脳科学者アントニオ・R・ダマシオ

日本歯科医師会雑誌Vol.73No2 2020-5P2

体と心の5億年(2)

脳科学者アントニオ・R・ダマシオ 解剖学者・美術評論家 布施英利

 「体と心の5億年」というテーマで連載をしているが、前回は解剖学者・三木成夫(1925~87)

を取り上げた。ふつう、意識というのは”脳”にあると考えられていて、それはその通りなのだが、三木はそれとは別に、内臓に、”心”というべき働きがあると考えた。私たちは複雑な心を持って生きているが、そのすべてを脳が生み出しているわけではない。それどころか、心の根幹は、内臓の働きに拠っている。そういう考えが、三木成夫の世界だ。

 

 さて、今回は神経科学者・心理学者・脳科学者のアントニオ・R・ダマシオである。1944年、ポルトガルで生まれたダマシオは、やがてアメリカを拠点に研究活動をし、その著「デカルトの誤り」(1994)は世界的なベストセラーになった。今回ダマシオを取り上げることにしたのは、ダマシオの研究・思考が三木成夫の世界に通じるものがあり、三木への理解を補強・強化させると考えたからだ。

 では、ダマシオの研究・思想とはどのようなものか?以下では、彼の主著である「デカルトの誤り」を読むことで話を進めていきたい。

 ダマシオの主張の核心にあるのは「ソマティック・マーカー仮説」というものだ。脳はソマティックつまり身体からの強い刻印と関わりがあり、「脳が生み出す意識や心には、身体との関係が不可欠であるという考え(=仮説)」だ。まさに三木成夫が言う「内臓の働きと心」というテーマそのものである。

 ソマティック・マーカー仮説を理解するには、その前にいくつかのダマシオ特有の用語を知らなければならない。まずは「情動(emotions)」と「感情(feelings)」の違いだ。ふつう、この二つの用語はきちんと分けて考えられてはいない。日常での用法だけでなく、研究者も、その意味を厳密に定義していないことも多い。しかしダマシオは、情動と感情を全く別のものと考える。

 まず情動だが、一般的に考えられているように「喜び、悲しみ、恐れ、怒り、嫌悪」などである。これらは「身体状態反応」で、つまり情動は身体から生じるものと考える。では感情とはどういうものかというと、この情動を認知している状態を指す。つまり感情とは、身体で起こっている情動を、脳が認識しているもの、と考えていい。

 ところが、感情が生まれるメカニズムは、すべて情動を出発点にしているわけではない。脳の中で、感情が一人歩きして、情動を根拠としない感情というものが生じることもある。ダマシオはこういう言い方をする。「すべての情動が感情を生むが、すべての感情が情動に由来するわけではない」。つまり、あたかも身体で情動が生じているかのように、脳を「騙して」感情が一人歩きすることもある。ダマシオは情動的感情に対して、このような感情を、「背景的感情」と呼ぶ。

 ともあれ、ダマシオが考える情動と感情とはそういうものだ。これは何を語っているか?つまり背景的感情は例外にしても、感情や情動、つまり”心”というのは、ある身体の状態を感知することから始まる、という考えだ。『デカルトの誤り』で、ダマシオは、そのような、情動→感情→脳というプロセスが、脳のどこで、どのように生じているか、という脳そのものの構造と機能の説明もする。

 脳そのものの話は、長くなるので省くが、この情動→感情→脳のプロセスの”脳”を狭い機能に限定して”理性”と言い換えてみよう。つまり、情動→感情→理性、ということだ。理性は理性として切り離されたものではなく、感情、さらには情動と、相互に密接に結びついている。これがダマシオの考えるソマティック・マーカー仮説である。

 人が理性によって冷静な判断をする時(していると思っている時)、それは脳の中での情報処理だけでなく、その理性が判断や選択をする根拠に、感情、さらにはそのベースである情動の力が与っている。人は、頭で考えているだけでなく、情動で(つまり身体で)考えてもいる。情動の協力によって、はじめて良い判断というものができる。

 ダマシオは「『冷静な』理性を支えるには身体を基盤にしたメカニズムが必要である。」と言う。そして「理性は少しも純粋でない」とも言う。人は、そうやって(=ソマティック・マーカーによって)生きている。ダマシオは、脳の損傷をした患者などを対象に、様々な実験を行うが、そこでも被検者が「賢い判断」ができるには、情動の助け(つまりただの理性でなく直観)が必要になることを明らかにする。ダマシオは「創造性は直観と理性の融合にある」とも言っている。私たちが、ものを考えるためには、正しい判断をするためには、理性を磨く努力をするだけでなく、情感の力に頼ることも大切なのだ。いや、じつは情感の力に頼っているのだ。

 では、その情感のありかとは、人の身体のどこにあるのか?

 

 特定の反応オプションとの関連で悪い結果が頭に浮かぶと、いかにかすかであれ、あなたはある不快な〈直観的感情〉を経験する。その感情は身体に関するものなので、私はこの現象に「〈ソマティック〉な状態」という専門用語を付した…私がソマティック・マーカーと言うとき、私は内臓的感覚と非内臓的感覚の双方を含めている(デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳(田中三彦 訳,筑摩書房、2010)271ページ)

 

 ここで、とうとう「内臓」という言葉が飛び出した。三木成夫と同様、アントニオ・R・ダマシオも、情動のありかは内臓であると考えているのだ。

 それにしても、なぜ、デカルトは「誤っている」とダマシオは言うのか?デカルトといえば、「心を脳と身体から切り離した」心身二元論の哲学者である。「桶の中の脳」という、身体から切り離した脳が、考えたり心を持っていたりするというSF的なイメージがあるが、このような発想の始まりデカルトで、そのイメージが語るのは脳に(心に)身体は不要ということだ。

 それに対して、ダマシオはそれを「誤り」と断じて、内臓の大切さを説く。ダマシオは言う。「ある種の〈身体性〉なしに、たぶん心というものを考えることはできない」。「我々は、通常思っているよりもはるかに身体全体を意識している」。

 人は、内臓がある存在で、その内臓が心とも関わっている。体の声に耳を澄ますことを、忘れてはいけない。

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