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週刊文春’99.4.15.p92読むクスリ 上前淳一郎

苦労はあらへんえ

 今をときめく京女、服飾研究家の市田ひろみさんに、取材スタッフの鹿野由利子さんがインタビューに行ってきた。

 なにしろ、おおらかな北海道の原野育ち、考えるより先に言葉が出るアメリカ人みたいな現代っ子だけに、市田さんのお話には教えられるより先に驚かされることのほうがよほど多かったらしい。

 たとえば、

「京都の人は十のうち六つぐらいいうて、あとは相手が察するようにいわはるねん」

「はあ」

「京は昔から権力争いの場やったから、旗幟(きし)を鮮明にしたらあかんねん。どっちが勝つか、わからへんもん」

「それは聞いたことがあります」

「どっちにつくかはいわず、この人もよろしいけど、あっちの人もよろしいなあ、と」

「なるほど」

「その、よろしい、とほめるのも、優良可でいえば『お見事』いうのが優や」

「はい」

「『結構どすな』いうと良」

「ははあ」

「つぎに『まあまあどすな』いうたら、ふつうは平均点と思いますやろ。それが違う。可やねん」

「まあまあ、は可ですか」

「それで、『もうひとつどすなあ』いうのが、不可を意味するいちばん厳しい言葉。これいわれたら、もう終わりや」

「京都の人は、たいていのことは耐えてやり過ごせるように、子供のうちから訓練されてますねん。これは一つには気候のせいやね」

「夏は暑く、冬寒いところですよね」

「春と秋のええ季節短いんどす。四季の巡り方が不公平なんやね。それでも不満はいわず、にっこり笑うて『暑うおすなあ』と」

「はあ」

「これが大阪の人やったらね、『暑いなあ、たまらんなあ、もう嫌や』となる」

「ははあ」

 

「京都の人は、そこをはっきりいいません。もし子供が『暑うてたまらんなあ』いいますと、母親やおばあちゃんが、『もう、えずくろしいなあ』と叱りますから」

 えずくろしい、という京都弁は、うるさくいって、やかましい、の意味だ。

「それで子供は黙ります。そうやって祖母から母、娘へと、にっこり笑うて『暑うおすなあ』と挨拶する文化が伝えられていくんどす」

「そうなんですか」

「同じ暑いのでも、にっこり笑うのと、しかめ面するのと、それが京と大阪の違いですねん。そして、その違いが、京都の人はようわからん、いわれるようになった理由の一つですやろなあ」

 

「私は子供のころ親から、『いつも笑顔でいなはれ』と育てられました」

「・・・・・・・・・・」

「嫌なこと、つらいことがあるときほど、『私ら何も苦労はあらへんえ』という顔でにこにこしていなさい、と教えられたんです」

「それはまた、どうして?」

「陰気な顔していると、『あの人、いろいろ問題ありやで』いわれる。そういう娘になったらあかん、ということやったんやろねえ」

「はあ」

「回りに『ええ子やなあ、あの娘はんは』とか『気立てのええ娘はんや』いわれる子がいっぱいいてはる。その子たちに負けんよう、みんなに好かれるようにならなあかんで、とね」

「そうだったんですか」

「回りはみなライバル。ひとりだけ、ぶすっ、としているわけにいかん、と本人も思うようになるから、笑顔のええ娘はんがふえる文化が作られていったんと違いますか」

『八方美人で生きなはれ』という著書のある市田さんは、女子社員教育に企業から招かれると、まず黒板に書く。

「笑顔は最高の化粧」

 

「でも、最近は京都の若い女性も変わったんじゃないですか」

 圧倒されっぱなしだった鹿野さんがやっというと、市田さん、

「それは、このごろお行儀の悪い娘はんもあるようですけど」

とだけおっしゃってあとはにこにこ。

 さすが、嫌なことがあるときほど笑顔になり、十いいたいことは六で止めて、えずくろしくならずにいらしゃる、と鹿野さん感心しきりだったそうだ。

週刊朝日’99.7.23.P41今日とちがう明日 堺屋太一 「強欲」と「嫉妬」の選択

◎私欲を公益にする仕掛け

 人間が強欲・気まま・怠惰・嫉妬などの劣情を抱く存在であることは、すべての哲人賢者が認めている。今日までのところ、教育も宗教も国家の統制や宣伝活動も、この本性を改めることには成功していない。

 そうだとすれば、各人がその欲するままに行動し、それが全体としての公益を成すような仕掛けをつくることこそ大事だろう。今日、アメリカを中心に進められている自由主義市場経済は、人間の劣情の中で強欲と気ままとを許すものだ。才能と努力と幸運に恵まれた者は高い収入を得て、「強欲」を満たすことができる。また、そのときどきの気分で職業や住居や結婚相手を変え、流行を追って衣服やスタイルを変える「気まま」も許されている。

 これに対して西欧諸国に広がった福祉社会は、長期失業者を増やした。その中には、熱心に職を求めているとは言い兼ねる者もいる。豊かな社会は、「怠惰」にも寛容になり得るのだ。

 自由な市場での競争が全体の経済成長を促し、その一部で社会の「安全ネット」を確実にすれば、強欲と気ままと怠惰の三つを同時に満たすこともできるだろう。

 だが、自由な競争を認める限り、絶対に許されないのは「嫉妬」である。十七世紀のフランスの作家、ラ・ロシュフーコーもいうように、「嫉妬」ほど始末の悪いものはない。

 金持ちを貧乏にしても、貧しい人々が金持ちになるわけではない。それでもなお、金持ちを貧乏にしたいという嫉妬は実に根強い。将軍吉宗が今も「名君」といわれるのは、元禄の華やかな文化で稼ぎまくった商人たちに嫉妬した下級武士の支持を得ていたからだ。

