足 神経内科からみた20世紀」小長谷正明、中公新書、1999

P129

 ついこの間まで、医者というとドイツ語のイメージであった。カルテにはドイツ語で、ウムラウトやエスツェットの入ったつづりをグニャグニャと書きこむものだと思われていた。「カルテ」自体がドイツ語でチャートの意味である。日本医学がドイツに学んだためであり、第二次大戦前のドイツ医学は、ほかの分野の科学と同様に、世界に冠たるものであった。アルツハイマー、クロイツフェルト、ウェルニッケ、ビンスワンガーなどと、ドイツ人の医学者の名前がついている病名が多いことかそれを物語っている。
 しかし、現在はドイツ語の影響はほとんどない。カルテや、マ−ゲン(胃)、ブルート(血)といった、単純な医学用語以外には、食事をエッセン、お金をゲル(ト)というたぐいの隠語でしか使われない。そして、医学の中におけるドイツの影響力も小さくなっている。

 

日本人と朝鮮人の違い

「日本人への遺言」司馬遼太郎、朝日文庫、1999

P112

 アイヌの問題は、ぼくらは、たとえば眉の濃い人があると、これはアイヌの血を引いてるな、と。私の家内なんかは、いつもからかってるんですけどーーーアイヌの血をわれわれは何割か引いてるんじゃないですか。
 日本人と朝鮮人を比べた場合に、多毛の人は朝鮮人にまず少ない。解剖学的なところは、朝鮮人と日本人はそっくりな民族なんですけど、ただ違うのは、日本人に多毛の人が多い。毛ずねがあったり、胸毛があったり。そういう人は朝鮮半島にまずない。その分だけアイヌーーーもしくはその類縁の人々ーーーかもしれない。
 だから、アイヌ問題というのはむずかしくて、自分もアイヌだ、と思う時にどうなるのか、とか。極端な要素を基礎にして、ぼくは、おれはアイヌだと言うことができる。ぼくは不幸にして眉は濃くないですけどね。

大坂都構想

「日本人への遺言」司馬遼太郎、朝日文庫、1999

P151

司馬 京都に太政官が成立して、まだ東京に行っていないとき、大久保利通は、大坂に首都を置こうと考えていた。それは、上流に琵琶湖がある、大人口が養える、というただ一つの理由によるものです。
 そしたら夜中に、投書が届いた。その投書は「首都は江戸にすべきだ」と、江戸・大坂の優劣を精密に論じたものです。
 簡単に言うと、京、大坂は琵琶湖があるから自然にできた都市である。ほうっておいても、やっていける。一方、江戸は水のない所で、四谷の水道とか何とか、家康らが一生懸命に水を引いたりして、四苦八苦、人工的にできた都市である。
 この江戸を帝都にせずに廃都にしてしまったら、ペンペン草が生えるだろう。当時の百二十万ほどの江戸市民が暴動を起こしたら、どうなるか。連鎖して、東北にもペンペン草が生えたら、どうするのか。こうした意味のものです。この投書を読んで大久保の考えは、一夜にして変わりました。
ーーー東西の本質をついた意見ですね。
司馬 ところで、その投書の主がだれか、わからなかった。後に、大久保が東京で「京都の太政官時代に不思議なことがあった。あの投書をしたのはだれだろう」と話したら、その席にいた官吏の前島密が「それは私です」と名乗った。前島は投書をしたころ、越後から京都に出て学問をしていたのですな。「これは偉いやつだ」というので、彼、駅逓頭に登用され、近代的郵便制度を創始することになります。

熊本城が立派な訳

「街道をゆく3陸奥のみち肥薩のみちほか」司馬遼太郎、朝日文庫、1978

P106 

 清正は、熊本城を築いた。
 当時の築城工学からみればこの城の防禦力は最高のものであったらしく、とくに当時の用語で「はね出し」とよばれた石垣積みの工法では同時代のどの城も熊本城に及ばなかった。
 それほどに堅牢な要塞を清正に築かせたのは、豊臣政権の戦略的な必要からであった。
 薩摩の島津おさえのためである。
 肥薩の関係のおもしろさは、そういうあたりにもある。薩摩の島津氏は戦国末期には全九州を席巻する勢いを示したが、豊臣政権の成立とともにもとの薩摩・大隅・日向の三州に押しこめられた。そのエネルギーがふたたび噴出した場合、熊本城をもって巨きな石蓋としておさえこんでしまうというのが、秀吉の大戦略であった。徳川氏もそれを踏襲した。ところがはるかに降って明治政府が、そのエネルギーをもろにかぶってしまった。
 明治十年の西郷の乱で、薩南一万数千のエネルギーが薩肥国境をこえて噴出し、熊本城にぶちあたり、この清正の城の攻防をめぐって明治政府の存亡が賭せられてしまったのである。

