悲観論は言いやすく、楽観論は言いにくい

「日本経済の反発力 突破口はこんなにあった!」日下公人、徳間書店、1999

10ページ 悲観論はなぜ間違うのか

 長引く不況のため、日本人にはある種の敗北感が蔓延している。ビッグバンをきっかけにして欧米の金融機関が日本に進出してきたこともあって、経済敗戦、あるいはマネー敗戦とも言われる。まるで日本は敗戦国といった雰囲気が漂って、悲観論ばかりが幅をきかせているが、この悲観論がくせものである。結論を先に言えば悲観論は必ず間違う。悲観論がどれだけ間違っているかについてまず考えてみよう。
  まず第一に、悲観論は当たらない、楽観論は当たる、と言える。悲観論は目先は当たるかもしれないが,長い目で見れば当たったためしがない。

  例えば、日本経済はアメリカにやられてどんどん悪くなるという人がいるが、アメリカが日本叩きをして、日本の経済が悪くなっていくと、アメリカもその返り血を浴びる道理で、その結果両方が悪くなっては元も子もない。だからアメリカもそう叩かなくなるから、結局、経済はバランスしていく。

  このように悲観論には、日本もアメリカも双方が反省して変わるという視点が抜けている。簡単に言えば、人間は気がつけば考え方を変えて努カするものだから、それを忘れてはいけない。

21ページ  次に悲観論が間違いやすい第二のポイントは、悲観論は言いやすいが、楽観論は言いにくい、という事情がある。まず、悲観論が言いやすいのは、いかにも世の中を心配しているように聞こえ、悲観論を言う人がまるで立派な人のように見えるからだ。楽観論は逆に、世の中の人を油断させて、世の中を悪くするようにとられてしまうことが多い。(中略)そのほかに、悲観論が言いやすいのは、悲観論ははずれても叱られないが、明るいことを言ってはずれたら怒られる。だから責任逃れのためには悲観論を言っておくのが手堅い手法というわけである。(中略)
  悲観論の誤りの第三ポイントは、悲観論は賢く見える、ということだ。まず、悲観論は理屈がつけやすい。簡単にいうと、過去の統計が使える。楽観論は統計もなく、来年は明るいなんて言うから、阿呆に見えてしまう。来年を示す統計はないから、現在までのデータをもとにそこにひそむ危険だけをみて警告する方が手堅くてよい。悪い徴候を見逃したらたいへんだ。さきほど言ったように、サラリーマンとしては責任逃れ、わが身かわいさから、手堅くやっておけということになる。だから理屈のあることしか言わない。証明できることしか言わないと、えてして暗くなる。科学的な方法を使うとそうなるようにできている。
 そもそも科学はどうして誕生したかというと、科学誕生以前にヨーロッパを支配していたのは、カソリックだった。カソリックの教義をつきつめて言えば、「神を信じれば、みな救われる」である。本当に皆救われるのか、そこを疑ったところから科学が始まった。近代科学の祖と言えば、まずデカルトがあげられる。そのデカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言ったが、あの「我思う」という言葉の意味は、「教会の断定的な教義を疑う」ということから出発して、本当に確実なものは何なのかといろいろ考えていくと、最後に「我思う」ということだけは疑えないという境地に至るわけだが、そもそもの始まりは「我疑う」だった。
 科学で確かなことだけ言おうとすると、それは要するに楽観論を疑ってみるという話になる。楽観論の根拠を崩して、確かなものだけを積み上げて、それでも大丈夫となって初めて本当の安心ということだ。(後略)

 

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