 結局のところ、未来の選択は、強欲と気ままを許すか、嫉妬に正義の裏づけを与えるか、いずれの私悪を取るかなのかもしれない。

週刊朝日’99.7.23.P40今日とちがう明日 堺屋太一 「強欲」と「嫉妬」の選択

◎「私悪すなわち公益」

 各人各社の正しい行いが社会という巨大な坩堝(るつぼ)で合成されると、人を苦しめ未来を破壊する悪行に変化するとすれば、その逆も成り立つだろうか。つまり、みんなが私利私欲を追い求めて悪行を働けば、社会全体には良い結果が生じるだろうか。この問いに、「イエス」と答えたのがオランダ生まれの医師バーナード・マンデヴィルだ。

 マンデヴィルは、一七一四年、イギリスで『蜂の寓話』と題する本を出版したが、その副題はなんと「私悪すなわち公益」だった。もちろん、ここでいう私悪とは犯罪のことではない。私益を追求して人々が行う自由気ままな行いを指している。人間は本来、強欲なものだから、みんなが欲望を満たそうとすれば、おのずから「交換の正義」が生じ、全体の利益に通じるというわけだ。

 世界の思想史には、「人間の自由な行動は社会全体を悪くする」として、政府(国家)が統制または指導すべきだという考え方と、「人間の自由な行動こそ全体の利益を拡大する」という考え方との二つがある。古くはプラトン、近くはマルクスやヒトラーが前者なら、司馬遷やアダム・スミス、現代のハイエクやフリードマンらは後者に入る。マンデヴィルは自由主義経済の論理を風刺的に表現したにすぎない。

 二十世紀末の今日では、プラトンやマルクスのような国家統制主義は評判が悪い。右のファシズムも左の共産主義も失敗してしまったからだ。しかし、「合成の誤謬」の発見は、各人の善意の選択が必ずしも全体の利益につながらないことも示している。人間はマンデヴィルが期待したほど完全に私利私欲に走らず、将来の心配や後継者への配慮をしてしまうからだ。

 そうだとすれば、政府は常に人々と反対の方向に行動しなければならない。みんなが将来を不安に思って貯蓄するときには大胆にお金を使い、みんなが未来をバラ色と信じて散財するときには、倹約に徹してお金を蓄え、市場から通貨を引き揚げるべきだ。このことをジョン・M・ケインズが理論的に言い当てたのは、一九三〇年代の大不況を経験したあとのことだ。

週刊朝日’99.7.23.P40 今日とちがう明日 堺屋太一

「強欲」と「嫉妬」の選択

◎「合成の誤謬」

 それぞれの個人や企業が、将来のために、あるいは後継者や周囲の人々のために、良かれと思う善行を積むと、結果としては社会全体が悪くなってしまうーこうした現象を、経済学では「合成の誤謬」と呼ぶ。

 この最もわかりやすい例が、倹約・勤勉と不況との関係だろう。一般的には倹約も勤勉も人間の美徳であり、社会の良俗である。ところが、みんなが倹約に努めれば需要は伸びず、勤勉に励めば生産が増え、結果としては売れ残りが大量に出て不景気に陥る。

 こんなとき、人々はいちだんと倹約して将来に備えて貯蓄し、企業が経費を削減して生産性を上げれば、ますます不況は深刻になり、失業者や倒産企業が増加する。みんなが良いことをすればするほど、全体が悪くなり、互いを苦しめ合うことになるわけだ。

 いわれてみれば当然のことだが、人類はそれを容易に信ぜず、国家財政でも同じことをした。その典型が徳川八代将軍吉宗だ。

 開幕以来約百年、元禄中期(十七世紀末)まで成長を続けた経済も、元禄末期に入るとバブルが弾けた状況となり、次の宝永期には富士山の噴火(一七〇七年)や地震も相次いだ。

 そんなとき、輿望(よぼう)を担って登場したのが八代将軍吉宗だ。吉宗は体も大きく気迫も十分だったが、やったのは倹約と統制である。自ら衣食を削って倹約に努め、早朝より政務に励んだ。また、世間にも倹約を強制、「御庭番」というスパイを放って贅沢な商人や気ままな大名を取り締まった。投機を禁じ、政府批判を封じ、近松門左衛門の心中ものも上演禁止にした。

 こんな政治が長く続けば、世の中が不況になるのは当然だ。享保十六年には米価が大暴落、そのうえ、値上がり期待で買いためる投機を禁じていたから、翌十七年にいなごの害が発生すると関西以西は大飢饉に陥った。しかもこれで幕府の財政が大いに改善したわけではない。吉宗が将軍の座から退いたとき、相当の余剰金があったのは、倹約の成果ではなく、元文元(一七三六)年に行った貨幣改鋳の結果という。頑固な吉宗も、倹約・勤勉の引き締め政策をあきらめて、インフレ政策に転じざるを得なかったのだ。

 不況に引き締め政策を採ったのは、徳川時代の日本に限ったことではない。一九三〇年代初頭の世界大不況の際も、アメリカのフーヴァー政権は、財政赤字を増やすまいとして支出を大幅に削り、不況をいちだんと深刻にした。フーヴァー大統領も、のちには復興金融公社を創設したり、ネバダ州にフーヴァーダムを建設したりする。八代将軍吉宗同様、倹約が不況を呼び、不況が収入を減らすという悪循環に耐えられなかったのである。

週刊文春’99.3.4.P62阿川佐和子のこの人に会いたい 塩野七生さん「ローマ人の物語」など

(前略)

阿川 今まで書いた中では誰が一番よかったですか。

塩野 それはもう圧倒的にユリウス・カエサルですね。彼は私の作品の中ではもう死んでいるんだけども、その後を書くとき、彼が何をしたか、彼が考えたことは五十年後、百年後にどのような形で現れてるかを言及しなきゃならないのは、やはりカエサルが圧倒的に多いです。