最高の血圧

 「ヒトラーの震え毛沢東の摺り足 神経内科からみた20世紀」小長谷正明、中公新書、1999

P89

 一九四五年二月四日、ソ連のクリミア半島にあるヤルタで、戦後世界の秩序について討議する米英ソ三国の首脳会談が開かれた。が、ルーズヴェルトは巡洋艦で大西洋と地中海を渡り、飛行機でマルタから飛び、空港からのデコボコ道を五時間もかかってやって来た。担架で運ばれ、完全に病人のようであった。血圧も高いままで、三回目の会議では三〇〇の一七〇と、極限にまで上昇している。

(院長註:この頃はまだ薬剤による血圧の十分なコントロールが出来なかった様です。)

病名は3万以上

 「ヒトラーの震え毛沢東の摺り足 神経内科からみた20世紀」小長谷正明、中公新書、1999

P128

 筆者が医学部の専門課程に進んでまずしなければいけなかったことは、しゃにむに覚えることであった。それまでの人生には縁がなかった、骨や筋肉、血管などの名前を、日本語はおろかラテン語の学名で記憶し、そしてからだのどこの部位にどのようなお互いの関係でおさまっているかを学ぶのが解剖学である。生理学にしろ、生化学にしろ、同じようなことで、医学の基本的なしくみやことがらをともかく覚えなければいけない。覚えに覚えていくと、理論理屈はあとからついてきた。
 病理学もしかりである。病気ごとに症状がちがうように、組織の反応や、細胞の変化もちがう。これを肉眼的に、あるいは顕微鏡を使って調べて学んでいくのが病理学だ。基礎医学といっても、病気の患者を実際に診療する臨床との境界はあいまいで、それだけに重要である。
 病理学は、人類の長い病気との戦いで蓄積された総和なので、ここで学ぶ病気の数は一般の人々が思っているよりもはるかに多い。WHOの分類コードでは、病名は三万種類以上もある。だから、病理学の試験ともなると、必死になって教科書を読み、脳にメモリーを蓄え込んだものである。もちろん、三万も覚えたわけではない。要所要所の病気のことを、ジュゲムジュゲムゴコウのスリキレのように暗記した。
 そういう具合だったので、アルツハイマー病や、最近話題になったクロイツフェルト・ヤコブ病も、名前だけは学生時代からおなじみたった。しかし、大まかな臨床像と病理像とをむりやり頭にたたき込んだが、患者さんを見たこともさわったこともなかったので、リアリティはなかった。 

肥後顔

「街道をゆく37本郷界隈」司馬遼太郎、朝日文芸文庫、1996

P217 

 池辺氏は、肥後顔をしている。
 眉毛が濃く、両眼が大きく、黒目がすこし潤んでいる。肥後人宮崎滔天(一八七〇〜一九二二)もそうだったといわれ、その甥にあたる人を私は知っていたが、やはり潤んだような目だった。
 『みみずのたはごと』の徳冨蘆花(一八六八〜一九二七)、あるいは明治のジャーナリスト池辺三山(一八六四〜一九一二)も、典型的肥後人で、みな似たような顔をしている。
 池辺史生氏は、両親が肥後人だから、まじりっけがない。
 ただし、ご当人は東京都文京区の目白台のうまれである。祖父君が、明治後、細川の殿様の家令だったか家扶だったかで、氏もまた、旧藩時代の江戸定府の士のように、細川家の敷地内でうまれ、育った。

司馬さんとジミー大西と曙と

「街道をついてゆく 司馬遼太郎番の六年間」村井重俊、朝日文庫、2011

P226 

 たしかに司馬さんは相撲ファンではあった。午後五時からの取組はしっかり見ていたと、みどりさんはいう。
 横綱曙にまつわるエピソードもある。
 近畿大学相撲部の元監督が東大阪市に住んでいて、大阪場所になると関取たちがぞくぞくと挨拶に来ていた。曙もその一人だった。
 司馬家のお手伝いのお嬢さん、美樹さんは曙のファンで、元監督の友人の紹介で、曙に会うことができた。

 「美樹ちゃんが『頑張ってください』といったら、曙の方も『お前もがんばれよ』といったんだ。曙はなかなかチャーミングだね」

と、司馬さんは笑っていた。
 曙の「お前もがんばれよ」は、当時流行っていたジミー大西の一発ギャグを真似たものだった。司馬さんはジミー大西をわりとひいきにしていたので、このジョークも知っていて、「チャーミング」だといったのだろう。

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