週刊文春2018.4.19P50夜ふけのなわとび 林真理子 鹿児島色
それは二年も前のことになる。
池袋の書店でサイン会をしていた時のことだ。新刊の本に自分の名前をサインし、相手の方の名前も書く。何十人めかに、所定の紙を受け取った瞬間、ハッと顔をあげた。
「西郷真悠子」とあったからだ。
とても綺麗なお嬢さんとお母さまだ。その時、もう西郷隆盛の伝記を書き始めていた私はピンときて、
「西郷さんのご関係ですか」
と尋ねたところ、
「従道の玄孫(やしゃご)です」
というではないか。従道というのは、西郷隆盛の弟で”じゅうどう”と読む。元帥海軍大将までのぼりつめた人だ。
「確か侯爵でしたよね」
「そうです」
もっとお話ししたかったのであるが、後ろに人が並んでいたので短いやりとりだけで終った。しかし彼女は手紙をくれたので、うちに帰ってから読んでみると、大学は私の後輩で日大芸術学部演劇学科にいること、そして女優をめざしていることが書いてあった。最後に、
「大河ドラマに出るのが私の夢です」
とある。なるほど。ご子孫なら「西郷どん」にちょっと出演するのもいいかも。しかし私に何の力もあるわけがなく、脚本家の中園ミホさんに相談したところ、
「プロデューサーに話しておくから、まずオーディションを受けることね」
さっそく連絡しようとしたのだが、だらしない私のこと、彼女の手紙をどこかに紛失してしまった。
まあ、仕方ないかといったんは忘れかけ、ニケ月が過ぎた。が、なぜか彼女のことは、心のどこかにひっかかり、それは日ごとに大きくなっていったのである。私は思いきって鹿児島の西郷南洲顕彰館に電話をかけた。作家の林真理子と名乗り、子孫のこういうお嬢さんに連絡したいとお願いしたところ、
「こちらからお電話します」
とのこと。二日ほどたってから、西郷さんのご子孫でつくる会の会長さんから電話があった。私はことの次第を話し納得してもらった。やがてあのお嬢さんのお母さまから電話が。このあたりが、いかにも良家の子女という感じであった。
そして結論から言うと、彼女はオーディションに合格し、第一話で「西郷桜子」という役で出ることになった。従道の娘役である。西郷隆盛像が上野公園に完成し、除幕式にてヒモをひっぱるという役だ。セリフは、
「はい、父上」
というひと言だけ。が、西郷さんの子孫が出るというので、マスコミにいくつか取材された。私も初めて知ったことであるが、彼女は西郷従道だけでなく、山県有朋の玄孫でもあったのだ。まさに「生きる薩長同盟」である。
そしてこれをきっかけに、彼女ととても親しくなった。性格が素直な彼女は、NHKのスタッフや中園ミホさんにも可愛がられる。このあいだは、彼女が主演する学生ミュージカルを、中園さんと私、NHKの人たちが見に行ったぐらいである。
西郷さんの子孫が集まる西郷会。正式には西郷家二十四日会というらしいが、そこでも、マユコちゃんのことをとても喜んでいると聞いた。(後略)
(院長駐:これはあまり知られていないことなのですが、今は今治市ですが、乃万地区ぐらいまでは江戸時代は実は松山藩の領域だったのです。院長は今治西中、今治西高の卒業ですが、1年後輩に秋山平八郎という人がいました。院長が「坂の上の雲」を読んだのは熊本に来てからですが、どう考えても秋山兄弟の子孫が東郷平八郎の名前をもらったとしか思えないです。中学の頃学校の先生も特別扱いしていたような気がします。「坂の上の雲」が書かれたのは昭和43年頃かららしいですから、昭和34年にはとっくに名前が付いていたことになります。まさに「生きる日露戦争」「生きる坂の上の雲」です。
東京医科歯科大学歯学部解剖学教室には桐野教授という方がおられたそうです。学生はみんな西郷隆盛側近の桐野利秋の子孫だと知っていたそうです。
東京医科歯科大の同級生に京都出身の前尾さんという女の子がいました。「京都の前尾さんと言ったら、前尾しげ三郎さんという有名な政治家がいたけど?」「おじいちゃんのいとこ」とさらって言ってました。)