阿川 シーザーのどの辺がいいと。

塩野 先見の明があった。彼はブルータスに殺されたけれども、後の人たちが彼が考えたようにやる。それがローマ帝国のためになるわけ。ネロの場合は、彼も善意でやってるんですけど、彼が考えたことを次の人たちは誰も真似しなくなる。それは、ネロのようにやったんじゃいけないと分かるからなんです。

阿川 暴君ネロの真似はしない。

塩野 だけども、ネロは本当にワルだったのか。これはカエサルの言葉なんですけど、「どのように悪い結果に終わったことも、そもそもの動機は善意であったんだ」と。

阿川 ほおっ。

塩野 ヒトラーだってスターリンだって、悪いと思ってやったんじゃないと思うのね。ところが、われわれが歴史を裁くとき、ヒトラーは狂人になり、スターリンはモンスターになる。あそこで突然変異が起きたようにおもってる。そう思ってる限り、われわれは歴史から一つも学べませんよ。善意で始めたことが何で悪い結果になったのかを考えない限りね。

(後略)

待つ勇気、政治とは大いなる徒労である
「ドラマ」よりも「待つ勇気」2000.12.8週刊朝日P46「今日と違う明日」堺屋太一
◎「動く勇気」と「待つ勇気」
(前略)
 政治に限らず、経営でも軍事でも、成功を収めるには二種類の勇気が要る。一つは、好機を逃さず決断し、全力を挙げて行動する「動く勇気」、もう一つは、時機がくるまでつらくとも不人気な状況を続ける「待つ勇気」である。前者が華々しいドラマとすれば、後者は地道な準備作業や後片づけ、いうまでもなく後の期間のほうが圧倒的に長い。歴史小説や偉人伝でおもしろいのは「動く勇気」、決断と行動の成功譚だ。このため、歴史や伝記を軽く読み流す者は、「動く勇気」だけが偉大な成功をつくりだすように思い込んでしまう。そしてそのことが、指導者に絶え間ない決断と行動を迫る風潮をつくることにもなる。特に現実を無料のコンテンツとするマスコミの発達した世の中では、だれもが行動を煽られるから、「待つ勇気」を発揮するのはますます難しい。
 バブル景気のころ、多くの企業経営者が「高すぎる地価」に疑間を感じながらも、拡大投資に走ったのはこのためだ。同業他社が転換社債の発行で超低金利の資金を集めて土地買いやビル造りで成功しているのを横目に、何もしないで「待つ勇気」を堅特するのは、経営者にとって相当に難しかったらしい。
 政治、とりわけ経済政策においては「待つ勇気」が大事だ。経済政策には戦争や外交のような華々しい成功がない。革命の英雄や外交のヒーローでも、経済政策では失敗した例がたくさんある。「動く勇気」で華々しい成功を収めた者は、経済でも短期間で成果をあげようとして動き回るからだ。
(後略)

「アメリカのゆくえ、日本のゆくえ」霍見芳浩、2002、NHK出版、P167

(前略)英語の『武士道ー日本の心(Bushido:The Soul of Japan)』を一九○○年、フィラデルフィアで出版した。この本の動機を新渡戸は次のように序文で述べている。

 

 十年ほど前のこと、ベルギーのすぐれた法律学者のド・ラベイエ教授との話が宗教のことになった。同教授は「貴方は日本の学校では宗教は教えないと言ったが本当か」と驚いた顔で訊ねた。私が「そうだ」と答えると、「宗教なしとは」と叫び、同教授は続けて、「宗教を教えないで、どうして道徳を教えるのか」と呆れていた。

 

 そこで、日本の道徳の土台は、新渡戸が子供の時から教え込まれた武士道で、キリスト新教の勤勉、倹約、正直、友誼、仁、勇、義、礼、克己、陰徳、名誉、誠の道徳観に酷似するものがあるのを説明せねばと決心した。「ド・ラベイエ教授や妻に教えるためにも」と新渡戸は書いている。

(院長註:新渡戸さんの奥さんは米国人だそうです。)

週刊朝日2005.9.30号
惨敗民主の大粛清が始まる
 民主党の前原誠司氏(43)は代表選の出馬表明直前の9月15日夕、菅直人前代表(58)に電話を入れた。
 「代表は選挙で決めたほうがいい。菅さんも出馬してください」
 自分の側近だった前原氏からの「挑戦状」に、さすがの菅氏も一瞬、「俺と若手が対決するという構図はどうか…」と躊躇した。
 その直後の記者会見で前原氏が表明した「公約」はすさまじい内容だった。
 「民主党を戦う集団に変える」「旧弊を断ち切る」「党内融和を優先する政治手法は徹底的に排除する」「当選回数は関係なく能力主義を徹底する」…。
 それを見た菅氏は「出馬しなければ逃げることになる」と周囲に言い残し、その夜、促されるように出馬表明に至ったのだった。
 総選挙で民主党は、小泉首相から「郵政民営化に賛成できないのは労組の支援を受けているからだ」と攻撃された。前原氏の言う「旧弊」は、労組を意識したものにほかならない。
 「前原氏が代表になれば労組との関係を整埋する」「総選挙の大敗はけがの功名。選挙に勝てない候補者は全員交代してもらう」前原氏周辺からは若手による「大粛清」を、うかがわせる発言が相次ぐ。自民党の一部を切り捨て、国民的支待を得た小泉首相の発想と重なり合う。小選挙区で勝てないのに比例で復活当選を続けるベテラン議員や、出身母体への労組しか顧みない参院議員への反発が若手を覆う。
前原氏の先輩はもはや20人だけ
 総選挙で惨敗した民主党では今後、前原氏や野田佳彦(48)、枝野幸男(41)、玄葉光一郎(41)各氏ら40代以下の発言力が急速に増すのは間違いない。逆風の総選挙で勝ち残ったのは若手だった。
 若手登用に批判的な小沢一郎氏のグループや、連合と関係が強い旧民社党系のグループは、ベテランが相次いで落選。衆院113人のうち、前原氏ら当選5回以下の議員は93人にのぼった。前原氏の「先輩」はもはや20人しかいない。
 「当選した国会議員だけの投票で代表を選ぶのはおかしい。せめて落選議員は仲間として扱うべきだ」
15日の両院議員総会でそう訴えるベテラン議員を、前原支持派の若手たちは冷ややかに見ていた。
 前原グループの特徴は政策通を売りにしていることだ。前原氏は外交・安保分野に精通する。民主党が胸を張るマニフェストづくりは若手たちの独壇場だ。前原氏は、「シンクタンクを作る構想を促進させて、霞が関に頼らず政策立案をする」と力説した。
 だが、「政策主義」の若手台頭に戸惑いは少なくない。東京10区で刺客第1号の小池百合子氏に惨敗した鮫島宗明氏(61)は選挙戦をこう振り返った。
 「最大の敗因はマニフェストにある。前回はマニフェストブームで民主党は躍進した。その後、マニフェストをどう正確に書くかばかりに必死になった。ふと気づくと、われわれは『マニアフェスト』を作っていた。小泉首相は書かない。その代わりに語る。書くのは人を正確にするが、語るのは人を豊かにする。政治には豊かさが必要です」
 若手にも「マニフェストに頼りすぎ。自力で勝つことが必要だ」との声もある。前回の総選挙でマニフェストブームを仕掛けた当の菅氏も今回は、「若手には政策通になれと言ってきたが、もうやめた。これからはケンカが強くなければならない」と路線を転換した。
 大粛清で政策純化路線を進むのか、ベテランの融和路線が踏みとどまるのか。小泉ハリケーンは民主党に二者択一を追っている。

