あったら怖い良い政治 批判があるのはいい証拠

あったら怖い良い政治   堺屋太一

批判があるのはいい証拠
2002.4.26
週刊朝日
P45

(前文略?)

  これでまた、政治は当分の間、スキャンダルの後始末に追われることになるだろう。そしてそれが、国民の政治不信をいちだんと深め、日本の将来に対する不安と不信を拡大することにもなりかねない。しかし、これで絶望してはならない。むしろ政治批判が強まることで改革が進み浄化が行われることこそ民主主義のよさである。言論の自由と民主的な制度が機能している国では、どこでもいつでも、政治批判があり、「政治が悪い」といわれている。日本の政治評論家が民主主義のお手本のようにたたえるイギリスやアメリカでも、政治家の金銭やセックスに絡むスキャンダルは後を絶たない。
  今の世界で、「わが国の政治はよい」と国民が口をそろえるのは、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)ぐらいだ。文化大革命のころの中国やスターリン時代のソ連、ナチス・ドイツや戦争中の日本でも、政治は褒められ、政治家はたたえられた。だが、そのいずれもが国民に不幸をもたらす結果になった。
  この世の中で、「よい政治」といわれるものがあったとすれば、怖いことだ。たいていは、何らかの形で批判が封じられた状況だからだ。
◎ 官僚は間違えない、だから怖い
  民主主義の政治はよく間違える。そしてそのたびに批判を浴び、政権が交代する。だから安心であり、信頼できる。これに対して、官僚は間違えない。九O年代初めのバブル景気の崩壊でも、九七年の全融危機でも、最近の不況や牛肉の事件でも、官僚が誤りを認めて、自らのシステムと人事原則を改めたことはない。
  官僚制度の中には「官僚の無謬性」、つまり官僚は間違えない、という建前が入っている。どんなに悲惨な結果を招いても官僚に間違いはなかったと主張する。それはあたかも、太平洋戦争中の将軍や提督が、敗戦のその日まで戦略戦術の失敗を認めなかったのと同じである。誤りを認める者は非難される。だがそれゆえに正しい道に戻ることができる。誤りを認めない者は改めることもない。それゆえに、そのような者に権力を持たせてはならない。人類が民主主義を選んだゆえんである。

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