週刊朝日2003.3.28号P31「政界再編、こう仕掛ける」
 北川正恭三重県知事インタビュー
 僕は中選挙区の総選挙を4回経験しました。あれは徹底した利益誘導選挙だった。有権者の15%ぐらいの支持を得れば当選できるので、特定の利益集団の意向さえ踏まえれば勝てるんです。
 既成政党は、農協、医師会、労組といった既得権益を持った集団を足場にしてきました。右肩上がりの時代には、政党がそうした集団の利益を実現することは国民全体の利益にもつながると思われましたが、現在はそこに属さない人が増えたため、特定集団に寄りかかると、かえって全体の利益を損ねてしまいます。
 そこで個別利益を超えた「ビジョン」と、それに基づく「この国のかたち」が求められるわけですが、自民党は既得権益のかたまりだし、民主党も予算案を独自に出すなど努力していますが、やはり外に開かれた政党になりきれていない。
 となると、もう一度、政界再編で新しい政党をつくり出すしかありません。そのための「道具」として僕が提唱しているのが「マニフェスト(政策綱領)」です。
 マニフェストは各党が目指す政策を「期限」「財源」「数値」付きで明示し、政権を握ったら実行することを有権者と「契約」します。選挙に勝った政党は、国民からその政策が明確に支持されたわけですから、政治力は高まるし、逆に政策遂行に失敗すれば言い訳はできません。
 英国のサッチャー政権が導入して以来、このシステムの有効性は広く認められてきました。しかし、明確な約束などしないほうが政党は楽なので、日本では見向きもされなかった。
 そこで「ローカル・マニュフエスト」から始めようと考えました。4月には統一地方選があります。国政選挙でいきなり導入できないのなら、まず知事選の候補者たちにマニフェストを出して戦ってもらう。その過程を通じてこれが国民に認知されれば、次の総選挙で各政党は国政版のマニフェストを出さざるを得なくなる。
 幸い、この趣旨に賛同してくれる知事選候補者が5、6人いそうです。民主党も次の総選挙までにマニフェストをつくると言っています。そうなると自民党もつくらざるをえないでしょう。
 これを導入すると政党は数合わせの離合集散ではなく、理念でまとまっていかざるをえません。選挙の性格も変わります。各候補者が地元の事情に応じて政策を都合よく解釈できなくなります。
 有権者側の意識も変わります。情報公開が進み、マニフェストが導入されると、どの政党を選ぶかは国民の責任にゆだねられます。政党の失敗はそれを選んだ国民の失敗になる。マニフェストを使うことで日本の政治は質的に変わらざるを得ないのです。
 4月には2期務めた知事職を離れて東京に移り、自由な立場で政治をつくり変える運動をしたいと思っています。
 政界再編で、政党はタックスペイヤ−の政党とタックスイーター(税の消費者)の政党に分かれるでしょう。
 僕は、自分を中心とした政党をつくりたいとは思いませんが、タックスペーヤ−のための外に開かれた政党ができたら、その一翼を担う覚悟はあります。戦後復興を担った政党が持っていたような熱気、時代を転換させられる振幅の大きなエネルギーを取り戻し、いまの日本の閉塞感を打ち破りたいのです。


週刊文春2003.10.23日号P53「新聞不信」
「マニフェスト」という妖怪
 憲法第七条(天皇の衆議院解散権)により失業した途端、他でもない失業者全員が立ちがってバンザイ三唱、拍手して祝う。誰も説明できない、日本民族の奇習である。
 解散になると同時に、新聞は日頃にも増して面白くなくなる。「議席獲得へ各党胸算用」「政策論争攻防激しく」などという大見出しは、なにものも意味しない。各紙、公平を期すと称して毒にも薬にもならない長大記事を載せ、どの新聞にも同じようなことが書いてあるから、面白くないのである。
 今回の総選挙の新しい点はマニフェストだが、実はちっとも新しくない。史上すでに有名なコミュニスト・マニフェストがあって、日本語では「共産党宣言」と訳されている。
 一八四八年にマルクスとエンゲルスが共産主義者同盟第二回大会の委託を受けてドイツ語で書いたもので、読者も「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している−−共産主義という妖怪が」という名高い書き出しを御存知だろう。このマニフェストは以後ほぼ百五十年、とくに一九一七年にソビエト連邦が出現してから一九九一年にそれが滅ぶまでの間、世界に呪いを吐きかけた文書だった。
 共産主義はまた自らを科学的社会主義と称したから、二十世紀(それは科学的な方が非科学的より善いにきまってると考える世紀だった)の人々は、共産主義に対し強いコンプレックスを持ち、ついには共産主義者でないことに罪の意識を持つようになった。
 自由な競争、貧富の差、あらゆる世襲制や君主制は遠からず共産主義という妖怪によって駆逐されるのではないかという不安が、二十世紀の知識人を責め苛んだ。本家のロシアではとっくに滅んだその思想を、いまだに細々と引き継いでいるのが日本の新聞である。彼らはマルクスとエンゲルスのマニフェストに「社会の歴史はすべて階級闘争の歴史である」と書いてあるのを思い出し、失業者が増えるとそれは被抑圧階級の敵である政府が悪いのだ、少年が人を殺すとそれは少年ではなく社会が悪いのだ、というふうに書く。
 百五十年以上も前にロンドンで出版されたマニフェストが、現実に適合しないことが明らかになったのに、二十一世紀の日本の新聞は今なお影響を受け続けている。さすが妖怪である。
 マニフェストはラテン語から出た言葉で、「触知である」「証拠になる」の意。現に使われているのは入港した船が税関に提出する積荷明細書。あれをマニフェストと呼ぶ。
 国立国語研究所は、氾濫するカタカナ語の言い換えに苦心している。「公的明細」にした方が分りやすいし、短い。

 サイコパス(psychopath)という言葉が出てきました。いわゆる精神病ではなくて人格障害のようなものらしいです。

 特徴として

・口が達者(弁舌が淀みなく、応答がうまい)

・慢性的に平然と嘘をつく(病的虚言)

・良心の異常な欠如

・罪悪感が全くない

・他者に対する冷淡さや共感のなさ

・過大な自尊心で自己中心的

・人をあおるのが得意

・結果至上主義

・状況に応じて演技をする。同情を引くのも得意。

・サイコパスはクレーマーでもある。

週刊朝日1999.4.23 P44今日とちがう明日 堺屋太一

花に思い出す進学と就職

◎何にでもなれる職場を選んだ

(前略)私が就職を決定した一九五九年には採用側の協定で、「解禁日」は十月一日と決まっていた。来年三月卒業予定の学生たちは、六月ごろから各企業の採用説明会などに行き、夏休み明けからは目指す職場の人事部を訪問する。

 このときも私は、大いに迷った。対象として考えたのは三つ、住友銀行と近鉄と通商産業省だ。近鉄には生まれ故郷でずっと暮らせるという利点があったし、銀行は初任給が高かった。大阪の両親や、当時は広島国税局に勤務していた兄にも、何度も電話で相談した。まだ市外通話が申し込み制で、つながるまで一時間以上も待たねばならないこともあった。

 しかし、こんな問題はだれに相談しても決まるものではない。父の意見も兄の話も、しばしば変わり、迷いが深まるばかりだ。そんなとき、ある人がこう教えてくれた。

 「就職先に迷うのは、自分が何が好きかわかってないからです。そんなときには将来、いちばん何にでもなれる職場を選んでおくのがよいでしょう」 

 なるほど、そうに違いない。私はさっそく、各職場の経験者がどんな分野に散っているか調べてみた。結果は明白、官庁出身者が最も多様だ。官僚からは、政治家も経営者も、著述業も自営業も出ている。戦後の混乱が残っていた一九五〇年代には、官僚でも転業失敗者は意外と多く、選挙に落選した人や、えたいの知れない団体に所属する人もいた。

 そのころの私は建築設計と歴史が好きだったが、小説など書いたことがなかった。中学高校を通じて、漢文は得意だったが、国語や英語は苦手だった。政治にはあまり興味がなく、学生運動にも参加したことがなかった。

 だから将来、自分が作家・評論家になるなどとは思ってもいなかった。そんな私が、文筆に興味を持つようになったのは、通産省に入って通商白書を書いてからだ。特に、一九六二(昭和三十七)年度版の通商白書で発表した「水平分業論」が国際的な評価を得たことである。

◎「好き」こそ「有利」

 「日本には三十年間有利だった職業はない」という。

 終戦直後には石炭産業が繁栄した。一九五〇年代前半には繊維産業や映画会社がブームだった。私が大学に入った五六年の売上高日本一の製造業企業は東洋紡績、株価が高かったのは東宝や松竹である。

 私が就職した六〇年ごろには、ようやく重化学工業が伸び、製鉄、造船などが好評だったし、すぐあとでは石油化学や重電が人気会社になった。しかし、これらの産業の繁栄が長く続かなかったことは、それぞれ解説するまでもあるまい。

 そんななかで、長い間高い評価を保ったのは大手銀行である。製造業や流通業には波はあるが、銀行だけは大丈夫と思い込まれていた。だが、その銀行も今は大ピンチ、日本長期信用銀行や日本債券信用銀行は国有化された。「北海道では最高の就職口」といわれた北海道拓殖銀行もすでになくなった。その他の銀行も、多くは厳しいリストラに直面している。

 職業は「有利」よりも「好き」で選ぶべきものだ。「秀才」といわれた者ほど「会社人間」の人生になりやすいのは「有利」な職場を選ぶからだ。

 「有利」と思って入った職場が時代の変化で「不利」となったら、失望が大きい。「好き」で選べば、不利になっても「好き」が残る。そのぶん熱心にもなれるし、上達もする。どんな小さな分野でも、その道の名人上手になれば尊敬と満足は得られる。それこそが人生の「有利」ではないだろうか。

週刊朝日2007.8.17P21

細川護熙元首相の宰相論

ー首相にとって大事な資質はなんですか?

細川 「歴史感覚」を持っていることがまず重要です。国際関係では、特に距離感の保ち方が大事ですから。経済の潮流や大国の動きを、歴史の波長に照らして感覚としてつかむことが必要です。

 二つ目は「無私」ということでしょう。「私」があると、ものが見えない。先が読めない。ポストに就きたいとか勲章をもらいたいと思っている人は、危なくて大臣などに任命できません。中国の宋代の『名臣言行録』には「人を挙ぐるにはすべからく退(たい)を好む者を挙ぐべし」とあります。高位に就いても常に退くことを考えるような人でないと、天下国家の大事はとても任せられるものではないという意味です。これこそ組閣などの重要人事を考える上でいちばん大事な基準だと思います。

 三つ目は「跡なき工夫」ということです。上杉鷹山や西郷隆盛といった人たちは、破れ畳、破れ障子のような住居で、国家国民のことだけを考え、功業をなした。功名を後世に残すようなことはいささかも考えなかった。だから大きな仕事ができたのでしょう。

 四つ目は「ロマン」があるかどうかということです。アイデアリズム(理想主義)と言ってもいい。例えばケネディとクリントンを比べると、ケネディはそのアイデアリズムが多くの人を引きつけました。クリントンは現実政治家で、したたかだったけれど、遠くを見つめて、心に訴えかけてくるものはありませんでした。

「ヒトのからだー生物史的考察」三木成夫、うぶすな書院、1997

p182「三木成夫『ヒトのからだ』に感動したこと」 吉本隆明(院長註:日本の言論界を長年リードしてきた文芸評論家。作家よしもとばななさんの父。こんな有名な方も三木先生に感動されていたのですね。驚きです。)

 

(前略)わたしにとっては、「ヒトのからだ」について微細な専門的な知識を教えられたことよりも、この本の著者の根本的な考え方の方法を与えられたことの方が重要だった。一口にいえば、ある事象とか現象とかが眼のまえにおかれたり、あらわれたりしたとき、その事象や現象が、その形、その位置、その容量と機能で、のっぴきならない形でそこにある(あらわれる)のはどんな根拠からかという理由を、発生のはじめ(原初)にさかのぼってたどると、どうしてもその経路をへる以外になかったことがわかる。そしてそれ以外の経路をたどることがなかった連鎖のひとつひとつは、かならず見つけだすことができるということだ。以前にダーウィンの『種の起源』からもこれに類似した方法で、単細胞生物から高等な脊椎動物にいたるまでの進化の過程が必然の糸のようにたどられてゆく過程を読んで、感服させられたことをおぼえている。いわば近代が生物の自然について、飛躍的な認識をもつようになった偉大な啓蒙期のひとつの象徴であった。三木成夫は生物の発生学の考え方と、形態学の考え方を正確に組み合わせて、「ヒトのからだ」について繊細な方法論に到達したことになるのだとおもう。わたしは歴史の哲学や、歴史の発展を分類する原理や、文学、芸術作品の歴史についてなら、マルクスや折口信夫の考え方から、それを知っていた。だが「ヒトのからだ」の成り立ちについて、植物や動物の「からだ」を含めて、生物の全般に流通できるおなじ考え方がありうることを披瀝している学問の哲学者が存在することを知ったのは、わずか数年まえ、三木成夫の本に接したときであった。こんな人が日本にいたのだということに、いたく感動させられた。学問は知識の拡大ではなく、自明なことを根拠のうえにのせる創造の作業だということを「ヒトのからだ」について方法的な明確さによって成就してみせている。これに驚かなかったらうそなのだ。これは三木成夫の思考法にどんな弱点があるとしてもくつがえることはないとおもう。(後略)

「ヒトのからだー生物史的考察」三木成夫、うぶすな書院、1997

p211解説「三木形態学と『現実学』」吉増克實、医学部20回生(精神医学)

(前略)知的ゲームとしての生物学とテクノロジーの下僕と化しつつあるかに見える医学には心弾まず、ただ医のこころの予感だけに生きていた日々に、三木先生に出会いその講義を受けたことは、ひとかたならぬ衝撃であった。その衝撃はいわば「三木体験」と呼ぶよりないものとなって今日に至るまで僕を包んでいる。何よりも、そのような認識のかたちがあるのだということに驚かされ感動したのだ。自分が求めていたものに、初めて「学」と呼びたいものに出会ったような気がしたのである。

 解剖学の講義は二年の教養部生活からようやく医学部の専門課程に進んだばかりの頃に行われる。解剖学総論の最初の講義の時間、三木先生の「土管の輪切り」の絵とアリストテレスの「入れて出すのが生物である」と言う言葉とともに始められた感覚ー伝達ー運動の動物性器官系と栄養ー循環ー排出の植物性器官系という予想もしない話に驚かされた。講義の後に教室の片隅に座って悠然とタバコをくゆらせていた先生の姿が今でもありありと思い出せるくらいだ。講義は、やがて解剖実習の始まりとともに実習講義へと移ったが、講義の進行につれ、僕の驚きは感動に変わっていった。先生のお話は、いわゆる理科系の勉強に親しんできた医学生にとって、自然科学的な慣れ親しんだ見方とは全く異なる、自然と人間への新たな目を開いてくれるものとなった。解剖学実習はほぼ一年間をかけて行われる大変な作業であり、正規の実習時間だけではこなしきれない学生のために解剖学実習室は夜遅くまで明かりがつけられ開放されている。黙々と解剖に取り組む学生で日頃はむしろ静かな実習室がにぎわうのが三木先生の実習講義の時間なのだ。三木先生の名調子に笑いとどよめきが繰り返されるその時間は、また物のごとく横たわる死体が、悠久の地球の歴史を秘め、生命の神秘をたたえた偉大な自然へと変身していく魔法の時間でもあった。(後略)

 

(院長註)古い名簿によると、この文章を書かれた吉増先生が医学部20回生、熊本大学医学部第三内科冨田公夫教授が医学部21回生、鎌田實先生が医学部22回生、熊本市開業慶徳加来病院の加来裕先生が医学部23回生となっているようです。歯学部15回生の野田和生先生には三木先生の話をお聞きしましたから、確実に授業は受けられているようです。医学部14回生の野口先生はどうでしょう。先輩達にお会いしたら「伝説の講義」についていろいろ話をお聞きしたいと思っています。ちなみに院長は歯学部34期生です。

 キツネが木になっている葡萄を見つけた。高い所にあるので何度飛びついても届かない。あきらめたキツネが「どうせ酸っぱいんやろ。食べてやらんわ。」と言って立ち去ったそうです。sour grapesは「負け惜しみ」の意味だそうです。

 少し古くなりましたが、「勝つことのみが善である 宿沢広朗 全戦全勝の哲学」永田洋光、ぴあ、2007という本を読みました。

 大学時代には2年連続日本一を達成した早稲田のキャプテンで、強豪スコットランドから大金星をあげたラグビー日本代表の監督で、世界と渡り合った三井住友銀行の凄腕バンカーとして専務取締役まで登りつめ、行員の間では、頭取待望論もあった中、2006年に55歳で亡くなったラグビー界伝説の男宿沢広朗さんを紹介した本です。

 長男の宿沢孝太さんが東京慈恵会医大ラグビー部で、関東医歯薬リーグでプレーされていたことを初めて知りました。多分、東医体(東日本医学生体育大会)の決勝だと思いますが、息子さんの応援に宿沢さんが観戦に来られていた話を読んで親近感を持ちました。

 家庭画報の仕事で、吉永小百合さんと早大グラウンドで取材を受けて、掲載されたページを銀行員達にうれしそうに見せて回っていた話を読んで、少しうらやましく、微笑ましく思いました。

 表題が少し誤解を受けるかもしれませんが、宿沢さんは中学時代から大正製薬の社是であるそうな「勝つことのみが善である」を座右の銘にされていたそうで、勝利のために出来る限りあらゆることをやるという意味だそうです。ラグビーでもビジネスでも超一流の生き方をした男の基本哲学だそうです。

P194「ともすれば『勝利至上主義』の誹(そし)りをまねきかねないこの考え方は、個人の名誉ー自尊心という言葉にも置き換えられるーにかけて、あくまでもルールは破らないという一点を矜持(きょうじ)にすることで、『勝利至上主義』』と一線を画している。」

(院長註:ルールは破らないと言うとかなり限定的になります。自分の良心に恥じることのない範囲でとか、後ろめたくない範囲で、という意味だと思います。)

「延長された表現型」R.ドーキンス、日高敏隆ら訳、1987、紀伊国屋書店

P399(前略)劇的なのはコクヌストモドキ族(Tribolium)の甲虫の幼虫で、それは胞子虫(Nosema)に感染すると、通常は成虫へ変態できなくなる。そのかわり、コクヌストモドキの幼虫は成長を続け、幼虫脱皮を六回もやって、対照である非感染幼虫の二倍以上も重い巨大な幼虫に成り果てる。

P409たとえば原生動物の合成した幼若ホルモンによって引き起こされるコクヌストモドキのピーターパン・シンドロームがそんな例だ。

 

(院長註)ピーターパンはいつまでたっても大人になれない。R.ドーキンスが執筆当時、心理学用語として「成長することを拒む男性」のことをピーターパン・シンドロームと呼ぶのが流行っていたようです。それを転用して使ったようです。

 それにしても皆さん、ネーミングが凄過ぎます。

 古い文章を探しているとこんな言葉にも出会いました。

 1973年リー・ヴァン・ヴァーレン(米)によって提唱された進化に関する説。

 ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」の中で、チェスの赤の女王がアリスに「この国では、同じ所に留まっていたいと思ったら、力の限り走り続けなくてはならないんだよ。」と言ったことから名付けられたそうです。

 種の保存のため、変異していく病原体に対抗していくためには、オスとメスが絶えず遺伝子を混合しながら進化し続けなければならないという考え方。

 古い文章を探しているとこんな言葉に出会いました。コンビニの前などで地べたに直接座っている若者たちのことだそうです。ベジタリアン(菜食主義者)に似て非なる言葉です。エイリアン(異星人)的な響きもあります。うまいなあと思いました。

週刊朝日2005.2.11P38「アクション映画の明日はどっちだ」マット・デイモンVS福井晴敏
 ひさびさに硬派なスパイ映画「ボーン・スプレマシー」に主演のマット・デイモンが来日、無類の映画マニアで今年、『終戦のローレライ』『亡国のイージス』『戦国自衛隊1549』の3作品が映画化される作家、福井晴敏さんとハードなアクション映画のあるべき姿を語り合った。
(略)

P41 

デイモン つい最近もアメリカで、11歳の少年が学校で銃を乱射する事件があったのですが、警察へ連行された少年は夜になると警官に「僕、もうママのところへ帰るよ」と言ったそうです。結局、この子は銃で何人も殺していながら、その行為の意味がわかっていない。

 その意味で自分がバイオレンス・アクションのある映画に出るときは、かならず暴力行為が、どのような結果をもたらすかを見せるように気をつけています。
 いまのアクション映画では、ジェームス・ボンドが典型的ですけど、人を殺した後に笑っていたりして、あたかも殺人がカッコいい行動であるかのように見せている。つまり殺されたのが観客と同じ人間であるという関連づけがなくなっています。しかし自分の出る映画はあくまで自己防衛のためで、しかもかならず、その暴力がどれほど嫌悪すべき行為であったか表現するようにしています。
 (略)
福井 子どもへの影響だけでなく、たとえば軍隊で昔、射撃訓練の標的が同心円型だったころは戦場での対人発砲率が2割ぐらいで、わざと外して撃っていたらしいんですね。本来、それぐらい同族の命を奪うことに対する抵抗感が植えつけられているわけですが、ベトナム戦争のとき、いきなり発砲率が9割に跳ね上がったといいます。なぜかというと、射撃訓練の標的を人型に変えていたからだそうなんです。逆にいえば、その程度のことで人間は簡単に抵抗感を突破できてしまう。そうなると映画だけでなくテレビゲームでも人をバンバン打つような内容のものは、子どもに無意識にそういう抵抗感を失わせる訓練をさせているようなものです。

「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である。」二宮尊徳

 週刊朝日2007.8.31P61親子のカタチ61

 銀座久兵衛二代目今田洋輔(62)

 天職っていう言葉があるけど、すべての職業を経験して結論を出すわけにはいかないからね。僕はこの歳になって、しばらく前から今の仕事が天職だと感じつつある。お客さんと話したり、美味しい料理を出して喜んでもらうのが根っから好きなんだよね。それで生き甲斐も感じられる。だから天職っていうのは、探して得られるもんじゃなく、自分で努力してその仕事を天職にしていくものなんだと思う。

 「新ヒトの解剖」井尻正二+後藤仁敏、築地書館、1996、p115

 不思議なことに、胃と結腸は神経でむすばれていて、私たちが食べものをたべて胃がうごきだすと、つられるように結腸もうごきだして、中身が直腸に送られる。

 

(院長註)意識のない寝たきりの患者さんの口腔内を歯科衛生士さんがブラッシングして差し上げると、こちらにも聞こえるぐらい、患者さんのお腹がグリュグリュ鳴り出すときがありました。口が刺激されることによって、腸が活動を始めたのか、臓器の連動性を感じる時がありました。

 「唯臓論」後藤仁敏、風人社、1999年P115

 (前略:院長註:男性の)排尿の我慢と実行は、交感神経・副交感神経・脊髄神経の三つによって支配されていることになる。健康な状態では、これらの神経がうまく機能して、スムーズな排尿がおこなわれるが、時にこれらの神経の働きが混乱し、膀胱に尿がたまっていてもうまく排尿できなかったり、逆に膀胱がからっぽでも排尿したくてたまらないことが起こる。
 そんな時、同じような神経支配の唾液を口から排出すると、それにつられるかのように、排尿がうまくいくことがある。三木(院長註:成夫)氏は、この現象を、唾液腺と腎臓が「入−出」の双極的な位置に配列しているからだと述べている。事実、男子トイレで観察すると、かなりの男性が排尿の前に唾を吐いているではないか。うそだと思ったら、ためしてみるがよい。あなたもきっとそれを認めるようになるにちがいない。

 ぼんやりとテレビを見ていたら歯磨き粉のCMに同級生が出て来て驚いたことがあります。

 http://www.youtube.com/watch?v=trQ8dhdrtR4

 日本IBM健康保険組合予防歯科室勤務の加藤元君です。加藤君は出席番号が一番前で、6年間ずっと隣の席だった気がします。彼は東京の私立暁星高校の出身で、「フランス語で受験したので、英語が苦手」と言っていました。鉄道オタクだそうで、「阿蘇のスウィッチバックを乗りに来た」と渡辺功君(名古屋市中村区渡辺歯科医院開業)と熊本まで泊まりに来た事もあります。

 同級生では関文久君(日本IBM大和事業所歯科診療室勤務)も同じCMに出ていたはずなのですが、映像が見つかりません。

 出席番号が一番後の山室(旧姓菊池)直子さん(東京練馬区山室歯科医院開業)は帰国子女で英語がペラペラでした。バイリンガルでした。出席番号がもう少し後の近藤修司君(東京中央区三和歯科医院開業)は東京の私立独協高校の出身で、「ドイツ語で受験したので、英語が苦手」と言っていました。

 フランス語にドイツ語、バイリンガルと、とまどった覚えが院長にはあります。

 一応リンクを貼ったつもりですが、つながらなければ、You Tubeで「加藤先生 シュミテクト」で検索してもらえれば見られます。

 解剖の三木先生が気になって調べているうちに、芸大時代の三木先生の様子を伝える次の文章に出くわしました。芸大生に生物の講義をしてスタンディング・オベーションって、何なのそれ、と言う感じですが・・・。実際、1年単位の講義を、単位の取得に関係なく、4年間聴き続けた学生もいたそうです。

現代思想1994年3月号・青土社・特集「三木成夫の世界」

「三木生物学なんて知ったことじゃない!」丹生谷貴志(にぶや・たかし 1954・昭和29年東京生 神戸市外語大教授 美学・表象論 東京芸術大学美術学部芸術学科卒 同大大学院美術研究科西洋美術史修了)

 知る人も多いだろうように、先生は東京芸大の校医を勤めるかたわら美術部で生物学の講義をもっていらっしゃった。その講義の(或いは先生の存在の)幻惑的と言ってよい魅力はたとえようもないもので、出席をとらない授業なんかに出るくらいならアトリエで仕事をすることを当然のように選ぶ実技の学生たちが先生の講義に限っては絵の具や石の粉にまみれた姿で集まり(驚いたことにノートがわりのスケッチブックまで持って!)、美術部で一番大きな階段教室はいつもテレピン油や石粉の乾いた匂いで満杯になった。先生の有名な美しい手書き図版のスライドを交えた授業が始まると、誰もが知るようにスライド授業というのは何故か眠るのに最適な環境を構成するのだが、先生の授業はまるでディズニー映画が始まったときの子供たちのように学生たちは文字通り息を呑むような熱気と沈黙でスクリーンを注視するのだった。それは本当に図版と先生の存在とそこから流れ出る不思議な言葉からなる映画のようで、講義が終わって照明が点き、先生がゆっくりと煙草に火を点けて燻らすと、ほとんどスタンディング・オベーションのようにして学生たちが拍手をし始めることさえあった。その拍手に先生は少し照れたように微笑んで挨拶をし、黒板横の教官用のドアから出ていかれるのだった。少なくとも私が講義に出席していたころはいつもこんな具合だった。

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